205.米騒動
長安に向かうとは言いながら、長安の本城に用があるわけじゃなくて、オレの本当の目的は長安郊外の終南山で修行をしているという荀彧の行方を捜すためだ。
五月二日。
陳倉から馬を駆けて郿までやって来たところで、旅の商人に襲いかかろうとしている狼の群れを蹴散らしてやったオレは、旅の商人に誘われ、茶屋で甘味をご馳走になっているところである。
「いやぁ、危なかった。兄ちゃん強いねぇ。助かったよ、これはほんのお礼」
「いえ、困っている人を助けるのは当たり前。オレはそんなつもりじゃ…」
「受け取ってくれよ。兄ちゃん、長安に行くんだろ?あとで絶対必要になるから!
西の京と呼ばれる長安は、潼関の戦いで曹魏に勝った涼州軍閥がこの春占領したんだが、その時しっぽを振って馬超将軍に乗り換えた役人どもが、まぁひどいのなんのって。公然と賄賂を要求するわ、気に入った商品は難クセをつけて没収し自分の物にしちまうわ、逆らったら牢屋に入れると脅すわ……そらもう、典型的な商人泣かせですわ。それでも長安は大都会やさかい、商売するんやったら絶対に外せん。
だからな、兄ちゃんが長安で円満に暮らそうと思うのなら悪いことは言わん。腹立たしいのをぐっと堪らえて、最初に窓口の役人に賄賂を渡すんや。この金を使って、な」
と言って、銭が入った袋を無理やり手渡そうとする。
「せっかくだけどオレは将軍の息子で、長安で暮らすつもりは……」
オレの気のない返事に旅人は得心して、
「ああ、なるほど。兄ちゃんは漢の士官クラスに仕官を希望してるのかい!商売人のつまらん愚痴を聞かせて悪かったね。代わりにいいことを教えてやろう。ここだけの話、三日前に馬超将軍が関興とかいう無名の将軍率いる荊州軍と戦って、大敗しちまったらしいんだわ。内緒やで」
「えっ?!そうなんですか?」
そうか、甘寧と鄧艾はみごと新野で馬超を返り討ちにしたわけだな。双子の兄・曹林をオレの影武者に立てる作戦も、うまいこと敵を欺くのに成功したようでなによりだ。
「ふふっ、内緒の話には食いつきがいいねぇ。そう、だから落ち目の馬超将軍に仕官するのはやめといた方がええ。いっそ、荊州軍に鞍替えするのもええんやないか?」
「はぁ……」
オレはすでに荊州軍閥の幹部なんだけどな。
「あのう。つかぬ事をお聞きしますが、長安で商売をしているあなたが、敵の荊州軍を勧めちゃったりしていいんですか?」
オレの質問に、旅の商人はニヤリと笑って事もなげに、
「さっきも言ったろう、馬超将軍は落ち目だって。わしら商売人は儲け仕事にしか興味あらへん。今まで涼州軍閥に付き従っていたのは、馬超将軍に勢いがあって、わしらを儲けさせてくれると思ったからや。決して根っからの馬超将軍の味方なんやない。
これからは荊州軍閥やあらしまへんか?実はわしも、近いうちに荊州へ顔出しに行こうと思っとるで」
うわーさすが商売人、ドライに割り切ってるなぁ。
「すぐには荊州へ向かわないんですか?」
「フフン。長安にはまだ最後の儲け仕事が残っとるゆうのに、それを放って荊州に行くのは阿呆やで」
「何ですか、最後の儲け仕事って?」
旅の商人は腕を組んで「う~ん。どうしようかなぁ」と思案していたが、
「よし。兄ちゃんは恩人やさかい、特別に教えたろ。荊州を領有する気満々で、大量の兵糧を漢中の五斗米道から調達してた馬超将軍は、さっきも言ったとおり、大敗しちまったのさ。今さら兵糧なんか集めたってしゃあないわな。
長安の腐れ役人と五斗米道は、兵糧を買え/買わんで必ずや揉める」
「いやいや。馬超と五斗米道が正式に契約を交わしたのなら、そんな自己都合なんか関係なく、契約を履行しないと駄目でしょう」
オレは呆れて反論したが、旅の商人は人差し指をチッチッチと振って否定し、
「そこが涼州軍閥の性悪なところや。お互い合意して交わしたはずの契約でも、時間が経って気に入らないとなれば、馬超将軍が刀で脅して契約の内容を強引に変更する。まるでヤクザやな。今まで何回泣かされたことか」
「ひどいもんですね。それで?」
「最終的には必ずや五斗米道は追い返される。しかし五斗米道は、あの重い積み荷を押して再び秦嶺を越える気にはなれん。そこで、わしら商売人の出番。積み荷を安く買い叩くんや!」
と胸を張った。
ああ、狡賢い転売ヤーみたいなもんか。長安の腐れ役人と五十歩百歩のような気がせんでもないが。
「ノンノン。わしは良心的やで!米一俵あたり仕入れ値は、わし調べでざっと金五十銭。それを馬超将軍との契約額の金二百銭みたいな高額ではなく、安値でよければ買うてあげましょうと提案してるんやさかい。売る/売らんは五斗米道側の意志に預けてやるし」
「ちなみに、買い取った兵糧を転売する時の値段はいくらですか?」
「そうやなあ。仮に長安の街中で小売するなら、米一俵百五十銭くらいやな」
なるほど。ということは五斗米道の立場から見れば、売値の下限は五十銭、上限は百五十銭か。間をとった半分の百銭から、どれだけ上積みできるかが落としどころだな。
「ま、わしら商売人はそんな生温いことはせんで、中華大陸全体で見てもっと高値で売れる所を探すけどな。おっと。いくら恩人の兄ちゃんと言えども、これ以上は話せん」
と旅の商人は予防線を張った。ここまで教えてくれたら後はだいたい想像がつく。去年、蝗害や洪水で不作だった州の商人に転売して荒稼ぎするつもりなのだろう。ツテのないオレには関係のない話だ。
「さてと。オレはそろそろ出発しますよ。団子、ご馳走様でした」
「なんの。わしの方こそ、命を救ってもらったお礼がたった団子一皿とは申し訳ない気分や。あっ、五斗米道の荷車を見つけたら、すぐにわしに教えてくれへんか?狼煙か何か上げて」
狼煙って。そう簡単に言われても…と言いたいところだが、何を隠そう、我が荊州軍は互いに合図を送るために、馬鈞師匠お手製の発煙筒を持たされているのだ。敵発見は赤、位置確認は白、要救援は緑…というように、金属の炎色反応を利用して煙の色を…とか、何でもありやな。
「分かりました。必ずお知らせします」
と答えて、オレは茶屋を後にした。
よし。荀彧が住まう終南山へ向かう前に、少し寄り道をするか。
ー◇ー
長安の郊外、子午谷への入口には草堂という村がある。五胡十六国時代に西域からやって来た訳経僧・鳩摩羅什が庵を構え、サンスクリット語で書かれた仏典を漢訳した聖地だ。まあ、三世紀の時点ではまだ鳩摩羅什が来訪しているわけないし、ただの草深い田舎の草堂村でオレは兵糧を積んだ荷車の列とすれ違った。これはもしかしたら……。
オレは先頭で指揮を執っている五斗米道の祭酒(信者の長老)に、
「ねぇ。あなた方は長安まで兵糧を運搬してる五斗米道の人たちでしょ?」
と問いかけた。祭酒は迷惑そうに、
「どけっ。邪魔だ、邪魔だ」
と払い除けようとする。オレは構わず、
「このまま長安に向かっても、きっと無駄足を踏むんじゃないかなぁ。性悪の小役人はたぶん兵糧を買い取ってくれないし」
祭酒は足を停め、
「ああ?おい兄ちゃん、あんた何が言いたいんだ?わしらが兵糧を運んでおるのは、同盟を結んでおる我が教祖様と馬超将軍が交わした商取引の契約だ。それに馬超将軍は二万の兵で荊州軍を相手に一戦を交えるつもり。兵糧を買い取らぬわけがない」
「普通は、ね。けど暴君の馬超にして腐れ役人あり。長安に行けば、オレの忠告が正しいことはすぐに分かると思いますよ」
「腐れ役人のことぐらい知っておる。だが、それは旅の商人を相手にする時の話。我ら同盟軍に対して無碍に扱うわけがないだろう?残念だったな。小遣い銭をせびろうたって、そんなチンケな情報で払うわけあるか。ほれ行った行った、シッシッ」
「ああ、違うんですよ。馬超将軍が兵糧を買わない理由。祭酒殿は知りたくありません?」
なんだこのガキ?みたいな顔で祭酒は鞘から剣を抜くと、
「ふん、語るに落ちたな。やはりおまえはタカリ屋か。命が惜しければさっさと失せろ!」
とばかりに剣を突き付けた。オレは慌てて両手を挙げて、
「違いますって。オレはこういう者」
そう弁明すると、懐から一枚の文を取り出して祭酒と信徒一同に見せた。
――信徒諸君に告ぐ。関興殿は吾ら五斗米道の大恩人。彼の言葉は吾が言と思え。 張魯 ㊞
彼らは「こ、これは…?!」と絶句すると皆オレの前にひれ伏し、
「教祖様が大恩人と認める御方に無礼をはたらき、平に、平にご容赦を!」
と謝った。オレは逆に恐縮して、
「やめて下さい!あなた方に悪いようには致しませんので、この件はオレに一任を」
と了解を取り付けた。
関興は何をする気だ?




