218.日蝕
六月一日。
どれほど走ったのだろう?
ここがどこかも分からない。胡蝶は気がつくと、新芽の緑が鮮やかな灌木が生い茂る林の中にいた。
「あれは……」
三十歩先に羌族の姿を発見した。四,五人の敵なら一人でも倒せる自信がある。奴らに見つかる前に先手必勝、こちらから襲撃するか?胡蝶が一歩を踏み出そうとしたその時――敵の数がさらに増えた。
ざっと十人はいる。
マズい。こちらは丸腰だ。下手に仕掛ければ、数を恃んで返り討ちに遭うやもしれぬ。
奴らに見つからぬよう、身を隠そう。
胡蝶がそう判断して茂みに潜んだ瞬間。
パキッ。
不用意な一歩が枯れ枝を踏み、乾いた音を立ててしまった。奴らが聞き逃すはずがない。
(誰だ?!)
(隠れてないで出て来い!)
(矢だ、矢を放て!)
羌族の一人が叫ぶ。茂みに向かってヒュン,ヒュンと矢が飛んできた。胡蝶は落ちていた丸太を拾って払い落とす。
(女だ!敵は一人だぞ)
(囲んで捕らえろ!)
見つかったのであれば、やむを得ぬ。まずは剣を手に入れなければ。
とはいえ多勢に無勢の場合には、むやみに闘おうとせずできるだけ体力を温存し、なんとか逃げ道を切り開いて死地を脱するのがセオリー。敵と一人ずつ対峙して殺し合いを挑むのは愚策だ。
女だと思って嘗めてかかり、警戒もせず近づいて、胡蝶を捕らえようと羌族の男がのばした手をかい潜ると、
「触るな、汚らわしい!」
とばかりに鳩尾に肘鉄を食らわせる。男はウッと呻いて膝から崩れ落ちた。
続いて襲いかかった二人目の羌族の男の足をすかさず払い、手首をつかんでヤッと抱え上げる。宙に浮かされた男は一回転して脳天から地面に叩き落され、伸びてしまった。
そうして男の腰から剣を奪い取ると、胡蝶は三人目の男に一瞬で間合いを詰め、相手の剣をはじき落し、腕や太腿に刃を振るった。四人目も同様に傷を負わせ、赤い鮮血が噴き出した羌族の男二人は痛みにのたうち回る。
「これで四人」
行けるかもしれない。
だが、五人目の男はこれまでとは勝手が違った。
蠍赤児と名乗る敵が、先手を取って繰り出した横薙ぎの一閃。胡蝶はすばやく一歩後退して避けた。敵はすぐさま間合いを詰めて、二の太刀三の太刀を浴びせ来る。強い。胡蝶は巧みに剣を操り、応戦すること二十余合。はぁはぁと息が上がる。五指に入る剣の使い手だと自慢したが、それは部族内での剣術試合の話、実戦は初めてだった。負ければ即死。激しい動きのせいか筋肉に乳酸が溜まり、足どりは重い。
(この、くそ女!)
大声で威嚇しながら蠍赤児が突進して来る。上段から振り下ろされる必殺の斬撃。まともに受けては力負けする。避けるか?だが胡蝶は一か八か敵の懐に踏み込み、相手の胸板をめがけて渾身の突きを放った。
躱されたところをすかさず二の太刀…と狙っていた蠍赤児は、胡蝶が放ったまさかのカウンターに信じられぬとばかりに大きく目を瞠り、己の心の臓を貫いた剣を恨めしそうに見つめながら、仰向けにぶっ斃れた。
しかし胡蝶にも、これ以上戦う体力は残されていなかった。視界は霞み、呼吸は喘ぐ。もはや気力だけで立っていた。最初に倒した男が笛を吹いて仲間を呼び、駆けつけた羌族の群れに十重二十重と囲まれ、剣を向けてじりじりと包囲を狭められては万事休す。
「もはや、これまでか……」
胡蝶は血脂で汚れた剣を投げ捨て、投降した。そうして羌族に捕らえられ、猿ぐつわを咬まされたまま林の奥深くへ連れ去られた。
◇◆◇◆◇◆
林の奥にある羌族の部落に連行された胡蝶。彼女の美しい姿を見た羌族の首魁は、
「ふぅむ。こやつが蠍赤児を倒した女か、なかなかやるではないか。それにかなりの器量良し、わしは気に入ったぞ。どこの部族の者だ?」
「……」
胡蝶は顔を背けたまま、返事をしない。側近の一人が、
「こいつめ、お頭に向かってなんて態度だっ!」
と胡蝶の頬をひっ叩く。首魁はすかさず、
「まあ待て。強気に抵抗するところも初い初いしいではないか。のう、大事な顔に傷がついたらどうする?痛かったろうに」
とさすりながら、ベロリと胡蝶の頬を舐める。生臭い息に吐き気がしそうだ。
「や、やめろっ…気持ち悪い!」
「ふっふっ、おまえはわしの慰み者として連れて来られたのじゃ。今宵は、おまえの膣にわしの精をたっぷり注ぎ込んでやるぞ。初めは痛みと屈辱で泣き叫ぼうが、すぐによくなる。女の愉悦と快楽に溺れてよがり狂うがよい」
ニヤニヤと下卑た笑いを見せる首魁に、
「くっ…殺せ!」
胡蝶は悲鳴を上げる。
と、折悪しく門番が駆け込んで来て、「申し上げます。五斗米道の祭酒(長老)がお見えになられました」と告げた。
「なに、五斗米道が?」
実は羌族にも五斗米道の信徒が少なくない。それに五斗米道の張魯は、羌族と友好関係にある馬超と同盟を結んでおり、羌族の首魁は五斗米道に一定の配慮をせざるを得ない事情があった。
「やむを得ん。しばらくその女は牢に閉じ込めておけ」
と側近に言いつけて、会見に臨む。ひととおりの挨拶を済ませると、まだ若い五斗米道の祭酒は早速とばかり用件を切り出した。
「ああ、助かりました!首魁殿配下の羌族の若衆が、道にはぐれてしまった聖女様を見つけて下さったそうで。お引き渡し願えますか?」
「? 何の話だ?」
事情が呑み込めず羌族の首魁は首をかしげる。
「そちらの女性ですよ。この方は、五斗米道の教祖・張魯様がわざわざ招かれた東方の聖女様です。いったいどうなさるおつもりですか?」
猿ぐつわを咬まされたままの胡蝶は、祭酒の言葉に驚く。
(何だって?!私はただの鮮卑族の首魁の娘。聖女とか何を言い出すんだ?
……いや待て。よく見たら、こいつはあの憎たらしい関興じゃないか!どうして五斗米道の祭酒の衣装なんか着て、この場に現れたんだ?)
「そ、それは…今宵の伽にでも、と…」
羌族の首魁の返答に、祭酒(に扮した関興)はふぅっと溜め息をついて、
「困りますねぇ。聖女様には処女性が求められます。男性と媾合えば神通力が失われますので」
「ぐっ…だ、だが、先に攻撃を仕掛けてきたのは、この女の方からだと聞いておる!」
「そりゃあ、いやらしい目つきの羌族の男どもに囲まれたら、聖女様だって抵抗するでしょうよ」
と正当防衛を主張する。だが首魁も反論し、
「待て。先ほどから祭酒殿はその女を聖女と称するが、そんな証拠がどこにある?聖女なら、得意の呪術で奇跡でも起こし、我ら羌族の男どもをひれ伏させてみよ!」
「はっはっは、お易い御用。聖女様、鮮卑族が信じる天つ神に祈りを捧げて下さい」
と言いながら、関興は胡蝶の猿ぐつわを外してやる。胡蝶は小声で、
(きさま、何をフザけたことを言いやがる?!私は聖女なんかじゃないし、奇跡を起こす力など持つわけが……)
(いいから!オレを信じて。あっ、そうだ!酒宴の席で舞った素敵な踊りを見せて下さいよ)
胡蝶は渋々関興の言うとおりに、陳倉の酒宴で披露した鮮卑族の伝統舞踊を舞った。こんなものがいったい何の役に立つのか?
「うむ。さすがに美しい」
羌族の男たちは感嘆の声を上げる。すかさず祭酒(に扮した関興)は首魁に向かって、
「首魁殿。こちらの聖女様は羌族が崇める日の神とも情を交わすことができます。誤って羌族に捕らわれた聖女様の悲しみに感応して、太陽が天の岩屋戸へと隠れようとするはずです。そうなれば、天下は暗闇に覆われ、邪神どもの呻き声はさ蝿なす満ち、萬の災厄が悉に起こるでしょう」
「なにを馬鹿な。羌族を守護する日の神が我らに仇なすなど……」
とせせら笑う首魁。
ところが。
「お、お頭!西の空に沈む夕日に異変が……」
「黒き闇に、太陽が飲み込まれておりやすぜ!」
驚いた首魁が慌てて外に飛び出すと、手下どもの言葉どおり、赤く染まった夕日の端から、得体の知れぬ真っ黒な球体が太陽を浸食している。三日月のように左半分が欠けているのだ。
「な、なんだこれは?!」
「これこそ、日の神をも動かす聖女様が起こした奇跡。羌族の無礼な行いが聖女様を悲しませ、伝え聞いた日の神がお怒りになった証」
五斗米道の祭酒(に扮した関興)が感情を押さえて冷静に告げることで、羌族は皆それが本当だと信じた。
「ど、どうすれば?」
「ようやく聖女様の力が本物だとお認めいただけましたかな?
これまでの無礼を謝罪し、あなた方に代わって羌族が崇める日の神に許しを乞うていただくしかないでしょう。聖女の頼みとあれば、日の神の怒りも鎮まるやもしれません」
「わ、分かった!聖女は祭酒殿にお返しする。だが日の神のお怒りを鎮め、もとの太陽に戻してもらわぬことには……」
「ああ確かに、それはごもっとも。
では、聖女様には朝日が昇るまで舞を踊り続けていただきましょう。念のため、聖女様が怠らぬよう、この祭酒を見張りとして一緒に牢に閉じ込めればよろしい。明日の日の出を見て、太陽がいつもどおりの姿で昇ってくれば、羌族の皆さんも安心でしょうから」
関興は自信ありげに答える。
そうこうしているうちに、黒き闇はすっぽりと夕日を飲み込み、赤黒く鈍色に染まったまま西の地平線に沈んでいった。
途中、日本神話(古事記)の天岩戸を題材としています。
もちろん、関興が魔法で日蝕を起こしたわけではありません。あの日あの時あの場所で日蝕が起こることを知っていた……のか?!




