71.曹操、許都に凱旋する
お待たせしました。第四部・赤壁炎上編が始まります。
その頃。
曹操は華北征討から許都に凱旋する途上、かつて天下が乱れ群雄がこぞって旗揚げした際に袁紹と交わした問答を思い出していた。
「もし事を成就させようとするなら、孟徳、おまえはどこを拠点とする?」
「さてね。本初、君はどう考えるんだ?」
「そうだなあ。南方は黄河を防衛線とし、北方は幽・并に伸びる長城を限りとし、武勇に優る騎馬民族を手なずけて南に向かって天下の覇権を争う。まず失敗することはあるまい」
「ふーん。堅固さだけを拠り所の基準とするなら、機に応じて変化することができぬ。君はきっと絶好の機会を見逃すことになるぞ」
曹操の忠告を小馬鹿にしたように袁紹はせせら笑い、
「フン、足元をしっかりと固めた上で勢力を外に伸ばして行く。これが功業の基本ではないか!おまえは本国をおろそかにして中原に進出し、覇者の名にこだわったあげく国を滅ぼした呉王夫差の故事を知らないのか?!」
「……ま、君の考えにケチを付けるつもりはないよ。天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。俺はこの淀みきった漢の世に風を起こす。天下のことは智者・勇者に任せ、俺自身は道義をもって彼らを指揮統御する。君も俺の風下に立たないよう、せいぜい君の築いた拠点とやらで踏み留まることだな」
(人の和に如かず、か)
曹操は独り言ちた。
袁紹軍閥は自滅したようなものだ。袁譚・袁尚の跡目争いだけでなく、優れた策謀の士であった田豊・沮授を佞臣の讒言で殺し、郭図・逢紀・審配らの家臣は互いに疎み罵り合って結束が取れず、袁紹が残した強力な軍隊も、四州にまたがる広大な領地も、各個撃破にあってついに瓦解した。
ふと心に感じる物があったのか、曹操は求賢令を布告する。
「功績・能力が優れておっても徳行の点で及ばぬ者は、官吏として不十分であると言い放つ小賢しい者がおる。孔子が『論語』で述べた、「与に道にゆくべきも、未だ与に権るべからず」というのが典拠らしい。
だが、わしの尊敬する管仲はこう言った。
――賢者が能力に応じて俸禄を受けるならば、上の者は尊敬され、戦士が功績によって俸禄を受けるならば、兵卒は死を恐れず戦いに突き進む。この二つが国家で確立されておれば、天下は治まる。
と。無能の官吏・不闘の戦士が俸禄恩賞を受けながら、功績が打ち立てられ国家が興隆したためしなど、聞いたことがない。古来、明君は無功の臣を官位に就けず、不戦の将兵には恩賞を与えないと言う。これよりわしは功あり才ある者を嘉し、それに見合った官職と恩賞を授けることとする」
これに腐れ儒者の筆頭・孔融が咬みついた。
「徳行は人倫の第一。これを否定するとあっては、我らは禽獣と変わりありませぬ!」
曹操は呆れて荀彧にこぼした。
「わしは功あり才ある者を重用したいと、当たり前のことを言ったまで。腐れ儒者どもに、おまえ達は無能だから不要などと言ってはおらん。奴はいったい何が不満なのじゃ?」
荀彧は、腐れ儒者の代表でありながら名士層に絶大な影響力を持つ孔融を擁護して、
「後漢の光武帝は天下を統一した後、法と徳による文治を基本としました。それは猜疑心の強い前漢の高祖(劉邦)の失敗を繰り返さぬためでした。
すなわち、劉邦は功臣に過大な封邑や地位を与えてしまったがために疑心暗鬼に苛まれ、劉邦から疑惑の目を向けられた功臣、例えば韓信・彭越らが謀叛に走り、せっかく統一が成った天下は大いに乱れました。
よって、光武帝は「刑をもって正し」(法家の思想)、「政をもって導く」(儒家の思想)を両輪とし、登用した官吏に法律を厳しく適用して職掌に応じた責任を負わせたのです。
孔融殿は、閣下が先に布告した求賢令では、片輪(法家の思想)に偏重していると感じたのでしょう。一方に偏り過ぎれば、様々な弊害が起こりかねません。法を厳格に適用すれば旧恩が損なわれ、情実によって法を緩めれば規範が廃れてしまいます。
しかも、功績ある者を登用すれば賢者とは限らない。逆に有徳の者を登用すれば必ずしもその功労は厚くない。功臣・賢者をともに用いようとしてもポストの数が限られているから、栄達を望むのに希望の官職に就けなかった群臣の心に嫉妬と怨嗟が生じ、かといって劉邦のように功臣のみ用いればその弊害は遠い昔のことではない。
孔融殿はそのことを暗に忠告したのではないかと愚考します」
曹操は感心して、
「荀彧は優しいのう。わしは、孔融こそが儒者のくせに嫉妬と怨嗟を抱いておる張本人ではないかと蔑むところだったわ。それで、奴を宥めるにはどうすればいい?」
「光武帝の故事に倣えばよいのではありませぬか?
功臣には秩禄を増やし爵位を厚くして報いる一方、国家の政を動かす要職からは遠ざけなさい。新たに登用する官吏には才能のほかに徳行の項目を設け、それぞれに合ったふさわしい官職に就けてやればよいかと思います」
「ま、落としどころはその辺りじゃの。先の求賢令に追記せよ。
――動乱が始まって以来、仁義礼譲の気風がすっかり廃れてしまった。わしは甚だ遺憾に思う。よって郡国に命じて俊才を選抜し、学問を修めさせよ。過去の聖王の道が廃れずに、天下に利をもたらさんことを願う、と」
近侍の者が伝令書を持って立ち去ると、曹操は荀彧に耳打ちした。
「曹沖は徳行に際立っている。初陣を飾っておらぬゆえまだ功勲を上げてはおらぬが、武芸にも力を入れていると聞いておる。曹丕は徳行に劣るが鄴陥落の功があった。それは認めてやらねばなるまい。秦朗は功績・徳行のいずれにも秀でた者と言ってよいだろうな」
荀彧は苦笑して自身への猜疑を打ち消すように、
「曹操閣下もお人が悪い。私が関興君いや秦朗を目にかけているからと言って、世継ぎの件で彼に肩入れするとお思いですか?私は閣下の家庭の事情に首を突っ込むことは致しません。
閣下が曹沖様・曹丕様のいずれを後嗣ぎと定められようとも、全力でお支えする所存です」
「ハハ、見抜かれておったか。じゃがのう、実際、秦朗の才能は底知れん。あいつは【先読みの夢】などと誤魔化しておるが、間違いなく将来の見通しを確信して動いておる。
あいつがわしの力を利用して秘かに荊州で自立しようと謀んでおることは、そなたも見抜いておろう。
わしや荀彧なればその謀みを逆手に取ってあいつを使役もできようが、沖や丕では手玉に取られてしまうのではないかと不安なのじゃ」
「それなら、秦朗の秩禄を増やし爵位を厚くしてやればよいだけのこと。もっとも、秦朗は今の唐県侯の爵位で満足している様子。国家の政を動かす要職から遠ざけておけば、恐れるに足りますまい」
「ふうむ。それもそうじゃが……」
「曹操閣下は近いうちに荊州侵攻を考えられていることと存じます。その時、秦朗がどう動くかで彼の魂胆を見極めればよろしいのではありませぬか?
おとなしく唐県を挙げて我が軍に降伏すればよし。逆に驕って兵や武器の豊富さを盾に我が軍を牽制しようとするなら、その時は荊州を薙ぎ倒した余勢を駆って攻め滅ぼせばよいだけのこと」
「なるほど」
荀彧の適確なアドバイスに感心して、ようやく曹操は安堵したのだった。
荀彧が下がると、曹操は独りほくそ笑んだ。
(よし。これで荀彧と秦朗が手を組むことはあるまい)
荀彧は気づかなかった。
曹操が最も恐れているのは荀彧であった。
秦朗はまだ幼い、奴の謀みなどすぐに見抜ける自信が曹操にはある。関羽の武も張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃ら曹操軍団が誇る五将で抑え込めば、恐れるに足らない。
問題は荀彧だ。彼の知謀は曹操のはるか上を行く。しかも天下一の仁者として、漢帝への忠誠と漢室の中興への思いは並々ならぬ。
曹操が留守の間に、秦朗(=関興)を通じて荀彧の才覚と荊州の関羽の武力とが結びつき、漢の天子様を奉じて許都に自立すれば、天下はたちまち彼らの物になる――
博望坡の戦いより帰還した賈詡から、秘かに注進を受けた曹操は戦慄した。
もっとも、賈詡自身は「彼ら」という代名詞を“関羽と関興”のつもりで使ったに違いない。だが荀彧を恐れる潜在意識のせいか、曹操は賈詡の意に反し「彼ら」の筆頭に“荀彧”を据えてしまった。
「わしも五十歳を超えた。そろそろ先を見据えて動かねばならぬ」
と曹操は呟いた。
次回。丞相となった曹操は、「これから最後の仕上げに取り掛かる」と宣言。江東の孫権を攻めるか荊州の劉表を攻めるか、臣下の間でも悩む。これ以上秦朗に戦功を立てられては、曹丕の立場が危ういと見た曹丕派の重臣は……お楽しみに!




