34.関興と鄧艾、高幹の謀叛を見破る
その夜。
許昌の城門が閉まり灯りが消えると、街は暗闇に包まれる。
城壁の上に小さな人影があった。20mの高さから下を覗き見る。
ここから真っ逆さまに落ちたら死ぬだろうな、とつぶやきながら彼は助走をつけてひらりと地面を蹴った。
空中で彼の手足にくくり付けた布がパラシュートのように開き、重力に逆らうように風の抵抗を受けて彼はゆっくりと滑空する。
これぞ軽業師上がりの斥候・鼫から伝授された、秘儀・滑翔の術。
――オレはこうして許昌の城を脱出し、森で待つ鄧艾の元に駆けつけた。
「ごめん、待たせたな」
「若、無茶したら危ない。死ぬ」
大丈夫。子供だから体重軽いし。
「いやあ、こうでもしないと許昌を脱出して唐県に帰れないじゃん!このままずっと都に軟禁されても困るし」
「黙って帰ったら、若のお母さん悲しむ」
「だけどオレがここに居続けたら、父上と関平兄ちゃんと蘭玉が悲しむよ」
鄧艾は少し考えて、
「じゃあ、帰ろう」
納得したのか、二人で馬に騎乗し(操縦するのはオレな)、暗い夜道を南に向けてひたひたと進んだ。
二時間ほど馬を走らせてようやく脚を停め、
「ここまで離れれば追っ手もやって来ないだろう。今夜はここで野宿しようか」
大きな木の下で二人並んで座り、さっき滑翔の術で使った布をかぶって寝る。脱出劇に昂奮したせいか、疲れてるのに気持ちが高ぶって眠れそうにない。
「なあ鄧艾、なんか話せよ」
「……星がきれい」
「なんだそれ?オレを口説いてんのか?」
「あれが北斗七星。柄杓を五つ延長すれば、北極星」
「えっ、そうなの?あっちの明るい星じゃなくて?」
「あれは木星。若の勘違い。南を目指してるはずが、実際は北に向かってる」
「おい!気づいてたなら、早く教えろよ!」
俺が怒ると、鄧艾は澄まし顔で、
「若は追っ手を撹乱させて行方を晦ませた。若の深謀遠慮すごい」
思わずハアッと溜息が出てしまうオレ。そんなこと言われたら、怒りをぶつけることもできないじゃん。自分の方向オンチぶりが情けない。
「疲れたから今夜はもう動きたくないや。とりあえず寝て、明朝唐県に向かって馬を進めることにしよう」
コクリと頷く鄧艾。そしてトンガリ目を凝らして遠くを指差すと、
「若、あれ……」
暗がりの中、明かりもつけずに歩兵の軍団が南方に向かって行軍している。一万、それとも二万?すごい数の兵だ。
ここは曹操の支配領域だから当然曹操軍なんだろうけど、いま曹操閣下は北方の鄴を攻撃中だ。その援軍であれば、南方に向かって行軍するのはおかしい。
「なんか変」
「ああ。どこの部隊だろう?」
軍団に気づかれないように、オレたちは近づいて軍旗を確かめる。
「高と書いた旗」
「高ねえ……。高順は死んだか。高覧。高幹」
高覧は元袁紹軍の武将だが、張郃とともに官渡の敗戦で曹操軍に走り、今は司隷校尉・鍾繇の下で弘農という小さな城を守備している。
そして高幹。
同じく元袁紹軍の武将。袁紹から并州刺史に任命されるほど寵愛されていたが、官渡の戦いで敗れた袁紹が失意のうちに病死すると、袁軍閥を見限り、并州を挙げて曹操に帰順した。
曹操は彼を嘉して、そのまま并州の統治を任せているはずだ。
いま目の前にいる二万もの大軍を動かすとなると、該当するのは弘農県令の高覧ではなく并州刺史の高幹だろう。
曹操の鄴城包囲戦の援軍に向かっているのだろうか?
だがそれならば、ルートがおかしい。この街道を南に進めば、オレが脱出した許昌にたどり着く。
そして夜間の行軍。明かりもつけない、兵馬は枚を銜んで声も立てない。
もしかして許昌に夜襲をかけるつもりか?!
高幹謀叛!!
たぶん、こういうことだろう。
曹操は全軍を挙げて鄴城を包囲している最中。
そして帰順した并州刺史の高幹にも、鄴城包囲戦の応援に来るよう指令を下した。
高幹は、行軍の途中、司隷校尉・鍾繇が睨みを利かせる洛陽を通り過ぎるまでは、命令どおり鄴城に向かうつもりだった。
ところが、夏侯惇が許昌から三千の兵を率いて鄴に兵糧を送ることになり、許昌には荀彧と二千の近衛兵しか残っていないことを知った。
今、二万の兵で許昌を襲撃すれば簡単に勝てる!
天子様を擁して号令をかければ、天下の豪傑たちもこぞって反撃の烽火を上げ、四方から攻め込み、朝敵となった曹操を擒にすることができる――高幹は、明智光秀の「敵は本能寺にあり!」の心境だったろう。
そして行軍の進路を南に舵を切り、高幹は一路許昌を目指した。
夜間に行軍すれば、敵に気づかれる恐れはない。
明日の明け方には許昌の城下にたどり着く。二万の兵で一斉に襲撃すれば、さしもの荀彧も抵抗できず、許昌は陥落。天子様は自分の掌中に入る。
高幹の天下だ!
だが、その謀みに気づいた者がいた。オレと鄧艾だ。
許昌での軟禁生活を脱出し、南に向かって唐県に帰るつもりが間違えて北に進んでしまったため、偶然にも高幹の兵の夜間行軍を目撃してしまった。
オレたちは不審に感じて後を尾けた。そして確信した。
高幹の謀叛に気づいた以上、もちろん阻止する。
曹操にはひどい目(?)に遭わされたが、それとこれとは話が別だ。
まずは一刻も早く、城内の荀彧に知らせなければならない。
それと二人だけではどうにもならない。味方の兵を探さなければ。
たしか許昌の周りの潁陰・陽翟・長社には軍営がある。于禁・楽進・張遼の三将のうち、鄴に遠征していない将軍が少数の兵とともに残っているはずだ。
オレは于禁・楽進ともに面識はない。彼らに要請するのであれば、自己紹介して説得するのに時間がかかりそうだ。それじゃ間に合わないかもしれない。
頼む、張遼がいてくれ!
間道を通って長社に向かうと、軍営の前に篝火が焚かれている。願いが天に通じたようだ。
「お頼みしたい儀がある。オレは関興と申す者。至急、張遼将軍にお取次ぎ願いたい」
……まあ分かっちゃいたが、夜中に馬に乗ってやって来たチビがいきなり将軍に面会させろと言っても、誰も相手にしようとは思わないわな。
しかたがないので双子の兄の名を騙り、
「無礼者!曹操閣下の令息・曹林の訪問を蔑ろにする気か!」
と言ってやった。見張りの者は大慌てで張遼に取り次いだ。
「ケッ。慌てて来てみればチビちゃんか」
と言って、張遼が姿を現した。
「どうした?直談判しに来たって、俺の娘はやらんぞ」
こないだの関平兄ちゃんの婚約者探しの件を、いまだに根に持っている。あれは誤解だって。
「そんなことより大変なんだ!夜闇に紛れて、二万の兵が許昌に向かって進軍している。おそらく并州刺史の高幹が、鄴に向かう途中で反旗を翻したのではないか?
至急、城内の荀彧様と連絡を取りたい!」
「なにっ!?詳しく話を聞かせろ!」
そうして、オレと鄧艾が目撃した情報と推理を張遼に説明した。
「なるほど。チビちゃんが言うように、高幹が謀叛をたくらんだ可能性が高いな。よし、荀彧殿には俺が連絡を取る。あとは任せろ。重大な情報を知らせてくれて助かった。この恩は後で必ず返す。俺が運よく生き残って再会できれば、な」
「張遼殿はどうするつもりですか?」
「決まっているだろう。もちろん高幹を討つ」
張遼は死を覚悟してそう告げると、
「俺は本来、叛逆者の呂布の配下として殺されるべき運命にあったところを、曹操閣下に許され、あまつさえ将軍に抜擢してもらった。それ以来、功名を打ち立てることを志してきたが、いまだその恩には十分に報いることができていない。
敵の大軍は二万、俺が預かる兵は三千だ。多勢に無勢は承知の上。正々堂々、刺し違える覚悟で特攻すれば、一兵をもって敵の百にあたる事ができよう。
今日陥った危難に殉じることこそ俺の本望」
「それはなりません」
オレは張遼の短慮を諫めた。
「張遼殿の言われるとおり、敵味方の兵力を比較すると多勢に無勢。力攻めで攻めても万に一つも勝てる見込みはありません。張遼殿は犬死にするつもりですか?」
「ならば、今すぐ許昌に駆けつけ荀彧殿と力を合わせて籠城し、危機を察した鄴の曹操閣下が戻って来るのを待てと言うのか?」
「確かにそれもひとつの策だとは思います。
ですが、得難くして失いやすいのが時というもの。曹操閣下が鄴の包囲を緩めたことにより袁尚が息を吹き返したならば、華北統一という天が与えた千載一遇の機会を逃すのみならず、後の患いも大きくなりましょう。
それに張遼殿の兵三千が許昌に入って籠城に協力すれば、荀彧殿としては安心でしょうが、軍を一つにまとめたことで敵は城攻めだけに専念でき、かえって敵を利することになります。上策ではありません。また、防戦一方の逃げの姿勢を兵士へ示してしまえば、戦う前に味方の士気が萎えてしまう恐れがあります」
「では、チビちゃんに何か策でもあるのか?」
「計略を使って撃ち破るしかありません。
張遼殿には決死隊を率い、城外で暴れてもらいます。オレが計略をもって敵を撹乱するので、敵に隙が生じればさんざんに攻撃してください。
残りの兵は敵に感づかれぬよう、間道を通って急ぎ許昌の城内に入り、荀彧様とともに固く守って籠城戦に協力してください。
内外共に奮戦すれば、敵は震え上がってなす術もなく、敗れるのは必定です」
「だが……」
「幸いなことに、我々が高幹の謀叛を掴んだことを敵はまだ感知していません。
高幹は兵数の優位を恃んで勢いこそ盛んだが、勝利を確信しているせいで、将は驕り兵は怠けて軍律は緩みきっている。奇襲を仕掛けて不意を衝けば、必ずや敵を撃破できましょう」
オレは自信満々で答えた。張遼は喜んで、
「よし、チビちゃんに賭けるぞ。いずれにしても俺は死を懼れん!今こそ曹操閣下への恩義に報いる時だ!」
荀彧への一報は、張遼が伝書鳩を飛ばして無事に知らせることができました。
次回。謀叛を起こした高幹を討伐するために、力を合わせる関興と張遼,荀彧。関興はいったいどういう策略をめぐらせるのか?お楽しみに!




