68.徐晃、合肥の戦いで大勝する
二年の間にオレが江東に放った斥候や、偽装降伏した舒城と皖城の使者から集めた情報で分かったことがある。
【風気術】師の呉範は、やはり三国志マニアの転生者で間違いない。
ただし、兵法や軍略に通じているわけではなく、正史『三国志』に記される建前上の史実から逆算して、敵の行動を予測するだけの歴史マニアにすぎないのだ。だから史実どおりのイベントに対しては“予言”が当たるが、史実にない突発的な出来事に対しては対応が後手後手に回る。
例えば、曹操が大軍を率いて華北の遠征で不在という史実から逆算して、その隙を突いて広陵に侵攻するという計略は見事だった。天才軍師の荀彧も、そして転生者であるオレや女神様も完全に虚を突かれた。だがそれだけだ。
曹操が強い理由は曹操の才能と卓越した軍事力だけではない。漢の天子様を擁し、その権威を自由に悪用できるからなんだよな。
曹操が不在の上に揚州に残る軍事力が不足している現状、荀彧が漢の朝廷を操って孫権に授けられた討虜将軍号と印綬の返還を求めることくらい、誰でも予想がつきそうなものなのに、そこまで頭が回らない。史書に記載がないからだ。
おまけに孫権が孫策の後を嗣いだ正統性を、『周武王冥土旅之一里塚』の猿芝居ごときで簡単に揺さぶられるし(まあ、これについては孫権のコンプレックスを見抜いたオレの慧眼を褒めてもらいたいが)、【風気術】師の呉範が本当に目端の利く軍師なら、孫権に亡き孫策の遺児・孫紹をもっと優遇するように進言するはずなのに、史実どおり上虞県侯という低い地位に据え置いたまま。仮に孫紹が敵の手に渡ったら、孫権の座を脅かす強力な駒となり得るにもかかわらず、だ。
だから、孫権が血迷って孫紹を殺そうなどと史実にない行動を起こすことは“予言”できず、みすみす敵の曹操の元に走られる。
オレは転生者・呉範のクセを読み切った。
・正史『三国志』の知識はオレより上だ。史実どおりのイベントなら“予言”が当たり、敵の行動を予測して最適な対策を講じることが可能だろう。
・反面、兵法や軍略には通じていない。もしも史実にない出来事が起これば、対応が後手に回る。
さて。オレが呉範のこの性格を逆手に取って、淮南に侵攻した孫呉軍に対し敢えて反撃を押さえて来た成果を見せつけたのが、この年に起こった合肥の戦いだ。
建安十一年(206)十二月、呂範と蒋欽が兵四万を率いて合肥要塞に攻め寄せて来た。史実よりも二年早い。
昨年、広陵に続き、舒城と皖城が難なく孫呉の手に渡った。寿春に籠る揚州刺史の劉馥が持つ兵力はいよいよ不足している、反撃したくてもできない状態に違いない、と呉範は思い込んでいるのだろう。
呉範をそう勘違いさせた根拠はある。魏志蒋済伝に、
建安十三年(208)、孫権が軍勢を率いて合肥を包囲した。その時、魏の大軍は荊州に遠征していたが、疫病の流行にあって苦戦していた(赤壁で大敗した、とは書かれていない 笑)。そのため、将軍の張喜にとりあえず千騎を与え合肥の救援に向かわせたが、兵力不足は否めない。
そこで寿春の蒋済は詐って、「張喜が率いる歩兵・騎兵四万が揚州の境にまで到着しているから、合肥への援軍到着はまもなくだ。皆の者、それまで力の限り奮戦せよ」と書かれた文を偽造し、わざと孫権の手に渡るように仕向けた。果たして孫権はその文を信じて震えあがり、合肥の包囲を解いて速やかに引き揚げた。
という記述があるからだ。
オレは史実に基づき、「張喜が率いる歩兵・騎兵四万が豫州まで到着しているから、合肥への援軍到着はまもなくだ。皆の者、それまで力の限り奮戦せよ」と書かれた文を偽造し、伝令の者をわざと孫呉軍に捕まらせた。それを見た呉範はほくそ笑んで、
「これは計略だ。張喜の率いる援軍は千騎に違いない。合肥に立て籠る兵の数は少ないぞ。皆の者、敵のこんな小賢しい謀略に騙されず、ガンガン攻めて攻めまくれ!」
「おうっ!」
ふふん、罠に嵌まったな。
巣湖で船を乗り捨て上陸して来た孫呉軍四万は、一斉に合肥の要塞に押し寄せた。
しかし合肥要塞は築城の名手・劉馥が築いた難攻不落の要塞なのだ。両側に張り出した稜堡から凹部の虎口(城門)に攻め寄せる孫呉兵に向かって、千張の強弩が十字射撃で狙う。射られた兵士はバタバタと倒れた。
ならばと発石車による遠方からの投石も、分厚い石垣の前にビクともしない。近づくと、途中に仕掛けられた落とし穴に嵌まって破壊されてしまう。
城壁に梯子を架けようとしても、劉馥が貯えていた魚油を上から浴びせられたあげく、火矢を射かけられて炎上。
なす術もないまま、いたずらに兵士の死傷者だけが積み重なり、孫呉軍は撤退に追い込まれた。
追撃しようと逸る将軍の徐晃にオレは、
「お待ち下さい!敵は撤退する以上当然追撃を予想しており、必ずや備えを厳重にし精鋭を選んで殿軍に置いているはずです。これを襲っても我々の側も損害が大きくなります」
と待ったをかけた。徐晃は不満げに、
「じゃあ、おまえは反撃の好機をみすみす見逃せと言うのか?!まさかおまえは噂どおりの裏切者じゃあるまいな?そうじゃないなら、俺たち軍人にも手柄を立てさせろ!」
と凄む。オレは飄々と答えて、
「もちろん見逃す気はありません。まずは追撃を緩めるべきだと言っているのです。敵は長いこと我々が反撃しなかったため、すぐに追って来ないのを我々が臆病なせいだと侮り、きっと途中で慢心するでしょう。士気が緩んだところを一気呵成に攻撃すれば、大勝間違いありません」
「……分かった。今回だけはおまえの作戦に従ってやる」
徐晃は五千の兵を率いてゆっくりと敵本隊を追撃し、その間、史渙に命じて三千の軽騎兵で間道を進ませ、先回りして途中の林に潜ませた。一昼夜経ち追撃を振り切ったと見た孫呉の退却軍は、果たして警戒を解き食事の準備を始めた。
士気が緩んだと見た徐晃はこれを猛追して急襲し、史渙の軍と挟み撃ちにして孫呉軍を大破した。
孫呉軍は死傷五千、捕虜八千の大惨敗を喫し、残った兵も命からがら本国へ逃げ帰って行った。対する曹操軍の損害は、戦死した兵は二ケタ,負傷した兵は数百と軽微。大勝した徐晃は頭を下げて、
「秦朗よ、すまぬ。俺は正直おまえの作戦を臆病に過ぎると見くびっていた。だが、これほどの勝ちを収めたのはおまえの軍略のおかげだ。礼を言う」
「いえ。戦いに勝利したのは、優れた統率力と、奇襲を仕掛ける絶好のタイミングを見逃さなかった徐晃殿の武運あってのもの。オレは単に助言をしたにすぎません」
と手柄を譲った。
「そんなことより徐晃殿、なにをグズグズしているのです?今こそ舒城と皖城を奪回する絶好の機会ではありませんか!劉馥殿は先行して両城の県令の説得に向かっていますよ」
「お、おう。そうだな!」
オレは徐晃とハイタッチを交わして劉馥の後詰に送り出した。孫呉の脅威を恐れる必要のなくなった舒城と皖城の県令は、もちろん喜んで再び揚州刺史の劉馥に臣従することを誓った。
こうして、合肥要塞の攻略失敗と舒城と皖城の失陥で、孫呉は東部戦線の軍事力が大きく削がれ、許都への侵攻どころか淮南攻略すらまったく見通しが立たなくなった。
フン。憎き孫権と転生者・呉範の悔しがる姿が目に浮かぶぜ。
曹操に課された最低限のハードルは、これでクリアできたかな?あ、まだ広陵が残っているんだった。
--徐晃--
生誕 建寧四年(171) 36歳
統率力 77
武力 89+2
知力 69
政治力 54
魅力 75
アイテム 大斧
 




