191.夏侯覇、思い悩む
宛城に放った斥候の報告によると、確かに侯音という義侠のヤクザ者がいることは事実のようだ。だが、宛城太守の東里袞は今のところ民に苛斂誅求を課しておらず、ゆえに侯音が叛逆する理由など存在しないことが分かった。
そもそも建安十六年(211)四月現在、宛城ではまだ反乱の兆しは見えないのである。
「つまり、例の内通の文は、侯音の名を騙った何者かがでっちあげた罠ということになります」
オレは関羽のおっさんにそう告げた。
「ふむ。我が軍を宛城に誘き寄せたい者がいる、ということだな。
唐県の守りが薄くなった隙に、豫州から曹魏軍が攻め込んで先日のリベンジを果たすつもりだろうか?」
「あり得ますね。豫州方面の偵察を強化するように伝えます」
早速オレは斥候の鼠に命じた。
「ところで、おまえの“親友”の夏侯覇の動きはどうなんだ?」
と尋ねる関羽のおっさん。やはり怪しいと疑っていたか。
確かに夏侯覇は史実でも曹魏を裏切って蜀漢に亡命する。だからこのVR世界でも同じように、夏侯覇が国を追われ亡命することもあり得ないわけではない。とはいえ、許都を追放され曹操に対して恨みを抱いているはずのオレを頼って逃げて来るなんて、唐突すぎていかにも怪しいとオレ自身も思ってたんだ。
「実はな、文遠殿(=張遼)へ息子の張虎が相談に来たそうだ。
《僕たちが史渙将軍にかくまってもらう直前、夏侯覇先輩が許都の西門から抜け出そうとして夏侯楙の近衛師団に捕まり、牢に入れられたという噂を聞いた。それで僕たちは南門へ向かうことにしたんだ。なのに、夏侯覇先輩はどうやって牢を脱出し荊州に逃げて来ることができたんだろう?》
と。文遠殿はその噂が持つ重大な意味を察して、誰にも口外しないよう張虎に言い含めておいたらしい」
なるほど、決定的だな。夏侯覇が敵のスパイとして荊州に潜入したのが事実なら、話は早い。赤壁の戦いの前夜、説客として訪れた蒋幹を敵のスパイと見破った周瑜の逸話に倣い、それを逆手に取って奴に偽の情報を流し、敵を撹乱するまでだ。
「しばらく泳がせたままにしておきますよ。父上もお察しのとおり、おそらく我が軍の動きを探る敵のスパイでしょう。宛城には二週間後に到達すると伝えました」
「その頃には敵の罠の全貌が見えて来る、か……しかし興、陸路で三日の行程を二週間以上かけて進軍するとは、ずいぶん悠長なものだな」
うん。宛城の侯音への対処を間違えると、史実のように関羽のおっさんが敗死するフラグとなりかねない。念には念を入れるべきだ。
ただし、敵が我が軍を誘き寄せたがっている宛城へ、バカ正直にわざわざ進軍してやる必要なんかない。宛城へ向かうのは、あくまでも敵の罠に嵌ったフリをするポーズ。甘寧や鄧艾とともに輸送船に乗る二万の兵は、約束の二週間後、宛城よりずっと手前で進軍を停止するよう言い含めてある。
「罠破りの方法が見つからず苦慮していたオレにも、ようやく妙案が浮かびました。奴がスパイとして潜り込んで来たおかげです。本音を言えば、こちらの策が整うまで二週間と言わず、もう少し時間を稼ぎたいところですけどね」
「ほう、そうなのか……だが、曹公の救出はどうなるんだ?宛城を陥とした後に陳倉へ向かうとなれば、さらに一か月いや二か月か。あまり引き延ばすと文遠殿がブチギレるぞ!」
と関羽のおっさんが心配する。
「そちらは鳳雛軍師にお任せしてあります。父上は荊州でゆるりとご覧になっていて下さい。しばらくの間、お別れです」
「頼んだぞ。ゆるりとご覧になっておれ、か……ふむ、せっかく杜妃が俺のもとへ戻って来たんだ。たっぷり可愛がってやるとするか!」
関羽のおっさんはニヤリと笑った。
◇◆◇◆◇
「すまぬ。秦朗……」
宛城へ向かう輸送船の上で、伝書鳩の足に文をくくりつけ虚空に飛ばした夏侯覇は、謝罪の言葉をつぶやいた。
あの日、牢に入れられている夏侯覇のもとへ司馬懿が訪れた。
《君が後先考えず、許都を逃げ出し陳倉へ駆けつけようとするとは嘆かわしい。
そもそも、陳倉に籠ったけれども一万の兵しかいない曹操は、ジリ貧となっていずれ滅ぼされることは明らかだ。その時、逆賊の曹操と行動を共にする夏侯淵殿はどうなるか?奴とともに戦って討死するか、それとも謀叛人として処刑されるか、あるいは私に協力して罪を免れ命を長らえるか……》
《!! 教えてくれっ、親父を助けられるなら何でもする!》
夏侯覇の即答に満足そうに頷いた司馬懿は、
《なぁに、大したことではない。
実はな、漢の朝廷に刃向かう逆賊は曹操だけではない。荊州に巣食う関羽や秦朗の一党が曹操に忠誠を誓うと称して、宛城や長安を攻め奪ろうと戦の準備を始めておるそうだ。もともと曹魏の領土であった荊州を、赤壁後のどさくさに紛れて掠め取ったくせに、それだけでは飽き足らず、さらに侵略を重ねようとは盗人猛々しい!
そこでだ。君は秦朗と仲が良かったそうだな?》
《ええ、まあ……》
《よろしい。ならば君は荊州に潜り込んで、敵の動きを逐一報告してくれればそれでよい》
《お、俺にスパイをしろ、と?》
《簡単に言うと、そういうことになる》
夏侯覇は唇を噛んだ。武人として生まれた誇りを踏みにじるような司馬懿の申し出に怒りを感じるものの、捕らわれの身である今、この機を逃せば牢から出られそうにない。一瞬、己がライバルと認める秦朗の顔がふと脳裏をよぎったが、親父の命には替えられない。
《……分かった。具体的には、何をすればいい?》
《そう言ってくれると思ったぞ。
我らは宛城で奴らを迎え撃つ。そのためには、敵将・兵の数・そして宛城へ到達する日にちが是非とも知りたい。その他、武器の種類や兵糧の量、君が探って得られた情報ならば何でもよいのだ、多ければ多いほどよい。
みごと敵を討ち破った暁には、功一等として君の勲績を讃え、望みの褒美を取らせると陛下の仰せだ。そこで夏侯淵将軍の助命を嘆願するとよい》
夏侯覇は司馬懿の提案に乗ることにし、晴れて牢を出ることができた。その足で荊州へ向かい、秦朗が率いる曹操救援軍に潜り込むことに成功した。
だが、本当にこれで良かったのだろうか?
夏侯覇は思い悩んだ。




