74.秦朗、赤壁の戦いについて考察する(その2)
ここで赤壁の戦いで曹操を破った英雄・周瑜の伝を見てみよう。
建安十三年(208)九月、曹公が荊州に侵攻すると、劉琮は州を挙げて降伏した。曹公は荊州の水軍を手に入れたため、船兵と歩兵は合わせて数十万となり、孫呉の将兵はこれを伝え聞いてみな恐れを抱いた。張昭や秦松ら孫呉の群臣は、
「曹公の本性が豺虎であることは承知していますが、漢の丞相という名分を振りかざし、天子を擁して四方を討伐しております。朝廷の意向を掲げているため、無下に拒むことができません。
かつて我が孫呉が曹公の侵攻を阻止できる絶対の防衛線として長江がありました。いま曹公は荊州を降してその威は州を奄い、劉表が支配していた水軍の闘艦・艨衝は数千隻に上ります。これを曹公がすべて掌中に収めたのです。
曹公が手に入れた軍船すべてを長江に浮かべて下流の江東に攻め寄せれば、長江の天険はもはや我らのみに有利に働くわけではありません。また、曹操軍と我が孫呉軍の勢力の差は歴然としており、論ずるまでもありません。かくなる上は、曹公を迎え入れるしかないでしょう」
と降伏論を唱えた。周瑜は毅然と反論し、
「そうではない。曹操は漢の丞相の名を盾にしておるが、その実、漢に仇なす賊徒にすぎぬ。今こそ我ら孫呉の軍が天下に先駆け、漢室にはびこる害悪を退治しなければならない。
ましてや曹操は愚かにも江東に攻め入る決断を下し、自ら死地へ飛び込んで来たのだ。脅しに屈してこれを迎え入れる道理などあるはずがない。いま、中原の者が得意とする騎馬を捨て、船で呉越の将兵に勝負を挑んで来た。孫呉にとってまたとない僥倖ではないか!
北方の地はいまだ安定しておらず、馬超や韓遂が健在で曹操の患いの種となっている。さらに、中原の軍勢を駆り立てて遠く水沼地帯を跋渉させるとなれば、将兵は風土に慣れずきっと疫病が生じるだろう。
これらは兵法の説く禁忌であるにもかかわらず、曹操はそのすべてを犯して戦に走ろうとしている。曹操を捕虜にするのも今日明日のことであるに違いない。
孫権将軍よ、願わくばこの周瑜に精鋭の兵三万を預け、兵を進めるご命令を下してください。必ずや曹操を討ち破ってご覧に入れましょう」(『呉志周瑜伝』)
オレが不思議に思うその2は、
「馬を捨て船で呉越の将兵に勝負を挑むのは、中原の者が得意とする戦法ではない(原文:捨鞍馬仗舟楫与呉越争衝、本非中国所長。)」にもかかわらず、どうして曹操は江東の孫権に水戦で勝負を挑んだのか? ということだ。
水戦を得意とする敵の土俵に敢えて上がり、雌雄を決しようとした曹操。それは当然ながら、水戦でも勝てると踏んだために違いない。曹操の自信はいったいどこから来たのだろうか?
史実では、江夏の黄祖を滅ぼしたのが同年の春。だから孫権側が自分たちは弱いと偽装し、曹操がそのフェイクに引っ掛かったとは考えられない。そうではなく、曹操が水戦で絶対的有利となる武器を手に入れたためと見るべきだ。上記『呉志周瑜伝』には、
――劉表が支配していた水軍の闘艦・艨衝は数千隻に上ります。これを曹公がすべて掌中に収めたのです。
と孫呉の群臣が憂えたとある。つまり、絶対的有利な武器とは数千隻もの軍船のことである。では、曹操はそれをどこで手に入れたのか?
『蜀志先主伝』によれば、
曹公は江陵に軍需物資があることから、劉備がここを占拠することを恐れ、輜重を後方に放置したまま精鋭の騎兵五千で追撃した。
すなわち曹操は荊州の江陵で、劉表の残した水軍(闘艦・艨衝)を掌中に収めたのだ。ただし「数千隻」というのは、中国史特有の白髪三千丈的譬えのとおり、おそらくオーバーな表現である。仮にその10分の1が実数だとしても数百隻だ。
それだけの軍船があれば孫権軍を数の力で圧倒できる!……そう曹操が判断を誤ったのも無理はない。
かくして曹操は「戦わずして勝つ」という賈詡の戦略を捨てた。(原文:太祖不従、軍遂無利。)
ここで第三の謎が生じる。
江陵がそれほど重要な荊州の軍事拠点であるなら、劉備はどうして先に江陵を占領しなかったのか?
チャンスはいくらでもあったはずである。現に『蜀志先主伝』には、
劉備が南方へ逃げ出し襄陽を通過した時、諸葛亮が「劉琮を攻撃すれば荊州を支配できる」と進言したが、劉備は「俺には忍びない」と言った。劉琮の側近や荊州の領民は多く劉備に帰順した。
当陽に着いた頃には十万の民衆が付き従い、一日の行程は十里あまりにしかならなかった。そこで別に関羽に命じて数百隻の輸送船を率いて江陵で落ち合うことにした。或る人が「速やかに行軍して江陵を保持すべき|です。今、民衆は大勢抱えていますが兵卒はわずかですから、もし曹公の軍隊がやって来たらどうやって抵抗するのですか?」と尋ねた。劉備は「民衆は俺に身を寄せているのだ。見棄てるに忍びない」と答えた。
軍事拠点である江陵の重要性が分かっている者も、劉備軍の中には存在したのである。なにより劉備自身が関羽に別隊を率い、江陵で落ち合おうと命じているではないか。
にもかかわらず、劉備は一日に十里あまりしか進軍しなかった。日本の一里(=4km)ではない。中国の一里(=約400m)で換算すれば、一日にたった約4kmしか進軍していないのだ。明らかに奇妙ではないか!
なお、民衆を連れての行軍だから進軍が遅いのは当然だとの反論は成り立たない。別隊として関羽に船で江陵に向かわせたように、軽装の兵千人を別に遣って先に江陵を占領させればよいからだ。事実、曹操はそうした。
曹公は江陵に軍需物資があることから、劉備がここを占拠することを恐れ、輜重を後方に放置したまま精鋭の騎兵五千で追撃した。一昼夜に三百里の快足を飛ばして当陽の長阪で劉備らの群れに追いついた。(『蜀志先主伝』)
史実では、軍師の諸葛亮も徐庶も劉備らと一緒に行軍していたという。知恵者の彼らがそんな簡単なことを思いつかぬはずがあるまい。
以上、三つの謎を踏まえてオレの推理はこうだ。
劉表が残した江陵の軍船数千隻を釣り餌にして、これを手に入れた曹操に戦わずして勝つ“王者の戦い”や“持久戦”を放棄させ、ただちに孫呉と水戦で決着をつけようと判断を誤らせたのではないか?
では、誰がその釣り餌(罠)を仕掛けたのか?
――諸葛亮と魯粛それに周瑜を加えた三人が、である。
もとより、これは確たる証拠のないただの推理にすぎぬ。だが、それを匂わせる記述がないこともない。
諸葛亮は劉備に会う以前から、将来の見通しを立てていた。
――曹操は百万の軍勢を有しており、天子を擁立して諸侯に号令を掛けており、実際に対等に戦える相手ではありません。孫権は江東を領有しており、これは味方とすべきで敵対してはならない相手です。(『隆中対-蜀志諸葛亮伝』)
――劉備が夏口まで来ると、諸葛亮は「事態は切迫しています。命令をいただければ孫権に救援を求めたいと思います」と進言した。(『蜀志諸葛亮伝』)
すなわち劉備は江東の孫権と同盟を結び、ともに曹操に当たろうというのである。
一方、孫呉の魯粛も同様の構想をすでに持っていた。
――劉備は天下の梟雄であり曹操とは仇敵の間柄であって、荊州の劉表に身を寄せていたものの、劉表は彼の才能を憎み積極的に用いることができませんでした。劉表が死んだ今、どうか私に荊州の後継者(劉琦/劉琮)の所へ弔問に参るようお命じ下さい。
もし後継者が劉備と心を合わせ上下が斉しく纏まっておれば、彼らを手なずけ同盟を結べばよいでしょう。もしそうでないなら、劉備個人に対して、荊州の軍兵を慰撫して纏め上げ共に曹操にあたるべきだと説得します。劉備は必ずや喜んで応じましょう。いま急いで行かなければ、曹操に先んじられてしまいます。(『呉志魯粛伝』)
諸葛亮と魯粛は、亮の兄にして孫呉に仕える諸葛瑾を通し互いに連絡を取り合っていた。
――魯粛は諸葛亮に「私は諸葛瑾殿の友人です」と言い、交誼を結んだ。(『呉志魯粛伝』)
正史『三国志』に註をつけた裴松之は、劉備と孫権が力を合わせて曹操を迎え撃つという戦略は、すべて魯粛の元来からの計画であった。諸葛亮に「私は諸葛瑾殿の友人です」と言っているのだから、諸葛亮は早くから魯粛の考えを知っていたことになるとの卓見を述べている。
そして周瑜は、開戦前から曹操に絶対に勝てる自信があった。
――曹操は愚かにも呉越の将兵に船で勝負を挑む決断を下し、自ら死地へ飛び込んで来たのだ。曹操を捕虜にするのも今日明日のことであるに違いない。この周瑜に精鋭の兵三万を預けて下されば、必ずや曹操を討ち破ってご覧に入れましょう。(『呉志周瑜伝』)
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