192.逗留
船が新野に差しかかった頃、雨がポツポツと落ちて来た。
「長雨になりそうですな。ちょうど菜種梅雨の季節ですから」
「やむを得ん。新野に逗留して、雨がやむまで待つか」
甘寧は待ってましたとばかりに、昔誼みの錦帆賊らと酒盛りを始める。やれやれと肩をすくめる鄧艾。
雨は三日三晩降り続いてようやく晴れた。宛城へ向けて出発しようとしたところで、鄧艾が申し訳なさそうに、
「坊ちゃん、困ったことが起きました。どうしようもない変態ですが腕は確かな甘寧と錦帆賊の者たちが、腹痛で動けぬようです。食中毒でしょうか?あるいは疫病かもしれません。皆ケツが痛いとウンウン呻いております。
しばらく新野に止まり、回復を待ちたいと思います」
と報告する。
「うむ。善きに計らえ」
「甘寧らは薬を飲んでも治らぬようで、江夏から医師の張仲景先生をお呼びしたいと思うのですが……」
「うむ。善きに計らえ」
「江夏から先生が来られるまで一週間ほどかかりそうです。待っている間、せっかくの機会ですので、新野城の改修にあたってもよろしいでしょうか?」
「うむ。善きに計らえ」
鄧艾は唐県から連れて来た李凱・楊賢ら優秀な工兵を連れて下船し、地形の測量を行うとともに、材木やら石材やらセメントやらを用意した。初めから積み荷に載せているとはずいぶん手回しがいいことだ。退屈なのか、残りの兵士たちも材料運搬の手伝いや穴掘りを始めると、夏侯覇が血相を変えて飛び込んで来、
「おい、秦朗!どういうことだ?宛城にはあと十日で着く予定じゃなかったのか?ただでさえ遅れているのに、こんな所で道草を食ってたら、約束の日より大幅に遅刻するではないか!」
と怒鳴り散らす。
「う、うるさい!夏侯覇とやら。新参者のくせに、ボクが決めたことにケチを付ける気か!?」
鄧艾が慌てて止めに入り、
「まあまあ、夏侯覇殿も落ち着いて。不測の事態が生じたのです。放置すれば、赤壁の戦いで猛威を振るったあの恐ろしい傷寒病のように、軍中の兵たちに蔓延するかもしれません。下手をすれば、貴殿も感染し命を奪われるやもしれぬのですぞ!ここは医師の張仲景先生をお招きして、病人を診察し治療に当たってもらうのが一番」
「し、しかし……」
「それとも何ですか、夏侯覇殿には、早く宛城へ到達せねば困る事情でもあるのですか?」
不審がる鄧艾に夏侯覇は慌てて、
「そ、そんなわけないだろう!俺はただ、急ぎ陳倉へ参って父上を救出したい一心で……」
と弁解した。
「なるほど。貴殿の気持ちも顧みず、失礼なことを申しました。なれど、ああ見えても甘寧は我が軍の柱石。奴の健康が回復するまでしばらく新野で逗留することは、我が軍を監督する坊ちゃんが決めたこと。いくら坊ちゃんの親友とはいえ一介の客将にすぎぬ貴殿が、我が軍の方針に口出しすることはお控え下され」
鄧艾が慇懃に申し渡すと、夏侯覇は探りを入れて、
「心得た。ところで、何日くらい新野に止まるのか?」
鄧艾は顎に手をあてて思案しながら、
「さぁて。張仲景先生がお越しになるまで一週間。治療して甘寧が回復するまで早ければ一週間と言ったところでしょうかね」
「そんなに……荊州軍二万の兵糧はふ、不足しないのか?」
「ご心配なく。もともと宛城を攻略するのに一か月以上かかると見積もっておったのです。船にはまだ40日分ほどの兵糧が残っている上、新野には曹仁軍が放置して行った食糧庫もありますからね。ざっと60日分はプラスして調達することも可能ですし……おっと、これは話しちゃマズかったかな」
口を滑らせたことを後悔する鄧艾。
「さ、もう分かったでしょう。我が軍はここからすぐには動けません。貴殿も新野城の改修を手伝っていただけると助かるのですが」
「断る!どうして俺が荊州軍に手を貸してやらねばならん?」
そう悪態をついて夏侯覇は去っていった。
◇◆◇◆◇
その頃。宛城へ集結した漢軍の陣中では。
スパイとして荊州軍に潜り込ませた夏侯覇から送られて来た、最新の情報を聞いた鎮西将軍・馬超が、
「なに!?敵陣に疫病が発生し、新野で二週間逗留を続けるだと?だったら、ここ宛城へ到達するのは早くても一か月後じゃないか!
おい、司馬懿。こんなことなら、あんなに急いで俺たち涼州軍を陳倉から呼び寄せる必要などなかったのではないか?あの時もう一押しすれば陳倉を陥落させて、親の仇である曹操を捕らえ処刑することができたのに……」
と憤る。名指しで批判された司馬懿は憮然として、
「さすがに軍師の私にも、敵軍に疫病が発生するなど予知することは不可能です。こればっかりは時の運というものでしょう。しかし荊州軍が我々の仕掛けた罠(侯音が帰順するというニセの文)にまんまと嵌って、のこのこと宛城へ現れることがこれで確定したのです。我々は一か月間、訓練をしながら気長に待てばよいではありませんか」
「フン。おまえら曹魏の弱兵どもはそんな悠長なことを言っておれるだろうがな。俺は気性の荒い涼州兵を率いているんだ、一か月も戦闘がないまま待機とか生温い時間を過ごすなど考えられん!
しかも漢軍としての規律を保つため、領民から略奪するのは駄目、女を攫って来るのも駄目とか、いちいち注文を付けられてはたまらんぞ。兵の士気を保たせるこっちの身にもなってみろ!」
(これだから、戦闘のことしか頭にない野蛮人は味方にしたくないのです)
司馬懿は蔑んだ目で馬超を睨みつける。
涼州の北半分を韓遂に奪われ(注:蒲坂で曹操軍を大破した後、褒賞の分配をめぐって馬超と韓遂は対立し、怒った韓遂は軍を離脱して涼州に戻り辺境を荒らし回っているらしい。第164話)、単なる雍州牧では物足りず、裕福な荊州を我が物にしてしまおうと露骨に野心を剥き出しにする馬超は、ここぞとばかり、
「おお、そうだ!あっちが攻めて来ぬなら、こっちから仕掛けてやればよい。敵は新野におるのだろう?船なら十日の行程だが、軽装の騎馬なら二日、いや一日で行ってみせる。しかも敵陣には疫病が流行して兵はまともに動けまい。よし、決めた!止めても無駄だ、俺は絶対に行くぞ」
(ふむ、夜襲か……悪くない。仮に失敗したとしても、馬超の軍勢が削がれるだけのこと)
司馬懿は渋々承諾した態を装いながら、
「馬超将軍がそこまで言うなら、好きになさるがよい。ただし、深追いはなりませぬぞ。我らは秦朗めに幾度も痛い目に遭わされておるのですからな」
馬超は自信満々で、
「おまえらと一緒にするな。曹魏が奴に負けたのは、おまえらが弱兵だからではないか!俺たち涼州兵は天下無双。奴らの強力な新型兵器とやらにはスピードで対抗する。準備が整わぬうちに奇襲すれば、奴らはなす術もなく蹂躙されるがまま。
司馬懿、まさか敵軍にまで略奪・強姦禁止などとは言うまいな?」
「ご随意に。馬超将軍のご武運を祈ります」
司馬懿は突き放すようにそう告げた。
>皆ケツが痛い
はは~ん。(察し)
>善きに計らえ
おい、ツッコミが足りぬぞ!




