210.鉄槌
「なぜ曹沖殿下を見殺しにした?答えによっては僕は君を許さない。
と言っても、君はきっと沈黙したまま誠実に答えようとしないだろうから、僕が君の考えを代弁する。
――太子に立てられた優秀な曹沖殿下が死ねば、曹公の庶子(連れ子)である君にも跡を継ぐ芽が生まれる。だから君は、司馬懿の謀略を未然に知った上で、見て見ぬフリをした」
「!! そ、そんなわけ…」
「つまり君は、不作為犯=他人による殺人行為を敢えて阻止しないことによって実現される完全犯罪を狙ったというわけだ。確かに刑法上の実行犯は司馬懿であって、関興君はなんら罪に問うことができないだろう。
そう考えると、君が陳倉に追い詰められた曹公をわざわざ救出しに向かった謎も、すんなり解くことができる。
君は再び恩を着せることによって曹公の後継者に指名され、魏公の爵位を合法的に乗っ取るつもりじゃないのか?――まったく恐ろしい知能犯、司馬懿以上の極悪人だ」
「な、何を言ってるんですか?!オレはそんなこと微塵も……」
オレは慌てて否定する。荀彧の後ろに控えていたボディガードが警戒を強めて、腰に差した剣に手を掛ける。
「君が僕の命を救ってくれた時、僕は心から君に感謝した。
でも、それは純粋な善意からではなく、極悪人の君が仕掛けた周到な策略のひとつだったんだね。君は僕を生かして恩を売ることで、曹公に見切りをつけた僕をまんまと味方に付けることに成功。そして将来、庶出にもかかわらず曹魏の太子に立てられるために、僕の知謀と穎川閥に連なる名士の人脈を利用しようと企んだ」
「ち、違……」
「ところが邪魔者が現れた。君と同様、予言書の中身を知る司馬懿だ。奴も秘かに曹魏を乗っ取ろうと企む簒奪者、君とは同じ穴のムジナだ。いや、同志と言った方が適切なのかな。要は、どちらが先に曹魏の乗っ取りを成功させて帝位に登るかの内輪揉めにすぎないんだろ?目標がそれなら、司馬懿も君も曹沖殿下は生かしておけないもの」
「ま、待って下さい!オレは司馬懿とは一面識もないし、志を同じくする一味だなんてあり得ません!オレは曹沖殿下が亡くなるなんて本当に……」
「ここ蒲坂に現れたことだって、司馬懿の謀略が発動して曹沖殿下が本当に死に、君の完全犯罪が成功したことを確認するために来たんだろう?
だが残念だったね。この地で亡くなった者たちの遺体や遺品なら、僕が全員埋葬して墓標を立ててあげたよ。もうここには何も残っていない」
「だから!荀彧様の仮説は途中から全然間違っています!オレが蒲坂に来たのは、さっきも言ったように本当に荀彧様の行方を捜していたのと、戦死した曹沖殿下の遺品を見つけ出して、妃の甄洛様に手渡してやりたいと思ったから。それに、蒲坂の戦いで司馬懿が取った疑わしい行動の証拠を集めたかったからで……」
「言い訳なら聞かないよ。すべての状況証拠と君のはぐらかしが僕の推理の蓋然性を示唆しているんだ。これでも君はシラを切るつもりかい?」
「そう言われても、オレは曹沖殿下の死には本当に無関係だし、魏公の爵位なんてこれっぽっちも興味ないんです。事情をご存じない荀彧様が、妙に整合の取れた推理を組み立てたことには正直恐れ入るけど」
ふうっと大きく溜め息をついた荀彧が、
「残念だ。神仙の術を極めた僕が天に代わって君に鉄槌を下す」
と告げ、オレににじり寄ったその時!
「【ワープ】!関興の所へ!」
と声がすると、宙空に時空の孔が開いていきなり女神孔明が出現した。呆気にとられる荀彧とそのボディガードだったが、女神孔明は、彼らの存在に気づいているのかいないのか全くお構いなしに、
「あっ、関興。聞いて!献帝ったらひどいのよ!私、危うく殺されそうになったんだから!
せっかく大軍師の私が立ててあげた、玄徳様と関羽と馬超が同盟を結んで三方から曹操を攻撃し、許都にいる献帝を救って天下に覇を唱える大計を、あのバカは“夢物語”と蔑んだ挙げ句、司馬懿や曹丕の方が役に立つと言って切り捨てたの」
「あのぅ、女神様。今はそんなことを言ってる場合じゃ…」
「それでね、あのインチキ【風気術】師の呉範に吹き込まれたのか、献帝は漢が自身の世で終焉を迎えることを知っていたわ。漢王朝の権威が衰え、なおかつ軍事力を持たぬ彼が皇帝権力を保持し続けるためにはどうすればよいか?と自問を始めて、
《朕の目の上の瘤となっている一強(つまり曹操)を多弱が連合して叩く、いわゆる出る杭を打つ戦法。一強が没落して多弱の中から新たに増長した強者を、残った多弱が再び連合して叩く。これを繰り返していけば、やがて朕に仇為す軍閥はこの世から消え失せるであろう。朕の権力は安泰だ》
な~んて抜かすのよ!馬っ鹿じゃない?
もう信じられない!そんなことしたら、再び黄巾賊のような大乱が起こったら誰が鎮圧するの?塞外民族の匈奴や鮮卑が攻め込んできたら誰が撃退するの?」
「あ、あの女神様。いったん落ち着いて……」
オレは慌てて話を止めようとするが、女神様はますます息巻いて、
「そうなったら、後漢末の乱世と同じように、あるいは五胡が侵入して司馬氏の建てた晋を滅ぼした永嘉の動乱と同じように、中華の地が賊に蹂躙されて破滅するのは目に見えてるもん。それで私は、
「陛下のお考えは単なる自己保身の極み。決してこの国の為になるとは思えませぬ」
と諫めたんだけど、献帝はどこ吹く風。
《だから何じゃ?漢王朝は朕の物。朕がおらずば漢の朝廷は成り立たぬ。朕が自己保身に走るのは、即ち漢の朝廷を存続させることと同義。
ならば、朕が自ら策謀を廻らせ漢の延命を図って何が悪い?朕だって人の子、我が子に皇帝の座を譲り、永久に漢の世が続いて欲しいと願うて何が悪い?》
とか開き直るのよ!もう、最低っ!そしてあのバカは、
《朕の願いを妨げるそなたは朕の敵。ただちに排除せねばならぬ》
と近衛兵に命じて私を消そうとしたから、急いで逃げて来ちゃった☆
ねぇ関興、可哀想な私をヨシヨシって慰めて♡」
と言って女神様はオレに抱きついた。あっ☆あいかわらず柔らかくていい匂い。
…って、そんな場合じゃねーし!
なんとも言えない不穏な雰囲気にようやく気づいた女神孔明は、後ろを振り返って仙人の婁子伯こと荀彧の姿を認めると、
「あら、荀彧じゃない!あなた、あの時死なずにまだ生きてたの?まぁ史実じゃ、あと一年寿命が残っているから、生きてても不思議じゃないかぁ…」
と能天気につぶやく。
オレは天を仰いだ。
せっかくオレが必死になって黙秘を貫いたのに、女神様は、漢が献帝の代で滅亡するとか、司馬氏が晋を建国するとか、本来の荀彧の没年は翌年だとか、未来を予知できる者しか知り得ない「将来起こる史実」を平気でバラしてしまった。まったくどうしてくれるんだよ!?




