75.秦朗、赤壁の戦いについて考察する(その3)
すみません、遅くなりました。
建安十三年(208)春。曹操による天下統一を阻止すべく、劉備に仕える諸葛亮と孫権に仕える周瑜・魯粛は、孔明の兄で孫呉に仕える諸葛瑾や孔明の親友で周瑜の功曹として送り込まれた龐統を介して、秘かに連絡を取り合った。
彼ら三人の共通認識はこうだ。
・曹操は袁軍閥を滅ぼして八州を有し、天下の三分の二を掌中に収めて、軍事力では他の群雄を圧倒している。
・しかし中原では歩兵・騎兵による戦いばかりで軍船を使った水戦の経験に乏しい。
・持久戦はまずい。国力に勝る曹操軍に寄り切られて負ける。
・曹操が荊州に侵攻するのは時間の問題だ。劉表を倒せば、次に曹操が狙うのは孫呉に違いない。
そうして三人が出した結論は当然のごとく、
――曹操に水戦で短期決戦を仕掛ければ、勝機あり!
だった。でも、どうやって?
魯粛「今後強まる曹操の圧力を撥ね退けるには、我が孫呉と仇敵の関係にある荊州とが同盟を結んで対抗するしかない」
周瑜「その方針には賛成だが、曹操が荊州に侵攻したら劉表はいつまで抵抗できるだろうか?」
諸葛亮「劉表は病床に伏しておる。もう長くはあるまい。後を嗣いだ劉琮は曹操の圧迫に耐えきれず、降伏するのは時間の問題だろう」
魯粛「ということは、必然的に我が孫呉の同盟相手は劉備将軍となる。新野で荊州の北辺防衛を担当している君たちは、どうするつもりだ?」
諸葛亮「三十六計逃げるに如かずだよ」
周瑜「劉表の死に乗じて荊州を乗っ取らんのか?劉備将軍の得意分野だろうが(笑)」
諸葛亮「……私は何度も説得したさ。荊州を奪って初めて曹操と互角に戦えるのに、劉備将軍は無駄に小義にこだわる愚か者なのだ。だが、今回ばかりはその愚直さが役に立つ」
周瑜「確かに。劉備将軍が荊州に拠って下手に曹操に抵抗すれば、我ら三人が練った必勝の作戦が台無しになる」
魯粛「例の、曹操に水戦で短期決戦を仕掛ければ勝機あり!という作戦か。だが実際、曹操は我々の謀みに乗って来るのか?戦わずして荊州を獲得した曹操に、持久の策を放棄させるのは困難だと思うのだが……」
諸葛亮「心配ない。人は強力な武器を手にしたとたん、使ってみたくなる衝動に駆られるものだ。幸いなことに、江陵には荊州水軍の軍船が数千隻ある。これを曹操をその気にさせる釣り餌とする」
魯粛「なるほど。しかし、敵に強力な武器を大量に渡すわけだろ。本当に曹操に勝てるのか?張昭の爺イの懸念が杞憂になればよいが……」
周瑜「俺に任せろ。孫呉の水軍は最強だ。
八十万と号しても、曹操が率いておる兵の実数はせいぜい十五,六万。しかもその兵どもは遠征が長く続いたせいで疲れ果てておる。加えて荊州で手に入れた旧劉表の軍勢も七,八万どまりで、必ずしも曹操に心服しているわけではない。
いくら人数ばかり多くても、水戦に慣れておらず、士気の奮わぬ兵を率いて戦いに臨むのだから、まったく恐れるに足らない(『江表伝』)」
魯粛「分かった、君を頼りにしてるぞ」
周瑜「気になる点がある。曹操は兵法に長じておる。江陵に荊州の軍事拠点があるのは有名なのに、我らが江陵を占領せずに放置していれば、さすがに罠の可能性を疑うのではないか?」
諸葛亮「劉備将軍を囮に使おう。
曹操の仇敵である劉備将軍が江陵を占領して、南下する曹操軍と対決するつもりだと偽報を撒けば、必ずや曹操は食いつく。劉備一行は実際に南へ逃げているのだ。追撃を命じて途中で撃ち破り、そのまま進軍して軍事拠点の江陵を占領する。狙いどおり軍船数千隻を手に入れることができたと曹操は慢心増長するはずだ」
魯粛「しかし、君の主君を危険な目に遭わせるのは……」
諸葛亮「問題ない、私の提案した荊州乗っ取り作戦を拒絶した罰だ。それに劉備将軍は負け戦に慣れておる。当陽からの逃走ルートを私があらかじめ準備し、我らを収容するための船を漢津で待機させておく。長阪に架かる橋を落とせば、曹操軍の追撃を断ち切ることも可能だ。その代わり、我ら劉備軍との同盟締結を確約してくれ。また当面の避難先として、江夏郡の夏口城を確保させてもらおう」
周瑜「分かった。先日、江夏の黄祖を討伐して滅ぼしたばかりだが、夏口城は君たちに貸してやる」
魯粛「そこまで上手く事が運べば、いよいよ僕の出番。孫権将軍への説得は、僕にお任せあれ。必ずや曹操との対決に舵を切らせてみせる」
諸葛亮「よろしく頼む。孫権将軍と劉備将軍が同盟を結ぶために、私も孫権将軍のもとを訪れよう」
魯粛「たいへん心強い。細かい打合せは夏口で会った時に行おう」
周瑜(劉備は梟雄だ。孫呉の水兵だけで曹操を撃退してみせる。正直、曹操を誘き寄せる囮の役割を果たせば、劉備は用済みなのだが……曹操の天下統一を阻止するために我ら三人の連携は不可欠。ここは我慢しよう)
という謀略ではなかったか?
さて、当陽で曹操軍に追いつかれた劉備は、
――諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎とともに逃走し、脇道へ逸れて漢津に向かい、たまたま関羽の率いる船と出会って漢水を渡ることができた。また江夏太守の劉琦の兵一万と出会い、ともに夏口へ到着した。(『蜀志先主伝』)
地図をご覧あれ!当陽は襄陽から江陵に向かう街道沿いにある。長江の支流である漢水は、襄陽から漢津まで街道に沿ってほぼ南に向かって流れている。ところが、漢津を過ぎれば雲夢沢の泥湿地に阻まれ、流れの向きを急に東に変えて江陵から遠ざかり、夏口で長江に合流する。
当陽から漢水の渡し場の漢津までは、長阪橋を渡れば劉備一行数十騎(←つまり彼らは馬に乗っている)にとっては至近の距離なのだ!
このような地理を頭に入れて、もう一度先の『蜀志先主伝』を読み直して欲しい。
漢津でタイミング良く関羽の率いる船と出会う(原文:適与羽船会)のは偶然だろうか? オレは決してそうではないと思う。
「軍事拠点の江陵に向かい、ここを占領して曹操に対抗する」と勇ましく宣伝する劉備軍。なのに一日の進軍はたった十里あまりという矛盾。まるで曹操軍の軽騎兵に当陽で追いつかれるのを待っているかのように。
何故か?江陵の軍事拠点に曹操の目を向けさせ、劉備に占領されるより前に江陵の軍船を手に入れなければならないと焦らせるためだ。冷静さを失えば、判断を誤りやすい。
また劉備軍にとっては、始めから当陽を起点として→長阪→漢津→夏口という安全な逃走ルートを確立しているのだ。
予定どおり、張飛が長阪橋を落として曹操軍の追撃を断ち切る。
長阪から漢津へは、馬に乗る劉備一行にとっては至近距離。一刻もあれば、漢津へ到着するだろう。
関羽には別動隊として船で進軍させ、前もって漢津の渡し場で待機するよう命じ、長阪で曹操軍の追撃をふり切った劉備一行を収容した上で夏口へと向かう。
夏口は、諸葛亮が劉表の息子の劉琦に策を授けて江夏太守に志願させ、安全な避難先として確保している場所。関羽の兵一万+劉琦の兵一万で合計二万。周瑜率いる水兵三万と比べて遜色ない。そして魯粛と劉備は同盟の条件について協議する。
すべて繋がっているのだ!
長阪橋で劉備を取り逃がした曹操軍の軽騎兵は、そのまま進軍して江陵を占領する。案の定、荊州水軍の軍船数千隻を手に入れた曹操は、“王者の戦い”を捨て、孫権との対決を選んだ。
その結果、
――劉備は諸葛亮を派遣して孫権と同盟を結んだ。孫権は周瑜・程普ら水軍数万を送って劉備と協力し、曹公と赤壁で戦い大いに討ち破ってその軍船を燃やした。劉備と孫呉の軍は水陸並行して進み、追撃して江陵に達した。この時疫病が流行し多数の死者が出たため、曹公は撤退して許都に帰還した。(『蜀志先主伝』)
というわけで。
筆者の推理は、諸葛亮と魯粛と周瑜が手を結び、曹操と対抗するための策を仕組んだというありふれた結論になりました。
まあ、
①曹操に“持久戦”を放棄させ、“水戦での即時決戦”を決断させるために、わざと江陵の軍船数千隻を手に入れさせた。
②曹操に毒饅頭(軍船数千隻)を食わせるために、逃げる劉備を囮にして江陵に目を向けさせた。
という箇所が、筆者のオリジナルですかね!?
さて、この推理どおりだとすれば、曹操は江陵を手に入れるまでは徳によって孫呉を降伏させる“王者”の道――戦わずして勝ち、攻めずして領地を得、武器を使わずして天下を帰服させる(『荀子』王制篇)――に従っていたのだろうと思います。
だから、劉備将軍に付き従って南へ向かう無辜の領民十万が曹操軍に蹂躙されたという記述は、正史『三国志』の中にはどこにも書かれていません。
むしろ、「曹公は荊州の吏民に布令を下し、過去を清算し更始を与にせんと宣言した」という記述が光ります。
とすると、曹操軍が当陽で劉備に追いついた時、付き従う十万の民衆の群れを蹴散らし無差別に殺戮したというのは、曹操悪玉史観に毒された三国志演義のデタラメな作り話ではないか?というのが一点。
もう一点は、徳によって孫呉を降伏させる“王者”の道は、賈詡や荀彧が献策していた作戦だったのでしょう。ところが曹操はこの作戦を捨て、孫権との“水戦での即時決戦”を選択し、そして赤壁で大敗した。その結果、曹操の力を利用して、後漢の復興を図ろうとしていた荀彧の構想が水泡に帰してしまった。せっかくオレが立ててやった作戦を無視し、自分で墓穴を掘ったおまえなんか知るか!と荀彧激オコ。これに曹操逆ギレ。……という流れが曹操と荀彧の蜜月が破綻した大きな原因となった、と言えると思います。
もう少し続きます。