32.荀彧、関興に王佐の才を説く
マジメ回です。
荀子をなぞっただけで、面白くないかもしれません。
オレは最初、荀彧のことを
――ちょっと頭いいからって、恩着せがましいし、優しいフリをして平気で罠に嵌めるし、なにが品行方正で徳の備わった天下の賢才だ!
とムカついていたが、荀彧の仕事ぶりを眺めているうちに考えが変わった。
荀彧は朝政だけでなく曹操出征時の補給確保を取り仕切り、決裁を待つ文書は常に机の上に山積みにされていたけれども、事務処理は流れるように速やかだった。必要な場合は的確な指示を部下に与え、資金の配分は適切になされる。
訪れる陳情の客はいつも部屋に満ち溢れており、荀彧は倦むことなく親密に相談に乗ってやった。
智者と名高い荀彧を慕って、遠近問わず面会を望む者が毎日数十人に及んだが、荀彧はこれを煙たがらず、ある時は夜を徹して知識を披露した。そのため皆、荀彧に喜んで従うのであった。
「知ってのとおり、私は戦国時代の儒者・荀況の子孫だからね。『荀子』に記される君子像に一歩でも近づけるよう、日々努力しているのです」
荀子。
――人の性は悪なり。其の善なる者は偽なり。
高校時代に漢文の授業で習ったな、性悪説。
人の性質は生まれながらに悪である。孟子の言う性善説は誤りである、だっけ?
「それは君の誤解ですよ」
と荀彧が言う。
「荀子の性悪説に述べる「悪」とは、利己的な欲という意味。「偽」とは人為、ここでは後天的な努力、すなわち礼義を身に着けるという意味。
だから荀子が述べているのは、人の本来的な性質は「悪」すなわち利己的な欲の塊であるけれども、人為すなわち礼義を身に着けることによって「善」に変えることができる、という主張なのです」
人の本来の性質に従い感情の赴くままに行動すると、必ず争奪が生じ、真心や誠実さが失われ、条理が犯され乱れて、秩序が崩壊してしまう。
そのような時に正しい導き手と礼義による感化があれば、謙譲の心が生まれ、条理に合致し世の中が治まる。
「君子は治を治む、乱を治むに非ざるなり。という。
ならば、国が乱れたら、君子は乱世を治めることを諦めてよいのだろうか?
決してそうではありません。
こんな乱世だからこそ、儒学が生きるのです。
皆が苦しみ困っている時に、法律で縛ってどうします?無が至高だからといって、無から何が生まれます?
戦乱の世では、法律至上主義や老荘思想は人々の救いに役立たないのです。
統治とは、乱の原因を取り除いて治を加えるもの。その方法は、社会に礼義を教化する以外にない。『荀子』には、もし才能が備わっているのなら、君子は寛容で素直な心を持って人を教え導きなさい、と記されている。
だから私は、微弱ながら先祖の教えを守り、乱世を治めるための種(礼儀教化)を広めているのです」
すげえ!こんな立派な、尊敬に値する人がいるんだ!
オレはずっと儒教を馬鹿にしていたが、荀彧は本物の君子だ。
正史『三国志』に注釈を付けた裴松之は、「荀彧が乱世を平和に導くために曹操に協力した結果、漢は二旬(24年)も生きながらえ民衆は救われた」と絶賛し、司馬懿は「近世、荀彧殿に匹敵する賢才は存在しない」と褒め称えた。
前世の俺はオーバーな評価だと思っていたが、決してそんなことはない。
「でも、こんな激務、荀彧様が過労死してしまいますよ!」
オレは思わず心配した。
「フフッ。大丈夫ですよ、私はこの仕事が好きなのです。
それに儒者の端くれとして、戦乱の世で困っている者を見捨てておけないでしょ?彼らを救わなければ、政治家を志した意味がないでしょ?」
「それって……荀彧様は菩薩行の功徳を積んでいるんですか?」
慈悲の御心で衆生を哀れみ、彼らが発する救いの声を観じ、即座に救いの手を差し伸べ救済する観世音菩薩。修行の中で慈悲行(菩薩行)を積み、衆生済度の功徳によって如来の位に到達したいとの請願を立てている。
一切の衆生を救わんがために。一切の衆生の苦厄を取り去らんがために。
「菩薩……最近、浮屠の教えが中州に伝えられたそうですね。関興君はどうして浮屠の教えをご存じなのですか?」
やばい。転生者のオレの前世は日本人だった。難しいことは分からないが、観音菩薩が自利利他を唱える大乗仏教の仏様の一座であることぐらいは知っている。
そして中国に大乗仏教の教えが広まったのは、西晋末から五胡十六国時代にかけてのことだ。後漢末の関興が観音菩薩の教えを知っていることは時代的に矛盾する。
「えっ?えーと、浮屠の僧が唐県を訪れた時に、説法を聞いたことが……なあ鄧艾、おまえも浮屠の僧を見たことあるよな?」
「ある。変な呪文を唱える人」
いや、呪文じゃなくてお経だぞ。だがナイスフォローだ。荀彧は、慌てて誤魔化したオレをそれ以上追求せずに、
「ふうん。浮屠の教えは、一度聞いて理解できるような簡単なものではないはずなのですがね。まあ、いいでしょう。
私は、関興君が子貢の言葉:「もし多くの民衆に施しをし、苦しみから人を救うことができれば仁者というべきか」と尋ねて来るかと思っていました。
田豫殿に聞きましたよ、関興君は子貢に憧れてるんじゃないかって」
いや。オレは子貢の生き方に興味はあるが、憧れてはいない。
それに、オレの力で人々を苦しみから救いたいなどという思い上がった考えは抱いていない。オレは目的のためなら悪に手を染めることだって厭わないんだ。仁者なんて虫酸が走る。
むしろそういう役割は荀彧にこそふさわしい。オレ的には、荀彧は「この世に具現した菩薩」なんだから。荀彧って、前世で京都太秦の広隆寺で見た弥勒菩薩に似てるんだ。柔和で優しげでどこか儚い、それでいて芯がしっかりしている御姿。
「荀彧様は、曹操閣下から“王佐の才”と称揚されたと聞きました。“王佐の才”は具体的にどうすれば身に付くんですか?」
「礼義によって行動を戒め、裁判は法により判断し、明察はわずかなことでも見分け、献策は臨機応変にして尽きることがない。それが王者を補佐する者の心構えだと『荀子』王制篇に記されています。
つまり、王者のために徳ある者を尊重し、能力ある者を任官させ、功績ある者は褒賞し、罪ある者は必ず罰する。そういう当たり前のことを当たり前のようにやるだけですよ」
「では、荀彧様は曹操閣下を“王者”だと考えておられるのですか?」
オレの問いに荀彧は、困ったような顔をして、
「乱世には、強者・覇者・王者が生まれると『荀子』王制篇は説く。
強者は、敵に対して常に武力で決着をつけようとする。
敵と戦えば、当然、敵に甚大な損害を与えることになる。甚大な損害を被れば、敵の兵士は我々に激しい憎悪を抱き、いつか復讐しようと戦意が高まるだろう。
その一方、戦争が続けば自国の人民に与える損害も甚大である。戦費と兵糧の調達のために税金が重く圧しかかる。そうなれば、自国の人民もまた激しい怨嗟を抱くが、戦意は反比例して失われてゆくだろう。
敵国では兵士の戦意が高まるのに対し、自国では人民の戦意が失われる。
たとえ領土が増えても民心が失われれば、面倒ばかり増えて功績は少ない。防衛範囲が広がる反面、守備力は落ちる。
これが強者が弱体化する原因であり、せっかくの強国が逆に他国の侵略の餌食になってしまう破目になるのだ。
覇者は、国家を富ませて諸侯を味方につける。
耕地を開拓し、米蔵や国庫を満たし、人民に対しては恩愛をもって当たり刑罰を厳粛にする。一方、軍事面においては、兵士の徴発を慎重に行い、褒賞を与えて督励するとともに、武器の開発・改良を進める。
外交政策においては、滅んだ国を建て直し、世継ぎの絶えた国には後継者を据えて継続させ、弱国には保護を与え、侵略国には制裁を加える。
諸侯に対して十分な敬意をはらい、対等な外交を求めるならば、諸侯は覇者を尊敬し、また重んじる。
かつて春秋・戦国時代の斉の湣王が楽毅に敗れて破滅し、斉の桓公が魯の曹沫に脅迫された理由はほかでもない。彼らが覇者の取るべき道をわきまえず、驕って天下に君臨しようという野心を抱いたからだ。
そして王者ともなると、仁・義・威厳が天下に行き渡る。
仁が天下に行き渡れば、王者に親しまない者はいない。
義が天下に行き渡れば、王者を尊敬しない者はいない。
威厳が天下に行き渡れば、王者に敵対する者はいない。
ゆえに戦わずして勝ち、攻めずして領地を得、武器を使わずして天下が帰服するのである。これこそ真に王者たる道である。
だから我々の進む道は、軍備を強化する前に外交的手段を講じ、国力の充実を図りながら自らの徳を養うに限る。
そうすれば他国に侵略されることもなく、君主が徳を積めば侮られることもない」
と述べた。続けて、
「だからと言っていきなり王者の真似ごとをしても、実力が伴っていなければ他国に侵略され、国は滅んでしまうのです。王者を目指して一歩ずつ、強者・覇者と段階を踏んで行かなければなりません」
「そのために、荀彧様は今は曹操閣下に従っている、と?」
荀彧は大きく目を見開いて、
「君は際どいことをサラッと口にしますね。
『荀子』臣道篇には、
人徳によって主君を覆いつくし、彼を善に教化してしまうのが大忠。譬えて云えば、周公のような人物である。
人徳によって主君をうまく制御し、彼を輔佐するのが次忠。譬えて云えば、管仲のような人物である。
信念に基づいて主君の非を諌めるも、彼の怒りを買うのは下忠。譬えて云えば、伍子胥のような人物である。
とあります」
「荀彧様の仁徳と曹操閣下の野心の大きさとの力比べということですか?」
荀彧の仁徳が勝れば、曹操は王者となることができ、曹操の野心が勝れば、荀彧は伍子胥の運命を辿る。呉王夫差が伍子胥に自殺を命じたように。
――だから史実では、荀彧は曹操に死を命じられた、のか?
「オレはそんな勝負なんか嫌です!」
「正道に従って主君に従わず、正義に従って親に従わないのが、君子の踏むべき宿命だ。自らの志を曲げ、言葉を諂うならば、儒者の道は尽きてしまう(『荀子』子道篇)。
私は最期まで儒者の道を貫きたい。たとえ君が腐れ儒者と揶揄しようとも、ね」
--荀彧--
生誕 延熹六年(163) 42歳
統率力 82
武力 51
知力 99
政治力 99
魅力 95
次回。兄の曹林と産みの母親・杜妃と再会を果たした関興。正直、ウザい。
杜妃の口からついに明かされる関興の出生の秘密!そして関羽が曹操の元を出奔し劉備の元に戻った理由とは?!お楽しみに!




