57.曹操、荊州水軍の模擬戦に驚愕する
鄴の玄武池には、荀彧に用意してもらった古い大型輸送船が二隻浮かび、対岸には甘寧が率いる艨衝が三隻並んでいる。
「もし実体験を希望される方がいらっしゃいましたら、ご遠慮なく輸送船にお乗りください。念のため、安全帯と救命胴衣の着用をお願いします。危ないと思われたら、固定されている足場に跳び移れば、水の中に落ちることはありません」
と冗談で言ったら、なんと曹操本人が実体験のために輸送船に乗ってみたいと言い出しやがった!
おい、やめろ!万が一曹操の身に何かあったら、オレの首が飛んでしまうわ!ガクガクブルブル。
「心配するな。わしが水に落ちてもおまえを責めたりはせぬ」
えー本当にぃ?オレ、やめた方がいいって忠告したからな。
重臣たちが必死に諫める中、結局、オレも曹操と一緒に輸送船に乗れば、甘寧率いる荊州の水軍が悪だくみを起こさないための人質(人身御供?)になるだろうという理屈で、曹操は意志を通した。
そうして輸送船には曹操とオレのほかに、将軍の徐晃・史渙それに謀臣の荀攸・程昱・郭嘉も乗った。
「秦朗よ。まだ言い足りぬことがあるのではないか?」
曹操が話をふって来たのでオレは、
「荒唐無稽な話と笑わないでくださいね。
実は、荀彧様が孫呉の派遣した薛綜を問い詰めた結果分かったのですが、孫権の陣営には【風気術】を操る呉範という占い師がいると耳にしました。
彼が言うには、建安九年の今年、太守の陳登が死ぬから広陵を奪うチャンスだ。曹操閣下は華北の役にかかずらっているので、江東にまで戦線を広げる余裕はない、と“予言”したそうです」
「小癪な!……と言いたいところだが、口惜しいことに、その呉範とやらの見通しは正しいと言わざるを得んな」
「ええ。荀彧様とも話したのですが、高幹が孫権に唆されて謀叛を起こしたのも、もしや裏で呉範の“予言”があったのかもしれません」
オレの根も葉もない憶測に曹操は頷いて、
「うーむ。あり得るな」
「……とすれば、ここは敢えて呉範と同じ土俵に乗り、今後の敵の出方を探ってみるのも手ではないでしょうか?」
とオレが述べると、曹丕派の程昱が会話に割って入り、
「お待ちください、曹操閣下!
この秦朗めは、閣下を裏切り荊州に落ち延びた関羽の息子だとか。もしこやつが閣下を誑かす謀叛人だとすれば、そんな得体の知れぬ者の口車に乗って、閣下が自ら危険に飛び込むことをお諫めしないわけには参りませぬ」
と諫言した。曹操はチラリとオレを見て、(ほら、答えろ)と目で合図を送ったので、
「程昱様からお叱りを受けましたが、もしオレが本当に閣下を誑かす謀叛人ならば、オレは高幹叛逆があった際に、張遼将軍に危急を知らせず荀彧様の許都の難を傍観していたはずですが」
と反論した。曹操は頷き、
「うむ、秦朗の言うとおりじゃ。それに秦朗はわしの義理の息子。程昱よ、そなたがわしの身を案じてくれるのはありがたいが、得体の知れぬ者とは、ちと言葉が過ぎるぞ」
「ははっ、申し訳ありませぬ」
と程昱は謝った。が、言葉と裏腹にオレを睨みつけるのはやめれ!
デモンストレーションの準備が整うまで、もう少し時間がかかるようだ。オレはこの機会に曹操にそれとなく探りを入れてみる。
「……曹操閣下は、方術士を信じますか?」
「方術士?左慈や甘始らの輩のことか?フン、馬鹿馬鹿しい」
「いえ、そのような口先だけの道士ではなく、易を極めた管輅殿や人相占いの朱建平殿のような優れた方術士です。彼らは将来を見通せる眼をお持ちだと言われています」
「知っておる。それで?」
「孫呉で【風気術】を操る呉範とやらも、彼らと同じく実は将来を見通せる眼を持っているのではないでしょうか?」
オレはついに、この世界の核心に触れる発言を口にしてしまった。
呉範はもしかしたら正史『三国志』の方技伝に登場する方術士なのかもしれないが、オレ自身の記憶には残っていない。
というか、オレが懸念しているのは、呉範は正史『三国志』に記される歴史を知っている人物、つまりオレと同じような三国志マニアの転生者じゃないのか?との疑いだ。
仮に奴が転生者だとすると、きっと孫呉が天下統一を果たすように史実改変を謀んでいるはずだ。
例えば、曹操軍が華北の役に遠征している隙に、広陵を拠点とする孫権軍が一路許都を目指して侵攻し、漢の天子様を擁立して覇を唱えるとか、孫権・袁家兄弟・劉表・馬騰や韓遂ら涼州軍閥を糾合し、反曹操同盟を結んで四方から一斉に襲撃して、曹操を滅ぼすとか……。もしかしたら、赤壁の戦いで曹操軍を大破し曹操自身を生け捕りにする気かも。
まずいな、呉範のことを女神様に知らせなきゃ。
あ。オレは女神様と決別したんだった。今さらあんな分からず屋に、義理立てする必要なんかないよな。
でも……
「おい、秦朗!聞いておるか?」
ふと浮かんだ迷いに思案中のオレに向かって、曹操が尋ねる。
「すみません、何の話でしたっけ?」
「……わしの話をうわの空で聞くとはいい度胸だな。まあよい。
荀彧に聞いたが、おまえも“先読みの夢”を見るそうじゃないか?」
「ええ、まあ。でもオレの場合は、関羽のおっさん…じゃない、父上と自分が危機に瀕する五つの場面だけなんです」
嘘だけど。
「わしは荊州を降伏させることには成功するが、今から四年後の建安十三年(208)に孫権と戦い、赤壁という所で大敗するそうだな」
「はあ。ただ、オレの夢はまだ本当に実現した例がないので、当たるかどうかは分かりません」
オレは予防線を張った。その上で、
「しかし、オレが孫呉に放った斥候の調べによると、【風気術】を操る呉範の“予言”とやらは異常に的中率が高いそうです。
そしてオレの“先読みの夢”と同様に奴の“予言”でも、四年後の建安十三年(208)に赤壁の戦いが起こり、孫権・劉備の連合軍が曹操閣下の水軍を壊滅させるらしい。あわよくば、閣下を生け捕りにしてやると息巻いているとか。オレは奴の“予言”が当たることを危惧しています」
とオーバーに進言した。
「ふぅむ。秦朗、そのためにおまえは今日のデモンストレーションをわしに見せるのか?」
「ある意味、そうです」
オレは正直に答えた。
「わしが負け戦となる赤壁で戦うのを阻止したいのか?」
「……」
こんな首チョンパ真っしぐらな問いに、正直に答えられるかよ!?
「答えずともよい。おまえの意図は大よそ分かった」
「……恐れ入ります」
「ハハハ。ま、わしがおまえの狙いに従うかどうかは、今から行うデモンストレーションの結果次第じゃ。せいぜい楽しませてくれよ」
と曹操は笑った。
ちょうどその時、
「おーい、チビちゃん。準備ができたぞ!」
と甘寧が右手を挙げて合図を送って来た。
「了解。三分後に始めてくれ!」
とオレは大声で答え、輸送船に同乗する曹操と徐晃や荀攸らの安全帯と救命胴衣をもう一度確認し、危険な場合に跳び移れるための足場の固定状況をチェックした。
いよいよ甘寧が指揮する艨衝が動き始める。片側十人×2列の水軍兵が必死にオールを漕ぐ。艨衝はたちまち猛スピードでオレ達の乗る輸送船に迫る。程昱や郭嘉は青ざめて、
「お、おいっ。秦朗……!」
「馬鹿、やめさせろ!危ないだろーが!」
だから言ったじゃん、輸送船に乗るのはやめた方がいいって。
だがさすがは曹操、胆が据わっている。緊張した面持ちだが、最後まで見届けようという気が満々だ。
「ぎゃああーっ!ぶつかるぅー!」
「や、やめてくれエェェーッ!」
程昱や将軍の史渙の叫びがこだまする中、艨衝が間もなく輸送船に体当たりする絶妙のタイミングで、水軍兵たちが水に飛び込む。
「衝撃来ます!手すりに掴まり、しっかり踏ん張って!」
そして先端の尖った太い木が括り付けられた無人の艨衝は、猛スピードでオレ達の乗る輸送船に衝突した。
ドーンという衝撃音とともに、激しく船体が揺れる。程昱や郭嘉は腰を抜かして甲板に座り込み、慌てて徐晃と史渙が助け起こした。
「危険です!船体の横っ腹に大穴が開いて浸水しています。閣下、急いで足場に跳び移ってください!」
「う、うむ」
曹操が固定された足場に避難し、続けて顔面蒼白の荀攸、徐晃と史渙に支えられた程昱と郭嘉が逃げたのを確認し、オレも急いで足場に跳び移った。
大破した輸送船は大きく傾き、徐々に水没しながら池の底に沈んでいった。
> 易を極めた管輅殿
実際には管輅は曹操晩年以降に活躍する占い師なので、ここで会話に登場させるのは秦朗の勇み足です。曹操が管輅のことを「知っておる」と言ったのは奇妙ですが、そこは見栄を張ったと解釈してください。
> こんな首チョンパ真っしぐらな問いに答えられるかよ
曹操「わしが負け戦となる赤壁で戦うのを阻止したいのか?」
YES→おまえはわしが負けると思っているのか!と逆鱗に触れる
NO →おまえはわしの戦いを手伝う気がないのか!と忠誠心を疑われる
どっちの答えでもアウトになると関興は判断したのです。
まあ、それだけじゃないと思うけど。
次回。甘寧率いる艨衝は、もう一隻の輸送船を火攻めにするデモンストレーションを披露する。今の曹操軍が孫権と事を構えるのは無謀だと進言する関興。ついに曹操は鄴の銅雀台に登り、全軍の前で今後の作戦を演説する。お楽しみに!




