66.関興と呉範、大泉当十をめぐって知恵比べをする
語り手は、前半が関興、後半が【風気術】師の呉範となります。
#大泉当十は、1枚で五銖銭10銭分の価値を持つと言われていますが、インフレで物価が5倍ほどになっている孫呉では、そんな価値はありません。
軍議が終わり、オレは疲れて自分の部屋に戻った。
先ほどの軍議の席で、
――江東で米の値段が高いのは、お金を刷りすぎて一銭あたりの貨幣価値が下がった結果、相対的に物価高となったもの。俗に言う悪いインフレという状態です。
と述べたが、あの時オレは本当の狙いを告げなかった。
いま孫呉の経済は金がジャブジャブと市中に溢れて一見好調に見えるが、その実、領民の間では止まることを知らぬ物価高に困惑し、怨嗟の声が上がっている。秣陵を偵察して自分の目で見た感触だ。
おまけにオレの芝居に端を発する後嗣ぎ正邪問題で支持率が下降してしまった孫権は、人気回復の一環として、領民に対し金をバラ撒くだろう。
お金を無償で配れば、短期的には領民に人気が出るのは間違いない。だが、悪いインフレの場合は、かえって貨幣価値を下げることになり物価高を助長してしまう。
つまり、孫権のバラ撒き策は一時凌ぎの人気取りにすぎず、物価高(=悪いインフレ)を鎮静化する有効な手立てではない。
では、どうするか?
孫権を影で操る【風気術】師の呉範が転生者だとすれば、次に取る策はきっと。
――デノミの実行。
すなわち、一枚で五銖銭十枚分の価値を持つという新しい貨幣:#大泉当十の発行だ。
現代の経済理論では、デノミがインフレを退治する有効な政策とは考えられていない。
しかし、世界史では有名な、第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレを収束させたレンテンマルクの奇跡、21世紀になってトルコが実施した新リラ通貨発行(実質的なデノミ政策)によって通貨の安定化に成功した実績を知っていれば、必ずやデノミに手を出すに違いない。
なまじ歴史に詳しい人ほど陥る罠だ。
正史『三国志』にも、孫権が一枚で五銖銭五百枚分を意味する“大泉五百”や千枚分を意味する“大泉当千”を発行した史実が記されているし。
もちろん、第25話で述べたように、貨幣改鋳益によって孫権自身は潤う。民衆を塗炭の苦しみに突き落とす代償に。
――かわいそうに。孫呉の民が気の毒だ。
ああ、そのとおり。
だがあいにくオレは、目的のためなら悪に手を染めることだって厭わない“悪人”なんだ。
オレは#大泉当十の発行に便乗して贋金を作り、孫権の得る貨幣改鋳益をかっ攫って自身の儲けを図るとともに、孫呉の内部をズタズタにして戦争継続能力を破壊してやる。
誤解のないように言うと、新しい貨幣1枚の額面が単に10倍程度の#大泉当十で、すぐに孫呉の内部がズタズタになるとはオレも思っていない。
悪いインフレによる物価高で、孫呉領内の米の値段が1石500銭とすでに貨幣価値が5分の1に下がっている現況では、特に目立った悪影響は生じないだろう。
しかし、このデノミ通貨発行が恐ろしいのは、すぐに50倍,100倍,500倍,1000倍……と貨幣改鋳益を狙って、麻薬のように際限なく繰り返してしまうところだ。
さて、【風気術】師の呉範がどう出るか?
オレは敵の動きを予想しながら、ウトウトと居眠りを始めた。
◇◆◇◆◇
(呉範のつぶやき 秣陵城にて)
私は、公演中止に追い込んだ芝居『周武王冥土旅之一里塚』を仕掛けた旅役者の一団・臥龍座のことが気になり、孫権将軍の斥候を使って荊州の様子を探った。
臥龍。ずばり、諸葛亮のあだ名だ。
つまり、あの芝居に端を発する後嗣ぎ正邪問題で孫権将軍の評判を落とそうと謀ったのは、諸葛亮が黒幕ではないかと疑ったのだ。
でも、何故?
その理由が斥候の調べで分かった。
諸葛孔明は私と同じ、転生者なのだ!
史実より三年も早く「三顧の礼」によって劉備の軍師に招聘され、しかも絶世の美女と来れば、三国志の歴史を知る劉備推しの“歴女”転生者と見て間違いあるまい。
ふっ、ふふ……馬脚を現すのが早すぎたな。
私にとっては僥倖だが。
ところが“歴女”孔明が仕えている劉備の評判が芳しくない。
『三国志演義』に見られる聖人君子像はともかく、正史『三国志』においても、客として荊州に身を寄せた劉備について、「荊州の豪傑のうち、先主(劉備)に心を寄せる者が日ごとに増して来たため、劉表は彼の心に疑念を持った」と記されるほど、多くの部将に慕われているはずなのに。
むしろ劉表が頼りとしているのは、劉備の部下である関羽の方らしい。
無理もないか、関羽は一騎当千の名将として曹操にも一目置かれる存在。そんな名将が何故劉備のもとに?と劉備ファン以外の者なら誰もが疑問に思うのだ。劉表だって、関羽を配下に置きたいのは当然だろう。
ただ、この世界の関羽には気になる点がある。劉備と義兄弟の契りを結んでいる割に、劉備との仲がそれほど良好ではないことと、史実ではこの時期には牛飼い少年にすぎない後の名将・鄧艾が、すでに関羽の配下となっていることである。
まあ、劉備が一方的に関羽に嫉妬している現況は、この世界の劉備の評判が芳しくない証左でもあるし、鄧艾以外で関羽に仕えている部将は、調べるかぎり関平・周倉・潘濬で、史実と大差ない。単なる関羽にとっての幸運か。
いかんな。深読みしてあれこれ心配するのは私の良くないクセだ。
話を戻すと、評判が芳しくない劉備を矯正するために、史実より三年も早く諸葛孔明は自ら表舞台に登場し、劉備を調教しているらしいのだ。
ふーん。
まあ、ウチの孫権将軍も正史『三国志』でベタ褒めされているほど、「朗らかで度量が広く、思いやりが深く決断力がある」英雄では断じてない。
史書の記述と比べて現実は……“同病相憐れむ”と言ったところか。お互い大変だな。
ああ、亡き孫策将軍が生きておられたら……と悔やまれてならない。この世界がスタートした時点ですでに孫策将軍がこの世を去っていたため、今さら言っても詮ないことだが。
とにかく。
いずれ曹操が荊州に侵攻する時が来る。劉備は南に逃げて孫権将軍と同盟を結び、曹操と戦おうと諸葛孔明は進言するだろう。
その際、我が孫呉の力が強ければ強いほど、対劉備融和派の魯粛ではなく対劉備強硬派の周瑜の意見が通って、劉備との同盟を拒絶し単独で曹操との対決にあたろうと孫権将軍は考えるだろう。
実際、私も周瑜と同じように赤壁の戦いでは劉備は何の役にも立たないと評価しており、劉備との同盟は極力排除したい。
……ああ、なるほど。そのための布石か。
曹操を倒すには同盟国である孫呉が強い方が望ましいのは確かだが、劉備がボンクラで思うように富国強兵策が図れない以上、あまりに孫呉が強くなりすぎれば、かえって孫劉同盟に差し障りが生じる。
広陵を奪い取り淮南を掌中に収めて強大化する計画は、荊州にいる諸葛孔明にも見抜かれたというわけだ。やはり侮れん。
逆に、多少孫権に弱みがあった方が同盟締結は劉備に有利に働く。
ならば、孫呉が強大化するのを邪魔してやろう。
孔明の考えは、そんな所だろう。
チッ。さもしいな。
このまま奴の術中に嵌まるのは面白くない。
動揺した孫権将軍の支持率を回復させる秘策はないだろうか?――いや、ある!
金須のバラ撒きだ。
同時にデノミを行なってインフレの抑制を図れば、大衆の評判も上々だろう。
一枚で五銖銭十枚分の価値を持つ、実質的なデノミ貨幣:#大泉当十を鋳造し、一戸あたり10枚(額面で約10万円)をバラ撒く。政府から配れば、新しい貨幣も自ずと流通するだろう。大衆の人気取りのために金須をバラ撒き、かつ、デノミを行なってインフレの抑制を図る。まさに一石二鳥の政策だ。
そして、私が思い描く孫呉の天下統一という野望の実現に向けて、淮南を完全に掌中に収める。さすれば、曹操不在の許都に進軍して漢の皇帝を擁立し江東に覇を唱えるという私の大略に、張昭も魯粛も諸手を挙げて賛成しよう。
ふはは。諸葛孔明よ、地団駄を踏んで悔しがるがよい!
三国志の歴史を多少知っているからと言って、劉備推しのニワカ“歴女”の転生者・諸葛孔明ごときに、我が孫呉の天下統一の野望を邪魔されてたまるかっ!
>鄧艾以外で関羽に仕えている部将は、調べるかぎり関平・周倉・潘濬
関興と甘寧は今、揚州の寿春に出張しているから、呉範の放った斥候がいくら調べても、二人が関羽に仕えていることは分かるはずがありません。
それが転生者・呉範の犯した最大のミスとなる……ように話が展開すればいいけど。筆者の文章力で書けるかどうか?




