208.核心
「曹操を助けたことに悔いはありません」と告げたオレに、荀彧は柔和な笑みを見せて、
「へぇ、そうなのかい?
君はあんなに曹公のことを嫌っていたのに不思議だね…。あ、君のことを咎めだてする気はないよ。僕だって、曹公のことはもうとっくに見限ったんだし。
ところで、関興君はどうして蒲坂に?」
「目的はいくつかあります。
一つ目は荀彧様の行方を捜していたから。実は、曹操が二月に蒲坂で出会ったと教えてくれたので、何か手掛かりが残っていないか探しに来たのです。幸い、こうして荀彧様と再会できたので、第一の目的は達成しました。
二つ目は、戦死した曹沖殿下の遺品を見つけ出して、妃の甄洛様に手渡してやりたいと思ったから」
「そうか。君は曹沖殿下と仲良しだったもんね。僕もさ、聡明で人格的にも優れた曹沖殿下を、次代の曹魏を担うホープとして期待していたんだよ。
そんな彼を、ここ蒲坂で害した奴は許しがたい。
君も見ただろ?林の奥で草木も生えぬ真っ黒に焼け焦げた跡を。半径100mの範囲だけが燃えているのは不自然だ。あれは何者かが人為的に起こした災厄に違いない」
こ、怖っ!切れ者の荀彧のことだ、女神様の【落雷】コマンド?のことがバレるのは時間の問題だろう。オレはとっくの昔に女神様と縁を切った。うん、オレは関係ない。
「犯人なら、おおよその見当はついている。だが証拠がない。法に照らして裁けないなら、誰かが天に代わって罰を与えなければならないと思わないかい?
幸い、僕には神仙術の才能が恵まれているようでね。遁甲天文の術を駆使して、風を吹かせ嵐を喚び、大雨を降らせて雷を轟かすくらいは朝飯前だ。
もし曹沖殿下の殺害を仕組んだ犯人が目の前に現れたら、僕は召喚獣の龍と鵺を呼び寄せて、奴を生身のまま齧らせ、骨を砕き、腸を貪り尽くして、地獄の苦しみを与えながら死に追いやってやるっ!」
ひぃいいいーっ!ふだん温厚な人ほど、キレるとやばい人格に変わる典型じゃないか!
いくら駄女神とはいえ、女神様はこの世界にオレを転生させてくれた大恩ある御方。キレた荀彧に地獄に落とされてしまっては、どうにも寝覚めが悪い。
あ、そうだ!女神様から目を逸らせるために、ここは司馬懿に人身御供になってもらおう。
「オ、オレがここを訪れた三つ目の目的は、蒲坂の戦いで司馬懿がとった行動に重大な疑惑があるからなんですけど…」
そう告げた時、荀彧の目が妖しくキラリと光ったのをオレは見逃さなかった。
「ふーん。どんな?」
「曹操と馬超が対峙した潼関の戦いの際に、敵将の龐徳が砦に籠る曹沖殿下に向かって、
《司馬懿から送られて来た密書のとおりだな!曹操はここにはおらず、別動隊を率いて黄河を渡り、蒲坂から馮翊へ迂回させ、背後から我が軍を挟撃しようと謀らんでいることくらい、お見通しだ!》
と挑発したとか。この話が事実なら、あの時千里も離れた許都で留守をしていた司馬懿は、曹操と賈詡が立てた計略をあらかじめ知っていたことになる」
荀彧は我が意を得たりとばかりに頷いて、
「やはり君もそう思うかい?僕もね、司馬懿のことを曹魏に巣食う獅子身中の虫だと疑って、いろいろ調べて回ったんだよ。まずは僕の推理を聞いてくれ。
司馬懿はどこで見つけ出したのかは知らないが、古来より伝わる闇の讖緯書を手に入れた。それは一種の預言書のようなもので、今までに起こった中華の歴史、そしてこれから起こる未来の出来事のすべてが網羅されている。
君が華々しいデビューを飾った西平の戦いのことも、曹魏が呉の孫権に大敗したあの赤壁の戦いのことも、そして曹公が馬超と対峙した潼関の戦いと、それに続くぶざまに敗れた蒲坂津のことも」
オレは舌を巻いた。さすが荀彧。細かな点に齟齬はあるが、ほぼ言い当てている。
「司馬懿はその讖緯書に基づいてある計画を立てた。
おそらく、曹公は魏王の位に昇り、漢はあと数年のうちに禅譲を強要されるだろう。四百年続いた伝統ある漢帝国を滅ぼしたという歴史的汚名は曹公に着せつつ、簒奪の手口を知り尽くした司馬懿は、今のうちから魏の実権を奪う布石を秘かに打っておく。トロイの木馬と言ってもいいかもしれない。
それが令外の官・“使持節都督諸軍事”だ。州における一切の軍事指揮権を掌握するとともに、州の内政を司るトップの州刺史すら死刑に処すことができる強力な専断権。
今、奴はすでに司隷の使持節都督諸軍事の座を手にした。そして漢の献帝を操り、許都から司隷の洛陽へ遷都させようと動いておる。かつて、曹公が許都に献帝を呼び寄せて傀儡としたように、玉を自分の手元に置くために」
「………」
「早晩、司馬懿は漢を滅ぼした曹魏を不忠と糾弾して、魏に取って代わろうと謀らんでいるのだろう。
そのためには、曹公の後を継ぐ御輿は軽くてパーな方がよい。傾国の美女・董桃に骨抜きにされた腑抜けの曹丕殿下ならもってこいだろう。対して、皇太子に立てられた曹沖殿下は司馬懿にとって邪魔な存在だ。だから蒲坂津の戦いにかこつけて殺した。自分の手を汚さず、馬超という殺人狂を使って。
――どうだい、関興君。ここまでの僕の推理に間違っている箇所があるかい?」
「いえ、たぶん荀彧様の推理どおりだと思います。
かつて呉の孫権や侍中の伏完に仕え、インチキ予言で世を惑わせた呉範という【風気術】師がおりましたが、覚えておられるでしょうか?オレの調べでは、荀彧様のおっしゃる “古来より伝わる闇の讖緯書” なる予言書は、呉範が所持していた。ところが奴は、収監されていた牢獄の中で謎の死を遂げた。自殺として処理されたようですが、その当時牢番だった人物が司馬懿だったのです」
「ああ、確かに…」
「司馬懿は予言書を手に入れるために呉範を殺した。そう考えると、すべてのつじつまが合う」
正史『三国志』の名称を敢えて伏せたのは、オレが転生者だと知られないようにするためだ。荀彧は腕を組んで考え込み、
「なるほど……だが、司馬懿を糾弾するには証拠がない」
証拠ねぇ。奴の邸宅を家探しでもして、後世陳寿が書いた正史『三国志』を隠し持つことが判明すれば、司馬懿が転生者の呉範を殺害した動かぬ証拠。だが狡賢い奴のことだ、容易に尻尾は見せないだろう。
「あっ、そうだ!ヒロインちゃん…いえ、董桃が何か知っているかもしれません。あいつは呉範と手を組んで、学園内によからぬ噂をバラ撒いていました。おまけに漢献帝の皇女と称していますが、どうにも胡散臭い」
「確かにね。当初は“平民”だった彼女が、特待生として帝立九品中正学園に入学する際に戸籍を調べさせたが、本籍や両親の名・生年月日に至るまですべて抹消済み。よくこんな怪しい経歴で、由緒ある学園に入学を許可したものだと訝しんだ記憶がある。
案の定、曹丕殿下とともに婚約破棄騒動を引き起こした挙げ句、君の活躍で“ざまぁ返し”されて断罪されたんだ。ところが僕が曹公に疎まれて失脚した後、代わって侍中に任命された司馬懿が董桃を牢獄から連れ出し、陛下の皇女だと吹聴し始めた。
なんでも、陛下が寵愛していた董妃に産ませた子だとか。
ああ、董妃は建安四(199)年に「曹公を討て」との密勅を授けられたものの、曹公にバレて先手を打たれ、首を刎ねられた車騎将軍・董承の娘だよ」
「でも、董妃はお腹の子とともに斬られたんじゃなかったっけ?」
「表向きは、ね。さすがに陛下の子を弑すのは忍びないとして、実は董妃が産み落とすまで刑の執行を遅らせたんじゃないのかな。そういう事例は昔からよくあることだし。
そうして生まれた赤ん坊は侍女に下げ渡され、“平民”として市井で育てられた。それが董桃、という触れ込みらしい」
ふ~ん。乙女が夢見るシンデレラ・ストーリーにはありがちなのかもね。鴻杏ちゃんが熱弁する『恋@三』のシナリオを、もっとマジメに聞いておけばよかった。今さらだけど。




