217.弱
莫護跋の娘・胡蝶が語り手です。
我々慕容部の一行は関興に率いられ、陳倉にたどり着いた。
城主の郝昭が出迎えて、奴にヘイコラと頭を下げている。なんだ?こんな弱っちいガキを敬うとは、やはり漢族は大したことがないな。二人とも斃して城を乗っ取るか。
剣の柄に伸ばした私の手は、またも父の莫護跋に止められた。
その晩、首魁の父と私それに弟の木延は関興とともに城に招かれ、見たこともないような豪華なご馳走を振る舞われた。
「どうぞ、ゆるりとご滞在を」ともてなしを受けた木延は、すっかり舞い上がった。川で水浴びしか経験のない弟は、温かい湯の風呂に浸かり、いい匂いのする石鹸で身体と髪を洗いすっかり垢抜けた。上等な服を身にまとい貴公子然とした木延は、
「遊牧なんかやめて、ここで暮らしたい」
と馬鹿なことを言い始める。そうか、関興の狙いは鮮卑族を漢の文明に染めて堕落させるつもりだな。その手には乗るか!
「なりません!皆が待っているのです、明日にはここを出発しますよ」
「えー。姉上だってせっかくお姫様みたいに綺麗なのに」
膨れ面で抗議する木延。お姫様?綺麗?私が?――戸惑う私を見てクスッと笑った関興が癪にさわりキッと睨みつけると、慌てて目を逸らした奴は、
「荊州にもあるよ、お風呂。木延君がそんなに気に入ったのなら、好きなだけ入ればいいじゃないか」
「ほんと!?じゃあ、飯は?」
「さすがにこんなご馳走は毎日は出せないよ。というか、ここ陳倉の城だって毎日こんな贅沢な食事を食べてるわけじゃないはずだけどね。何か裏が…おっと。でも荊州だって、おいしいご飯はいっぱいあるよ。君たちだけじゃなく、慕容部のみんなの分もね」
「ふ~ん。じゃあ、荊州まで行ってやってもいいかな」
木延は期待交じりに先ほどのセリフを撤回した。
やがて野営のゲル(テント)に戻った関興は、父の莫護跋と二人きりで密談を始めた。その場を下がった私は耳をそばだてる。
(いろいろ気を遣わせてすまない。あれも難しい年ごろで…)
(ハハ、大丈夫ですよ。元気で何よりです)
父上も、木延が遊牧生活をやめたいと言ったことがショックなのだろうか?
(…大将は漢中で人を待たせているんだったな。早く向かわなければ)
(ああ、それはかまいません。ただ、城の連中の動きがどうも怪しいのが気になる)
(わざわざ夷狄の我々をもてなしたことか…)
(失礼ながらそのとおりです。漢族の夷狄嫌いは昔から。それなのに、おもてなし作戦とはさすがにオレも想定外でした。狙いはよく分かりませんが、我々をここで足止めしようとしていることは確かです。お嬢様の言うとおり、早々に陳倉から立ち去ることをオレも勧めます)
と語るのが聞こえた。小憎らしい奴がまさか私の意見に賛同するとは!
後日、城の連中は曹操の荊州乗っ取りを成功させるために、関興を足止めする必要があったと知ったのだが、そうとは知らぬこの時の私は、関興が敵か味方かよく分からなくなった。
-◇-
陳倉から漢中へ至るには大きく二つのルートがある。秦嶺山脈を越えるルートと祁山の麓を大きく迂回するルート。
前者は距離が短い分、急峻な坂と蜀の桟道と呼ばれる危険な隘路が続く。所要日数も十日と掛からないが、訓練された兵士であっても、百人のうち二,三人は谷底に落ちて死ぬような難所だそうだ。まして女・子供が多数いる我らの行軍は、たいへん厳しいものになるだろう。
対して後者は、比較的なだらかな標高を遠回りする分、行軍しやすい。蛮族の羌族が出没する地域でもあるが、天水までは曹魏の勢力範囲、武都から先は五斗米道の勢力範囲で、どちらにも顔が利く関興がいれば危険は少なくできるらしい。ただし、距離が倍に増えるため所要日数も増えるのが難点だ。
「そういうわけで、我々は祁山のルートを行こうと思います」
あっさり後者を提案した関興に驚いた私は、
「待て!おまえは漢中で人を待たせているのだろう?約束の期日に遅れるわけにはいかんだろうが!」
とつい口を挟んでしまった。一瞬呆気にとられ、すぐにプッと吹き出した奴は、
「ははあ☆さてはお嬢様、オレと莫護跋殿の密談を盗み聞きしましたね?」
「ち、違っ…」
「お嬢様がオレの事情に気を配ってくれるなんて、優しーい♡」
「う、うるさいっ!茶化すな!」
顔を赤らめた私は、思いっきり関興の顔を殴った。
-◇-
鼻にティッシュを詰めた関興は、陳倉で十日分の水と乾飯を援助してもらい、手持ちの金で酒と武具を買い入れると、馬車に積み込んだ。いざ出発。斥候を前後に放ちながら、用心深く祁山へ向かうせいで、馬での移動というのに日に百里も進まない。
曹魏が築いた砦は五十里ごとに置かれているそうだが、砦を通過するたびに関興は酒を持ってツケ届けに訪れ、野営は砦と砦の間の目立たない場所にゲル(テント)を張る。斥候が遠くで羌族を見かけたと知らせれば、ただちに行軍をやめて円陣を組み、ひと塊になって警戒態勢を維持したまま一日中待機したこともある。
まったくグズで臆病に過ぎる、と私は呆れた。
ある日、斥候役に手を挙げたところ、関興はすかさず、
「駄目です」
と拒否しやがった。
「何故だ?!おまえが斥候に指名する蝉弗よりも私の方がはるかに腕が立つ。あいつはただ逃げ足が速いだけじゃないか!なんなら、漢族のおまえと決闘しても簡単に勝てる自信があるぞ」
「なるほど、それは頼もしい。だけどお嬢様は斥候には不向きです。行軍の足手まといにならないよう、おとなしく女・子供の護衛に付いていただきたい」
「なっ…わ、私が足手まといだと?!」
私はついに堪忍袋の緒が切れた。
「もう許せん!関興、剣を抜けっ!」
「わーっ、決闘だ!」
「頑張れお嬢様!この憎らしい漢族を叩き斬ってやれ!」
騒ぎを聞きつけた父の莫護跋が飛んで来た。
「何をやっている、胡蝶!?」
「関興めが首魁の娘であるこの私を侮辱したので、決闘を申し込んだところです!父上、見ていて下さい。私が性悪なこいつの正体を暴いてみせますっ!」
「いい加減にしないか!」
パンッと乾いた音を立てて、父が私の頬を叩いた。
「我は関興殿を大将と仰ぎ、慕容部の終の棲家となる荊州へ先導をお願いしている。首魁の決断が気に入らぬというなら、胡蝶、おまえはどこへなりと出て行くがいい!」
何ということだ。父が、娘の私よりも、見ず知らずの漢族の関興を選ぶとは。
「くっ……」
私は悔し涙を流してその場から走り去った。
関興…首魁を誑かす悪役令息みたいな展開に?!




