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三国志の関興に転生してしまった  作者: タツノスケ
第六部・哀惜師友編
204/271

187.司馬懿、宛城に罠を仕掛ける

その頃、許都では。

城門を警備していた近衛兵が注進して、追放されたはずのオレが再び許都に現れ、師団長の史渙(しかん)にケガを負わせて城外に逃亡したことを告げた。


「うぬ、大胆不敵な!だが、いったい何のために?」


献帝は司馬懿に命じて急ぎ調査させると、曹操の妃の()妃とその子の曹林・曹(こん),曹沖の妃だった(しん)(らく),それに学園生の(こう)(あん)および張虎と徐蓋(じょがい)の姿が見えなくなっていることが分かった。


いくらなんでも秦朗が彼ら全員を(さら)ったわけではなかろうが(←実は全員なんだな・笑)、状況から考えて母親の()妃の拉致に関与していることは明らかだった。


「おのれ!許都の厳重な警備をかい潜り、秦朗はどうやって城門を突破できたのか?!もしや朝廷の内部に手引きする者がいるのではないか?見つけ出して処罰せい!なにより、朕が治める都で騒ぎを起こし、治安を乱す秦朗の罪は許しがたい!」


そう息巻く献帝を横目に、傾国の美女・董桃の【魅了】が解けてもとの冷酷・陰湿な性格が戻りつつある曹丕は鼻で笑った。


(司馬懿も陛下も秦朗に会ったことはないのだろう。あいつはどこにでもいそうな目立たぬモブ顔、ただの行商人に化けて堂々と許都に入城したに違いない。許都城内に居もしない内通者を探すなど時間の無駄だ)


献帝の激高はさらに激しく、


「秦朗とともに姿を消した者どもは朕に叛き、逆賊となった曹操に味方する者ばかりではないか!奴の狙いは明らか、陳倉に籠る曹操を救出するつもりなのだ!」


(馬鹿馬鹿しい。荊州から陳倉まで三千里。いくら秦朗とはいえ、途中には武関や潼関のような天下の険があるというのに、我が軍の鉄壁の防御をどうやって突破できるのか?

そもそもアイツは父上に追放された身なんだぞ!陳倉に籠る父上の救出に手を貸すわけないだろうが!)


曹丕はあり得ないと高をくくる。その意見に司馬懿も賛成だ。強気な言動とは裏腹に、実はビビリの献帝は被害妄想が過ぎて辟易する。が、その献帝に弱みを握られている司馬懿は、本音を口に出すことができずに献帝を(なだ)め、


「恐れながら、陛下はどうなさるおつもりで?」


「決まっておろう、今度こそ秦朗の息の根を止めるのじゃ!」


「ですが先日、我らは荊州に侵攻して、敵の新兵器(霹靂車と連弩)に撃退されたばかり。対策も立てぬままこちらから仕掛けるのは愚策です」


司馬懿の消極的な意見に苛立ちを隠せぬ献帝は、


「では、どうしろと?」


と訊ねた。


(俺は、献帝を利するような戦いに兵は出さんぞ)


と言いたげな曹丕のそぶりを一瞥した司馬懿は、しばし熟考する。


――曹魏の乗っ取りには準備不足だ。それに私が都督を務める司隷の兵力は温存したい。かと言って、先の戦いで敗れた曹丕も兵の供出を渋るだろう。とすれば、雍州の馬超を秦朗との戦いに投入するまで。


最適解は早々に見つかった。


そもそも、ヤツの得意戦法は分かっておる。狡賢い秦朗は、敵軍を敢えて自軍の陣地に誘き寄せ、相手が攻撃して来たところを強力な新兵器(霹靂車と連弩)で迎え撃って戦意を喪失させ、返す刀でカウンターを繰り出すのだ。

いつだって先に手を出したのは相手側で、それを撃退・追撃したらいつの間にか領土が増えちゃった、テヘッ☆と白々しく開き直る卑怯者。秦朗め、盗人たけだけしいわっ!


荀彧は荊州のヤツらを徹底した専守防衛だと評したが、それはとんでもない誤りである。

我が軍の方から敵の罠にみすみす嵌まりに行く必要はない。むしろ、相手の得意技をこちら側から仕掛けて、秦朗の奴にぎゃふんと言わせてやろうではないか!


――問題は、どうやって秦朗を荊州から引きずり出すかだが……。たしか、正史『三国志』にもってこいの戦史が記載されていたような。


記憶を頼りに即興で計略を組み立て、やがて口を開いた司馬懿は、


「ここは兵法に見える“抛磚(ほうせん)引玉”の策を使いましょう」


抛磚(ほうせん)引玉?なんじゃ、それは?」


と献帝が尋ねる。“(れんが)”とは(おとり)、つまり“抛磚(ほうせん)引玉”の策とは、価値の劣る物を(おとり)として、大事な玉を引き寄せる兵法だ。


正元二年(255)、魏の朝政はすでに司馬懿の息子・司馬師に牛耳られており、魏の鎮東将軍・都督揚州諸軍事の毌丘倹は「君側の奸を誅する」と称して、寿春で挙兵した。毌丘倹は揚州刺史の文欽とともに都の洛陽を攻めるべく、五万の兵を率いて西の項城へ進軍した。司馬師は大軍を率いて汝陽で迎え撃った。それとは別に、鎮南将軍の諸葛誕には豫州の軍を率いて西から、征東将軍の胡遵には青・徐州の軍を率いて東から、それぞれ毌丘倹を討伐させた。毌丘倹と文欽は三方から挟撃され、前進して戦うこともできず、ひき退けば追撃されないかと恐れて寿春に帰ることもできず、計画は行き詰まりなす術がなかった。こうして項城の包囲陣が完成した司馬師は、一戦を交えて文欽を討ち破り、毌丘倹は逃亡を図ったが斬られた。


司馬懿は(将来起こるであろう)毌丘倹を破った項城の戦役を念頭に、


「荊州から陳倉へ向かうには、途中で(えん)城を通らなければなりませぬ。

(えん)は古来交通の要衝、東は許都・北は洛陽・西は長安の三都へ向かう街道が交差しています。物産も豊かで市が立ち並び、後漢の盛時は最も人口の多い郡として栄えておりました。反面、四方から攻撃を受けやすいと言えましょう。つまり(えん)城は「攻めるに易く、守るに難し」の土地なのです。

そこで(れんが)(=囮)の出番、我々は敢えて(えん)の地を秦朗にくれてやりましょう!」


「何故だ!?(えん)城が敵の手に渡れば、朕のおる許都も危ういではないか!」


と献帝の顔が引きつる。


「ご心配には及びません。あくまでも、(えん)城は敵を引き付けるための(おとり)、すぐにこちらの手に戻って来ますから。

先の毌丘倹の譬えに当てはめれば、(えん)城はまさに(れんが)となる項城。

まずは、我が軍はわざと秦朗軍に抵抗せず奴の侵攻を許します。いったん秦朗が(えん)を占領すれば、それが反撃の狼煙(のろし)

西は長安から天下無双の馬超の涼州軍が、東は許都から曹丕殿下の曹魏軍が、北は洛陽から私こと司馬懿の司隷軍が一斉に(えん)城を攻めればよいのです。

三方から挟撃すれば、毌丘倹と同じく秦朗は袋の鼠。陳倉まで進むことも荊州まで退くこともできず、(えん)城が奴の墓場となりましょう」


「なるほど、面白い。じゃが、そう簡単に秦朗めを(えん)に誘導できるかのう?」


と献帝は懸念を示す。司馬懿は自ら立てた計略に自信を見せ、


「もちろんその作戦も考えております。

陛下がおっしゃるように、秦朗が本当に曹操の救出を目論んでいるならば、(えん)城から武関を越えればそこは長安、長安から陳倉までは目と鼻の先。秦朗にとっても(えん)の占領は、前線基地を築くために願ったりの土地なのです。

さて、(えん)の太守の東里袞は能吏と評判ですが、毎年行われる計吏報告で良い成績を誇示したいがために、過酷な税と軍務を領民に課しておるようですな。

このままでは近い将来、それが祟って領民に怨まれ一揆を招くことになりましょう。この一揆勢力を率いることになる首謀者は、私の見立てでは侯音(こうおん)と申すヤクザ者。彼を煽動し、関羽に内通させるのです。もし侯音(こうおん)が肯んじなければ、(ふみ)を偽造して関羽に送り届けるだけでよろしい。故事に「隴を得て蜀を望む」と申すではありませんか!」


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