189.侯音、関羽に帰順の文を送る
●建安十六年(211)四月 荊州・唐県 ◇関興
ようやく荊州に戻って来たオレに、帰りを待ちわびていた張遼は、
「遅い!」
と文句を垂れる。
「仕方ないだろ。張虎奪回のほかに、母上や甄妃様、それに亡き曹沖太子の忘れ形見・曹叡様と曹林・曹袞様、そして徐晃将軍の子息の徐蓋君をも救出してたんだ」
「おい、秦朗!なんでボクだけ敬称を付けずに呼び捨てなんだ?」
と癇癪を起こす曹林なんか、この際無視しよう。
「しかし、そのせいで曹操閣下の救出が遅れて、取り返しのつかない事態になってしまったら本末転倒ではないか!?」
まあ、張遼の心配は分からなくもないが。
「安心しろ。曹操が籠る陳倉は、築城の名手・郝昭が築いた堅牢な城だぞ。それに楊阜は馬超に包囲され、八か月にも及ぶ籠城戦でも屈しなかった剛毅な男だ。加えて徐晃や夏侯淵のような勇将が守り、参謀には賈詡も付いている。
騎兵戦は天下無双だが攻城戦は不得手な馬超相手に、曹操がそう簡単にやられるか!」
と力説すると、張遼はニヤニヤ笑って、
「興、おまえ……曹操閣下へのツンデレ愛か?」
「ばっ…そんなわけねぇだろ!」
オレは顔を真っ赤にして否定する。
「それはそうと、なんで遠く離れた陳倉の情勢に詳しいんだ?」
いかん。三国志の名場面の一つ・孔明の第二次北伐における陳倉攻防戦をついカンニングしてしまった。
「ふん。斥候を放って敵の動向を探るのは国防の基本だからな」
自分で言っておきながら苦しい言い訳だな。すると甄洛が助け舟を出してくれて、
「ごめんなさい、張遼将軍。私がお仕事の邪魔をしてしまったようですね。でもあの時は叡の身に危険が迫っていたため、どうしても関興君に助けを求めざるを得なくて……」
としおらしく謝ると、忠義に厚いのか美人に弱いのか、赤面した張遼は恐縮して、
「ややっ。興が甄妃様と曹叡様の役に立ったとあれば重畳。これからもどんどんこき使ってやって下さい!」
とオレの上司でもないくせに勝手なことを抜かしやがる。そんなやりとりを横目で見ながら、関羽のおっさんは苦笑し、
「それで興、曹公を助ける決心はついたのか?」
と訊ねて来た。オレはふうっと溜め息をついて、
「助けたい気持ちはこれっぽっちも湧きませんが、やむを得ませんね。母上の説得や、父親を思う勇敢な徐蓋君の心意気、それに曹麗皇后の頼みとあれば、無碍に断ることはできません」
うむ、と頷いた関羽のおっさんは、
「だが俺たちは危険を冒して曹公の救出を援護するのだ。相応の報酬を貰わねば割に合わぬ。救出に成功した暁には、俺は大将軍、おまえには三公の地位でもねだってみるか、わはは!」
と豪快に笑った。そうしてすぐに真剣な顔に戻ると、
「朗報かどうかは分からぬが、宛城の侯音と申す者から我が軍に帰順したいという内通の文が届いておる。宛城が手に入れば、陳倉へのルートも開けよう。かつて俺が劉和様とともに長安を脱出する際に通った、潼関や武関を避ける抜け道を教えてやってもいいが……」
侯音。
その名を聞いた時、オレの心臓がドクンと脈打った。
魏志武帝紀には、宛城で反乱を起こしたが三か月あまりで鎮圧され殺された首謀者との記載しかないが、オレは関羽敗死のきっかけとなった重要人物だと思っている。
建安二十三年(218)、劉備が漢中をめぐって曹魏の夏侯淵や張郃らと持久戦を展開している隙に、孤軍奮闘荊州を治めていた関羽は、襄陽から漢水を渡って樊城を攻撃し、さらに長駆許都への北伐を敢行せんと計画した。
そんな折、宛城で魏に叛逆した侯音が関羽に帰順する旨を書いた文を送って来たのである。
侯音は、過酷な賦役に苦しむ領民の困窮を見て挙兵した義賊。かつて塩賊だった関羽が掲げる“経世済民”の信念に通じるものがある。関羽は宛城の地の利も十分に心得ていた。宛城を拠点とすれば、許都へ進軍し曹操に囚われの身となっている漢の献帝を救出できるかもしれないのだ。
当然、百戦錬磨の関羽とすれば、侯音の申し出を快諾し、反乱が成功するように後援したいに違いない。事実、同時期に弘農郡陸渾(“じゃない”方の孔明=胡昭が住んでいた所)で挙兵した盗賊の孫狼に対し、関羽は印綬や将軍号を授け、魏の後方攪乱を命じたことが魏志に記されている。
〇
ところが、劉備軍からストップが掛かった。
漢中をめぐって半年以上睨み合いが続く持久戦に、これ以上兵站の補給が耐えきれなくなった劉備は、戦局を打開するきっかけを欲した。参謀の法正は、宛城の侯音を犠牲にする作戦を思いついた。
《宛城は許都に通じる街道の拠点。ここが関羽の支配地に入れば許都が危うい》
そう喧伝すると、事の重大性を理解した曹操は、後詰として長安に駐屯させていた龐徳に兵を割いて、宛城反乱の鎮圧に回さざるを得なかった。
法正の作戦がはまり、敵の守りが手薄になって好機と見た劉備軍は攻勢に出た。夏侯淵を誘き出して陽平関で大破し、漢中の獲得に成功したのだ。
一方、侯音は見殺しにされた。関羽の援軍を期待して三か月間の包囲に耐えたが、味方は到来しなかった。宛城は陥落し、侯音は斬られた。
関羽は臍を噛む思いだったに違いない。
侯音の反乱軍と連携すれば、北から侯音が牽制している間に、関羽は南から樊城の攻撃に専念できる。ところが侯音が全滅したため、関羽は単独での北伐を強いられた。
しかも、夏侯淵が敗死して漢中の城が劉備に奪取された今、曹魏軍の主力は漢中盆地から撤退し、続々と曹仁が守る樊城の救援軍としてやって来た。龐徳も于禁も徐晃も、そして揚州からは張遼も。関羽はひとりで彼ら救援軍とも対峙しなければならなかった。
それでも関羽は強かった。
龐徳を斬り殺し、于禁を捕虜にすることに成功した。だが関羽の北伐はここで力尽きた。徐晃や張遼を相手に奮戦する力はもう残っていなかった。
たまらず関羽は劉備に援軍を要請した。だが益州全土の領有に成功し、得意の絶頂にあった劉備は要請を無視。上庸を守る劉封や孟達にも援軍を拒否された。
こうして関羽は孤立し、呂蒙の調略を受けた麋芳と傅士仁が江陵を孫呉に譲り渡したせいで、曹魏と孫呉の挟撃にあった関羽は徐晃に撃ち破られ、麦城に追い詰められたあげく無念の敗死を遂げるのである。
〇
通説では、関羽の唯我独尊な性格と己が武勇に絶対の自信を持つ高いプライドが邪魔をして、侯音の申し出を拒絶したとされているが、オレは断固としてその見解は誤りだと思う。
何故なら、関羽が侯音を救援しなかったことで、最も得をしたのが漢中占領に成功した劉備であり、最も損をしたのが北伐の絶好の機会をフイにした関羽だからである。最も利益を得た人物を疑え。ミステリーならこれが鉄則だ。
かえすがえすも惜しむらくは、あの時関羽が宛城の侯音と連携していれば、蜀漢軍の中原奪還も可能だったかもしれない……とのIF批評を見るが、それを関羽にさせなかったのが劉備ではないか!
だいたい、劉備が許都で捕らわれの身となっている献帝を本気で救うつもりなら、自らの方が陽動部隊となって、夏侯淵や張郃を漢中の戦線に釘付けにし、側面から関羽の北伐を邪魔されないように協力するはずだし、あるいは益州全土の領有に成功した後に漢中王という茶番な称号を名乗るくらいなら、諸葛亮に益州の統治を任せて関羽と合流し荊州から許都へ進軍すべきであった。
それを一顧だにしなかったということは……劉備には初めから献帝を救う気などなかった(献帝を見捨てて自分が漢の皇帝になりたかった)か、あるいはオレが物語の最初に述べた、
――史実の劉備と関羽は互いに忠誠を誓った義兄弟の関係ではなく、関羽は主家である劉備に従属する(半)独立勢力だった(第3話)
とする説が真実だったのではないか?
オレは、この侯音の反乱見殺し事件をきっかけに、史実の関羽はいよいよ劉備に愛想を尽かし、盟友関係から独立(して第四の勢力に割拠)へと舵を切ったのではないかと疑っている。
が、今はそれを詮索している場合ではない。
史実では、建安二十三年(218)に宛城で反乱した侯音の事件が、なぜ七年も早く建安十六年(211)の時点で起こるのか?
こちらの謎を解く方が重要である。
策謀の主は司馬懿だろう。
やはり、司馬懿は将来起こる史実を知って罠を仕掛けに来ている。呉範の【風気術】は、前世で得た正史『三国志』の知識を駆使して予言と称し、あたかもそれが的中したかのように見せかけていたものだった。証拠はないが、司馬懿がなんらかの形で呉範のチート能力を奪ったと考えるとつじつまが合う。
それを頭の片隅に置いて、作戦を練り直さなければならない。




