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三国志の関興に転生してしまった  作者: タツノスケ
第四部・赤壁炎上編
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73.秦朗、赤壁の戦いについて考察する(その1)

おことわり

赤壁の戦いについて筆者が疑問に思っていることを、関興の名を借りて3,4回にわたってダラダラと書きます。正史『三国志』からの引用も多く、正直ウザいです!


曹操軍が荊州に侵攻したのは劉表を征伐するためなのに、いつの間にか孫権と戦っている愚。しかも、曹操軍に有利な歩兵・騎兵戦を捨てて、敵が得意とする軍船での戦いに釣られてしまって大敗する痴。曹操ともあろう者が、どうしてこんな致命的な失敗を犯してしまったのか?その背後に仕掛けられた謀略は何だったのか?


……と壮大な前フリの割に、結論は大したことありません。悪しからず。


そんな許都での思惑など知らぬまま年が明けて、運命の建安十三年(208)。


いよいよ曹操が荊州に侵攻し、赤壁の戦いが起こる年だ。曹沖からオレ宛に届いた(ふみ)には、縦読みで「気をつけて」と書かれてあった。本来なら曹操が荊州か揚州のどちらに攻めるか分からない今、不用意に機密を漏らした曹沖は(とが)められるべきだろうが、オレは曹沖に感謝こそすれ、彼を曹操にチクるような不義理な真似はしない。


というか、曹操の荊州侵攻→劉表の死→劉琮の降伏→劉備の逃走と続く歴史の流れは知ってるもんな。


とすれば、だ。

史実どおり進めば曹操軍の攻撃から逃れた劉備一行の避難先となる夏口城を、前もって整備しておかねばならない。いや、劉備なんかどうでもいいが関羽のおっさんと平兄ちゃんのためだ。なにしろ黄祖が江夏最後の拠点として踏ん張ったせいで、奴が孫権に滅ぼされた時にボロボロに破壊されてしまっているのだ。それに、夏口の整備は曹操の侵攻に対してだけでなく、後に敵対することになる孫権を牽制するためにもきっと役に立つはずだよな。


オレは#大泉当十の贋金作りで稼いだ金を惜しみなく夏口につぎ込んだ。城壁を整え港を整備し、屯所や住処を建ててやるとともに、弓矢や戟剣によろいなどの武器一万具と兵糧一万石を運び込んだ。


江夏太守として赴任して来た劉琦坊ちゃまには、妹の舅となる関羽のおっさんを通して、「貴君の父君に後事を託されたので、我らが夏口の城を整えてやったのです。父君の恩徳を穢すことのないよう、江夏郡の防備に専念してください」と釘を刺しておいた。劉琦は大そう感謝していたから、いま孫権と事を構えるような馬鹿な行為は慎むだろう。



一方、オレ自身の安全にもそろそろ気を配っておく必要がある。


関羽のおっさんと平兄ちゃんは劉備とともに南に逃げるが、オレは(たもと)を分かって荊州に残る以上、曹操に対して恭順の意を示さなければならない。曹沖が危険を冒してわざわざ「気をつけて」と(ふみ)を寄こしてくれたのは、曹操幕下におけるオレの立場がかなり危ういものとなっていることを知らせてくれたのであろう。


そもそも曹操の性格から言って、蔡瑁のように国政を担う重臣のくせに自ら率先して降伏するよりも、文聘や関羽のように元の主君に忠義を尽くしたけれども刀折れ矢尽きてやむを得ず降るタイプの武将が好きなのだ。


だから、曹操が荊州に侵攻すれば、当然オレは敵の侵略を許さないように唐県の境で防備を固め、劉琮が降伏すれば、曹操からのお召しがあるまでおとなしく屯所で蟄居(ちっきょ)謹慎する。唐県の兵を武装解除した上で、兵糧庫や金庫・武器庫には封印し、査収に訪れた参軍の官吏にすべて預ける。


――つもりだが、曹丕の息がかかった碌でもない奴(例えば腐れ儒者三銃士のような)が来ると嫌だなあ…。


◇◆◇◆◇


実際のところ、逃避行後の生存が正史『三国志』に記されている関羽のおっさん・平兄ちゃんそしてオレは、曹操侵攻後の荊州の動乱の中しぶとく生き残れるだろうと思う。


問題は、妹の蘭玉と関平君の嫁の舞ちゃんの生命だ。オレは先手を打って許都の杜妃に二人を預けた。これから杜妃を「母上」と呼ぶことが条件だが……正直キツいな。だが、これで蘭玉と舞ちゃんの身の安全が確保できると思えば我慢しなくちゃ。


そんなわけで、いま一番の気がかりは曹操軍の暴虐により荊州の領民と兵卒の命がむやみに奪われないかということだ。彼らの命を守って欲しいと願う劉表の遺言(←まだ死んでないけど)を受けた関羽のおっさんの息子である以上、オレもその約定を果たすつもりだ。


劉備の逃走劇では、奴の偽善者ぶりにだまされて……ゲフンゲフン。

もとい、仁義に篤い劉備将軍を慕い南へ向かう無辜の領民が曹操軍に蹂躙されないように、安全な場所に誘導できないだろうか?

来たる赤壁の戦いでは、周瑜の仕掛けた火計で焼死・溺死する多くの将兵の命を救えないだろうか?



オレはもう一度、『魏志武帝紀』に記される荊州侵攻の場面を思い返してみた。


秋七月、曹公は劉表討伐に南方へ出征した。八月、劉表が死去し子の劉琮が代わって荊州刺史となった。九月、曹公が新野に到達すると劉琮は降伏し、劉備は夏口に逃走した。曹公は江陵に軍を進め、荊州の吏民に布令を下し、過去を清算し更始を(とも)にせんと宣言した。益州牧の劉璋が初めて兵を派遣して軍に提供した。

曹公は江陵から劉備征討に出撃し赤壁に到着した。劉備と戦ったが利あらず、ちょうどその時、曹操の軍営では疫病が流行し官吏士卒の多くが死んだ。曹公は軍を引き上げて帰還した。


そうなのだ。兵八十万と号する曹操軍が、許都を出発したのが建安十三年(208)()()。八月に劉表が死んで代わって劉琮が立ち、()()に曹操軍に降伏する。さらに逃げる劉備を追って江陵を占拠し、対孫権・劉備連合軍との赤壁の戦いが勃発するのが()()()



ここでオレは前世から不思議に思っていたことがある。


曹操軍が荊州に侵攻したのは劉表を征伐するためだ。そして九月には目論見どおり荊州を降伏させることに成功する。なのに曹操は、軍師の荀彧と今後の戦略を深く吟味することなく、十一月には独断で次のターゲットである孫権の征伐に向かってしまった。


何故だろう?曹操らしからぬ拙攻ではないか?!


兵法の解説には、


――用兵の道というのは、ある時は緩をもって敵に勝ち、またある時は急をもって攻め取るものであり、これを見極めることが肝要である。

もしお互いの軍勢が均衡しており、敵に強力な援軍があって背後を突かれる危険がある場合には、勢いに乗じて急攻した方がよいであろう。

一方、もし我が軍の方が敵より優勢であり敵に外からの救援も無ければ、力で制するには充分であるから、敵の動きを拘束しつつ()()()()()()()()()()()()()()()()()()


とある。前燕の名将・慕容恪(ぼようかく)は同じく強敵を前にした場面で、


――敵は天険をもって城を固めており、軍の上下は心を一つにしている。攻守の勢いは倍しており、これこそ軍の常法である。もし我が精鋭の軍をもって攻勢に出れば数か月もかからずに攻略は可能だが、恐らく我が将兵にも少なからず損害が出てしまうだろう。どうして将兵の命を軽んじてよいものだろうか?!これより吾は()()をもって敵を攻め滅ぼす。功の速さを求めてはならんぞ!

ここにおいて慕容恪は深い塹壕を掘るとともに土塁を堅固に建て、さらに畑を耕して長期戦の構えを取った。州民は敵軍の敗亡を悟り、先を争って前燕軍に従った。


当然、曹操もこの戦術を採用すべきであった。事実、赤壁の戦いでも孫呉軍の黄蓋が周瑜に向かって、

「敵軍は多数で我が軍は少数ですから、()()()()()()です(原文:今寇衆我寡、難与持久。)」

と進言している(『呉志周瑜伝』)。焦っていたのは、烏林の軍営で疫病で苦しむ曹操軍だけではないのだ。



いや、そもそも論として参謀の賈詡(かく)が、


「我が軍の方から孫呉を攻撃するまでもありません。華北の袁軍閥を滅ぼし荊州を降伏させた結果、曹操閣下の威名は中国の遠方の地まで輝き、卓越した軍事力は天下に轟いています。降伏した荊楚の豊かさを利用しつつ、兵士をねぎらい民衆を慰撫すれば、大軍を(わずら)わせるまでもなく、孫呉は頭を下げて帰服するでしょう」(『魏志賈詡伝』)


と進言したように、孫子の兵法に言う最善の勝利:「戦わずして勝つ」戦法をとればよかったのだ。当初は曹操もその方向で動いていた形跡がある。賛同する参謀も多かったのであろう。


『江表伝』によれば、開戦を前に曹操は孫権に書簡を送っているが、


――近頃、天子の辞を奉じて荊州の罪を数え上げ、我が軍旗が南に向かったところ、劉琮は州を挙げて降伏した。今、水軍八十万の軍勢を整えて、まさに孫権将軍とともに呉の地で会猟いたそうではないか。

孫権が書簡を群臣に示すと、みな震えあがって顔色を変えぬ者はなかったという。


「会猟」とは一緒に戦って雌雄を決しようという裏の意味がある(ちくま学芸文庫の注)。

後に述べるように、孫呉の群臣の間ではこの書簡を見て「曹操軍にはもはや(かな)うはずがないから降伏もやむなし」との意見が大勢であった。すなわち、これは三国志演義が解釈をわざと捻じ曲げたような宣戦布告ではなく、()()()()の書簡なのだ。


ところが曹操は魔がさした。

荊州での成功と同様、孫子の兵法=荀彧の目指す、徳によって敵を降伏させる“王者”の道――戦わずして勝ち、攻めずして領地を得、武器を使わずして天下を帰服させる(『荀子』王制篇)――に従えばいいのに、孫権に対して拙速に戦いを仕掛けてしまったのだ。


(……荊州を降伏させた勢いに乗って江東を攻撃すれば、勝利間違いなし。天下統一は目前ですぞ)


曹操はそんな悪魔の(ささや)きに乗ってしまった。


では、曹操をその気にさせた「悪魔の(ささや)き」とは何なのか?


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