45.劉備、博望坡で夏侯惇を迎え撃つ
博望坡の戦いと言えば、三国志演義では、荊州に侵攻した夏侯惇率いる大軍を寡兵の劉備軍が火攻めで鮮やかに撃退した、軍師・諸葛孔明の神のごとき衝撃のデビュー戦として名高い。
だが実際の博望坡は、州境の宛城のさらに北にある丘陵地帯だから、夏侯惇の軍が荊州に侵攻したため劉備がやむなくこれを迎え撃ったという、三国志演義お得意の“劉備善玉史観”は成立しそうにない。
正史『三国志』によれば、戦端が開かれたのは、どうやら劉備が先に仕掛けたせいらしい。すなわち、袁軍閥討伐のために曹操が留守にした許都を狙って、新野を発った劉備が荊州の境である宛を超え、曹操の勢力圏である葉の地にまで進軍したのだ。
宛の城は、かつて劉和が袁術に捕らえられて殺された地。あるいは、曹昂が父・曹操を庇って張繍に殺された地でもある。
ちなみに“三顧の礼”より前の出来事なので、実際には諸葛亮は博望坡の戦いには関与していない。
そしてこの世界でも、劉備軍は葉近郊の砦をちょこまかと襲う鼠働きで曹操軍を幾度となく挑発しているのだ。
というか、劉備はなぜ今ごろ許都を襲おうとする?
いくら曹操が留守だからと言って、高幹が謀叛を起こした直後に二番煎じを狙っても、敵の警戒度は否が応でも高まっているはずだから、奇襲が成功する見込みは限りなく低いだろうに。
しかも新野に駐屯する五千人程度の寡兵で奇襲するなんて無謀すぎる!先日、許都を襲った高幹ですら二万の兵を率いていたのに。
こういう空気の読めないところが、劉備が戦下手と称される所以なんだよ!
あ。もしかして荊州牧・劉表の許しを得ないまま、劉備の独断で許都の襲撃を画策したとかいうことはないだろうな?
「……。」
マジか?!
「興、それ以上麋竺を責めるな。彼は我が軍に救援を依頼に来た使者のお立場。彼に開戦の責任はない」
関羽のおっさんが窘めるがオレは構わずに、
「おおかた西平の戦いで父上が大活躍したこと、そして平兄ちゃんと劉表殿の娘との婚約が成立し、父上と荊州牧・劉表殿との関係が深まったことに焦りをおぼえた劉備将軍が、一発逆転の勲功を狙って許都奇襲をたくらんだ、というのが動機なんでしょ。違いますか?」
麋竺は項垂れながら、「……興坊ちゃんの推察どおりです」と認めた。
やっぱりな。劉備はあまりにも浅はかすぎる。徐庶はそんな無謀な奇襲を止めなかったのか?軍師のくせに何をやってるんだ?
「なれど劉備将軍の頼みとあれば、我々は援軍を断るわけには参るまい」
関羽の言葉に麋竺は頭を下げて、
「かたじけない」
「その前に、これまでの戦いの経過を教えてもらおうか」
「はい。ご存じのとおり、博望坡は草が生い茂る丘陵。趙雲が囮となって敵を誘い込んだところに、伏兵として茂みに潜んだ張飛らが襲いかかる、というのが軍師の徐庶が立てた作戦でした。
敵将の李典は計略を疑い、「あれは囮の退却だろう。ここは道が狭く草木が深く茂っているため、敵は火攻めの罠を仕掛けるに違いない。追うべきではありません」と進言しましたが、夏侯惇は聞く耳を持たず、囮の趙雲を追撃して来ました。まんまと作戦が図に当たり、火攻めは成功、伏兵を繰り出して夏侯惇軍を大破できました」
「よかったじゃないか!劉備将軍の勝利だ。俺の出番は不要だろう」
関羽のおっさんは安堵する。だが麋竺は首を振り、
「いえ。戦いはこれで終わりませんでした。李典の陣には参謀の賈詡が控えていたのです」
博望坡の戦いに負けて退却した夏侯惇に対し、賈詡は叱咤して、
「何をしているのです?!今すぐ反転して劉備を追撃しなさい!」
「しかし我らは負けたばかりで……」
「大丈夫です、追えば必ず勝ちます。さあ、李典殿も早く!」
半信半疑で追撃する夏侯惇と李典。会心の勝利に油断していた劉備は、後方から攻め寄せた曹操軍一万に散々に打ち破られ、命からがら新野に逃げ戻った。
「現在、劉備将軍は兵四千で新野城に籠城。対する夏侯惇と李典が率いる曹操軍は約一万で城を包囲しております」
ハアッと大きく溜め息をついた関羽のおっさん。
気持ちは分かるぞ、オレも同感だ。机上で兵法を論じるだけの徐庶が、呂布・曹操・袁紹を翻弄し続けた百戦錬磨の賈詡に実戦で対抗できるはずがない。
おそらく賈詡は、初めから徐庶が仕掛けた罠を見破っており、短慮の夏侯惇が囮を追撃して返り討ちに遭うことまで計算したうえで、戦勝に驕って油断している劉備を討ち破る作戦を組み立てたのだ。
「出陣の用意を頼む。兵は六千準備してくれ」
「しかし父上。我ら唐県の屯田兵を新野に派兵すれば、夏侯惇らと真正面から対峙することになり、我らも無傷とはいきません」
「それは分かっておる。だが、曹操閣下への対抗勢力の旗じるしとして、今劉備将軍を失うわけにはいかぬ」
くそっ。劉備の奴め、いい迷惑だぜ。こっちはとんだとばっちりだ。
「荊州牧・劉表殿にも出陣をお願いしてはいかがですか?」
「しかし、それでは劉表殿の許しを得ないまま、劉備将軍の独断で許都を襲撃しようとしたことが発覚し、劉備将軍が咎められる恐れが……」
麋竺が劉備の保身に走る。
オレ、劉備のそーゆー所が嫌いなんだ。自分のケツくらい自分で拭けよ!それができないなら、戦下手の無能らしく、戦争回避という劉表の指示に黙って従えっつーの!
オレは、イライラ感を抑えながら努めて冷静に、
「麋竺殿、安心してください。劉備将軍に恥をかかせるような真似は致しません。
父上。この際、平兄ちゃんに結婚してもらいましょう」
「いきなり何を言い出すんだ、興?」
「平兄ちゃんと劉表殿の姫との結婚ですよ!元服まで待っていられません。
三日後に、漢水を挟んで襄陽の対岸の樊城にて結婚式を執り行います。姫の輿入れのための護衛として、襄陽の兵五千を樊城まで渡河させれば、曹操軍の斥候の目には、劉表が襄陽の兵五千を援軍として派兵したと映るはずです」
「うーむ。面白い作戦とは思うが、そううまく行くか?敵軍には賈詡がいるんだぞ」
関羽のおっさんが疑念を抱く。
「実戦に長けた賈詡は、虚を実に見せる詐術にはひっかかりません。ですが、実を実のまま勝負すればどうでしょう?
曹操軍一万に対し、我が荊州軍の総数は、新野に籠る劉備の兵四千+唐県の援軍六千に、劉表が姫の輿入れのための護衛五千を加えた一万五千で、我が軍が有利。
しかも我ら唐県の援軍六千が敵の退路を断つ布陣を示せば、賈詡は不利を悟って新野の囲みを解き、速やかに葉に帰還するでしょう」
「分かった。おまえに任せる。頼んだぞ、興」
◇◆◇◆◇
実際のところ、花嫁衣装の仕立てが間に合わないことや披露宴の準備も整っていないことから、劉表は娘と関平君との拙速な結婚式については渋った。ただ、三日後に婚約の儀を執り行なうことには同意し、樊城に向かう姫の護衛のために襄陽の兵五千を送ってくれた。
襄陽に潜む曹操軍の斥候は、劉表軍の兵五千が渡河したことをただちに夏侯惇に知らせた。
一方、兵六千を率いて唐県を発った関羽のおっさんは、新野城の内と外から夏侯惇を挟撃する作戦を喧伝し、矢文で援軍の到来を知らせて籠城する劉備軍の戦意を鼓舞しつつ、敢えて北寄りに進路を取って敵の退路を断つ構えを見せた。
案の定、戦いに利あらずと見た賈詡は、新野城攻略を断念し夏侯惇を説得して、我が荊州軍の陣立てが整う前に葉に退却した。
やれやれ。
こうして唐県の兵士を一兵も損ねることなく、夏侯惇軍の撃退には成功したのだが……。
その夜、曹操軍の使いと名乗る者が文を届けに来た。
見なくても内容は分かる。
どうせ、おまえは虎賁中郎将・唐県侯として曹操閣下に多大な恩義を受けているくせに、劉備の味方をするとは何事だ!とのお叱りの文だ。
あーあ、面倒くせ。
なんて返事を書こうかなと悩みながら文を開くと、
――唐県■関興殿へ こたびの■■■作戦の不備について内密の話がある。明朝、我が陣へ弁明に来られたし 賈詡
うっわ。黒塗りの文だ。唐県侯と書いたのが分かるように、わざと薄い墨で塗りつぶしてある。さすが策士の賈詡だなあ。
狙いは関羽のおっさんとオレの不和だろう。
唐県には荊州牧の劉表から正式に県令に任命されている関羽殿がいるのに、あなたの息子の関興君(←秦朗と同一人物だと内偵済ね 笑)は、曹操閣下から唐県侯に任命されて勝手に受諾しているんですよ。
えっ、関羽殿は知らされていなかった?
あーごめん、関興君。県令より県侯の方が立場が上だよね。なのでせっかく君が秘密にしていたのに、つい筆が滑って本当のことを書いちゃったよ(笑)。父上は不快に思うだろうけど、謝っといて。m(_ _)m
……という罠が一つ。
もう一つの罠は、「作戦の不備」とか「弁明」とか「内密」とか、荊州軍のオレと曹操軍の賈詡がいかにも裏で繋がっていそうな語句をわざと使っている。作戦名らしき部分もご丁寧に黒塗りにしちゃって。
まあこんな文を見たら、誰でもオレが曹操軍のスパイじゃないかと疑うわな。
賈詡はたったこれだけの文で、二重に張り巡らせた離間の計を策しているのだ。そりゃ、潼関の戦いで馬超と韓遂は騙されて不仲になるはずだよ。怖えー。
オレは関羽のおっさんには曹操からもらった爵位のことをちゃんと報告しているし、そもそもおっさん自身が曹操の“埋伏の毒”として働いているから、こんな悪意に満ちた文をもらったところで、なんの疚しさも感じない。
文を見た関羽のおっさんは心配そうに、
「興、賈詡の陣へ行くのか?」
「もちろんです。ここで逃げたら男がすたります!」
オレはそう意気込んだ。
次回。凄腕の策士・賈詡は、関興に黒塗りの文を送りつけて関羽との離間の計を図るも、関興に適切に処置されて失敗に終わった。ならばと賈詡は、博望坡の戦いの裏事情について関興に告白する。裏で操っていたのはまさかの……。お楽しみに!
 




