216.誘
馮翊での受け入れを断られ、やむなく立ち去ろうとする莫護跋の後ろ姿に、オレは声を掛けた。
「まぁ待ちたまえ、莫護跋。行く宛てがないのなら、いっそ荊州に来ないか?」
「?」
「オレは任務を終え、蒲坂から荊州へ戻る途中の関興って者だ。
漢中遠征に伴って新たに領土に組み入れた上庸郡なら、山がちな未開の土地が余っている。ただし、農耕には不向き、自分たちで一から開拓せねばならん。なぁに、道路や水路の敷設・家の建築くらいはオレの仲間が手伝ってやるよ。将来は、チロル・アルプスのような一面の高原に広がる牧草地にすればいい。
そしておまえ達の希望どおり定住して牧畜生活を営み、オレたち荊州軍に軍馬を供給しろ。代わりに腹いっぱい飯を食わせてやる。どうだ?慕容部の五百人くらい、余裕で受け容れてやるぞ」
と提案する。
涼州や幽州、あるいは塞外民族から高額で購入するしかなかった、随一の機動力を有する馬が荊州領内で手に入り、しかも馬を育てる専門家までも自前でまかなえるのだ。最高じゃないか!
「……本当にいいのか?我らは夷狄だぞ」
「たしかに領内にはチベット系の氐族や賨族はいるけど、鮮卑族は初めてだな」
と笑い、
「心配するな。荊州には戦乱や飢餓で故郷を追われやって来た流民や、かつての河賊・山賊くずれで今は改心した者たちも大勢入植している。そいつらだって“よそ者”なんだ、新たな“よそ者”のおまえ達が荊州に住んで何が悪い?
荊州の基本的な掟は、先住の者に迷惑を掛けるな、お互い助け合え。働かざるもの食うべからず。犯した罪はその身をもって贖え、だ。莫護跋、おまえがリーダーとなって慕容部を統率してくれればそれでよい」
すると手下の一人・蛾洵が、
「フン。あんたはいいと言っても、荊州を治める太守が本当にわしらを受け容れてくれるのか?
荊州はここからさらに三千里も行った先なんだろう?そんな遠絶の地まで行ったものの「やっぱり出て行け!」と拒否されたら、いよいよわしらは異郷で野垂れ死にする運命だ。これ以上、酷い目には遭いたくない」
同調して頷く者もいる。これまで散々裏切られてきた慕容部の連中にすれば、荊州太守の息子のオレが言うんだから大丈夫、と口約束したところで信用できないだろう。
だが莫護跋は重い口を開き、
「皆の懸念は分かった。だが、このまま行く宛てもなくウロウロと彷徨ったところで、我らが野垂れ死にする運命は変わらぬ。ここで関興殿に出会ったのも何かの縁。我はひとつ荊州行きに賭けてみようと思う」
莫護跋の決断に、一部に不満は残りながらも(首魁がそう言うなら…)と皆の意見がまとまった。
-◇-
<莫護跋の娘・胡蝶の視点>
故郷を追われ、豊かな漢族の地に定住を望む我ら慕容部とすれば、漢族との軋轢は極力避けたい。そんな思いでこれまで強盗・略奪のたぐいは控えていたが、いよいよ食べ物が底をついてしまい、きれいごとを言っている段ではなくなった。
父は男たちを連れて臨晋の県城へ水と食糧の調達に向かった。首魁の長女に生まれた私は後方に残り、待機している女・子供の護衛とまとめ役を任される。今宵の野営の準備を始めたところで、父や男たちは漢族に敗れて全員が虜にされたとの報せが耳に入った。
そんな馬鹿な?!
父は塞外でも名を知られた勇士、対する相手は弱っちい漢族だぞ。
狡賢い奴らのことだ、きっと卑怯な手を使って父を捕らえたに違いない。
不安に怯える女・子供を落ち着かせ、捕虜となった父の救出に向かう算段をしていると、幸いなことにすぐに全員が解放されたと知った。安堵はしたものの、戻って来た父や男たちが一人の漢族を大将に仰いでいるのがどうにも許しがたい。
だって連れて来た奴は、モブ顔でひょろりとした見るからに弱そうなガキ。
「これから関興殿の先導で荊州まで旅をすることになった。荊州の地では、我らに念願の土地を譲ってくれるそうだ!」
父の演説に皆喜んでワァーッと歓声が上がるが、私は関興とかいう抜け目なさそうな漢族が気に入らない。
「待って下さい、父上!私は漢族が信用できません!我々を騙して、烏桓族のように曹操の尖兵としてこき使われたり、扶余族のように奴隷や娼婦に売られたりするんじゃないかと心配です!」
「あはは…やはり信用ならないかぁ」
決まり悪そうに頭を掻くガキ。その仕草が妙に腹立たしく、
「おい。私と一騎討ちで勝負しろ!鮮卑族は武を尊ぶ。力こそ正義。きさまを倒し、欺瞞を暴いて皆の目を覚ましてやる!」
「えー嫌ですよ。オレに何のメリットもないもん」
と、すげなく断る関興とかいうガキ。
「はは~ん、さては怖いのだな?勇士の莫護跋が娘・胡蝶の名を聞いて臆したか!」
と挑発すると、肩をすくめて、
「オレはか弱い女性を叩きのめす趣味は持ち合わせないんでね」
「よ、弱い?!慕容部の中でも五指に入る剣の使い手の私を見くびるか!」
激昂して鞘から剣を抜こうとする私に、
「よさないか、胡蝶。我をはじめ慕容部の男たちは、関興殿に負けた。したがって関興殿は首魁の我より強い、ということになる」
と父がなだめる。
「し、しかし…」
「娘のおまえが首魁である我の命令を聞かんでどうする?」
私は唇をギリッと噛み、
「……分かりました。おいガキ、命拾いしたな」
と睨みつけて私は引き下がった。
臨晋県から五日分の水と乾飯を渡されたおかげで、今宵の飯にありつくことができた。塞外民族の我らを“撃退”した褒美と引き換えに、関興は食糧をねだったらしい。それを聞いた慕容部の女・子供は「なかなかやるやん」と奴を認め始めた。
騙されては駄目だ。あいつは衆の心をつかむのが上手い。こうなっては早いうちに私の手で関興を始末しなければならない。
行軍の途中、私は背後から奴を狙って暗器の袖箭を放った。
が、関興はたまたま石につまずいたのか派手に転び、袖箭は空を切った。くそっ、失敗か。だが、「痛い、痛い!」と大げさに騒ぐ奴を見て、皆が失笑を漏らしたのは悪くない結果だ。
しばらく様子を見た後、今度は騎乗の奴に向かって秘かに矢を射かけてやった。
よし、命中した!…と思った瞬間、奴の姿が馬上から消えた。まさか、魔法使いか!?と焦ったが、何のことはない、奴は単にぶざまにドタッと落馬しただけであった。
「いやぁ。鐙がないと馬は操縦が難しいですねー」
照れ隠しに見え透いた言い訳をしながら後ろを振り返った奴は、
「あっ、ウサギが倒れてる。さすが鮮卑族、狩りの腕も一流ですね!今宵の飯は久しぶりに肉が食べれそうで楽しみだ」
そう言って、軌道を逸れた矢が刺さったウサギを高く掲げた。
その夜。火を囲んで野営の準備を始めた関興に、「仲直りの乾杯をしよう」と誘い、下剤を入れた罵乳酒(馬乳を発酵させた酒)を手渡した。馬鹿め、皆の目の前でウ〇コを漏らして笑い者になるがいい。
「さあ、一気に飲み干せ!」
「う~ん。でもオレ、お子ちゃまだからなぁ…」
とためらう関興。
「なんだ、きさまは私の酒が飲めんと言うのか?」
と凄むと、端から蛾洵が、
「まあまあお嬢、こんなクソガキと盃を酌み交わすなんぞもったいない。わしが相手になりますけん」
「「あ…」」
関興の手から盃を奪い取り、きゅっと一息に罵乳酒を飲み干した蛾洵は、とたんに便意をもよおし、尻を押さえながら青い顔で草むらに駆け込んだ。すまぬ。
まあ、史実では扶余族を奴隷や娼婦として漢族に売り渡したのは、鮮卑の慕容廆なんですけどね。




