204.曹操の奸計
「荀彧なら、わしは会ったぞ」
曹操が発した思いも寄らぬセリフに気負い立ったオレは、
「!! いつ?どこで?」
「さぁて、あれは二月のまだ寒い時期だったかのう。わしは蒲坂で馬超の奇襲に遭って大敗を喫し、黄河を渡り馮翊へ逃がれた。ところが馮翊でも匈奴の鉄騎兵に襲撃され万事休すと思った矢先に、婁子伯と名乗る仙人が現れ、
《急ぎ土壁を作って水を掛けよ。今宵の寒さで凍てついた壁は鉄壁の防御陣となろう》
と知恵を授けてくれたのじゃ。その仙人に身をやつした者こそ、荀彧じゃった」
「そ、それで?」
「婁子伯と名乗った荀彧は、今は長安郊外の終南山に籠もり仙道修行に励んでいるそうじゃ。せっかくわしが再び尚書令に抜擢してやると勧誘したのに断りやがって……。
いや待てよ、蒲坂の戦いでは司馬懿の動向に重大な疑義があるから、それを調べる必要があるとかなんとか申しておったな。馬鹿馬鹿しい、司馬懿は千里も離れた許都で留守を任せておったのじゃ。わしと賈詡の謀ごとが漏れるはずあるまいに」
(司馬懿……荀彧も奴を疑っていたのか。だったら長安そして蒲坂の現場へ行き、なんとしても荀彧を見つけ出して、いろいろ確かめなければ)
オレが思案に耽っていると、曹操は待ってられぬとばかりに口を挟み、
「そんなことより秦朗、これまでの仕打ちを詫びたわしに、荀彧は「過去のことはもう水に流した」と言って許してくれたのじゃ!今さらおまえが荀彧を探さなくとも、わしはもう禊は済ませておるぞ。じゃから秦朗、わしは早うこの陳倉から出立し、反攻に転じたいと思うのじゃが……」
「はぁ?おまえ、さっきまでは「どうやらわしもここまでのようだ」とか言って臥せってる病人だったんじゃないのかよ?急に張り切ってどうした?」
オレが不審をおぼえてそう曹操に訊ねると、
「そ…そうじゃ。ゴホッゴホッ。わしはもう老い先短い身。じ、じゃから一刻でも早く、打てる手は打ちたいと思い、老骨に鞭打って急ぎ出陣せねばと……」
などとわざとらしく咳込みながら弁明する。わけ分からん。
まさか賈詡の言ったとおり、我が子かもしれぬオレの顔を見て元気になったとか……オエッ、自分で言っときながらキモいわ!
「いろいろ腑に落ちんが、まぁいいや。おまえがすぐに死なんのなら、こっちも好都合だし。
オレは今から単独で、荀彧を探しに長安と蒲坂へ行く。おまえ達は先に漢中へ向かえよ。ただ、おまえは病人なんだから秦嶺を越えるのに倍以上の時間が掛かると思うし、オレも探索にしばらく時間を掛けたい。なので一か月後に漢中で落ち合い、船で荊州に下る。こんなスケジュールでどうだ?
あとの仔細は張遼に聞け。じゃあな」
と言うが早いか、オレは急ぎ旅支度を整え、馬を駆けて一路長安へ向かった。
ー◇ー
「ふははははっ!秦朗のヤツ、いくら賢いと言っても、まだまだ甘いお子ちゃまよのう。 “打落水狗”(すでに打ち負かされたがまだ降参していない敗者には、徹底的に追い打ちをかける)のが勝負の鉄則、それなのに秦朗は仮病のわしにまんまと同情しよって、言いたいことの半分も文句を言えんかったじゃろう。お人よしめ!」
髪にまぶした小麦粉を洗い流し、もとの黒髪に戻った曹操は、してやったりと手を打って大笑する。
「曹公、これからどうするおつもりで?」
「決まっておろう。ここを離れてすぐに漢中へ発ち、秦朗が乗って来た軍船を奪い取る。そのまま荊州へ向かい、奴が治める唐県を拠点に反攻を開始するのじゃ。ま、簡単に言えば荊州の乗っ取りじゃの」
とほくそ笑む曹操。
「そう上手く行きますかねぇ?」
と首を傾げる賈詡に、
「なぁに、蒲坂へ調査に行った秦朗が、何も知らずに漢中へ戻るのは一か月後。張遼、秦嶺山脈は八日で越えたのじゃろう?ならば残り二十日、片を付けるには十分な時間だわい」
「ですが、秦朗を置いてけぼりにするわけでしょう?彼がいないまま帰還して、果たして荊州の関羽が納得してくれるかどうか……」
「フン、それも対策を考えておる。林を呼び寄せ、船に同乗させればよい。あいつは秦朗とは双子の兄、見た目はそっくりじゃ。遠目なら誤魔化しが効こう。関羽とはわしが軽く挨拶を交わしてそのまま襄陽を素通りし、唐県を占領できればしめた物。わしの勝ちが見えたわ」
「お待ちを。それではさすがに興に対して申し訳が立ちませぬ!」
と曹操を諫める張遼。曹操は目をそばめて、
「先ほどの秦朗との会話を聞いておったろう?荊州軍だけでは漢の献帝に対抗できないから、敵の敵は味方、今はわしと手を組むべきだ、とな。つまり、わしが荊州を奪い取って、漢の献帝とわしを裏切った忌々しい曹丕を打倒してやれば、秦朗の奴も本望に違いないのじゃ!」
「そんな……」
「心配するな。事が成就すれば、秦朗も関羽も粗末に扱うような真似はせぬ。わしを救出に来たそなたと秦朗には感謝しておるのじゃ、いささか待ちくたびれたがのう。
さ、急ぎ陳倉を出立するぞ!張遼、道案内を頼む」
「……ははっ」
張遼は唇を噛みながらも、己の主君の奸計に従わざるを得なかった。




