187.司馬懿、宛城に罠を仕掛ける
その頃、許都では。
城門を警備していた近衛兵が注進して、追放されたはずのオレが再び許都に現れ、師団長の史渙にケガを負わせて城外に逃亡したことを告げた。
「うぬ、大胆不敵な!だが、いったい何のために?」
献帝は司馬懿に命じて急ぎ調査させると、曹操の妃の杜妃とその子の曹林・曹袞,曹沖の妃だった甄洛,それに学園生の鴻杏および張虎と徐蓋の姿が見えなくなっていることが分かった。
いくらなんでも秦朗が彼ら全員を攫ったわけではなかろうが(←実は全員なんだな・笑)、状況から考えて母親の杜妃の拉致に関与していることは明らかだった。
「おのれ!許都の厳重な警備をかい潜り、秦朗はどうやって城門を突破できたのか?!もしや朝廷の内部に手引きする者がいるのではないか?見つけ出して処罰せい!なにより、朕が治める都で騒ぎを起こし、治安を乱す秦朗の罪は許しがたい!」
そう息巻く献帝を横目に、傾国の美女・董桃の【魅了】が解けてもとの冷酷・陰湿な性格が戻りつつある曹丕は鼻で笑った。
(司馬懿も陛下も秦朗に会ったことはないのだろう。あいつはどこにでもいそうな目立たぬモブ顔、ただの行商人に化けて堂々と許都に入城したに違いない。許都城内に居もしない内通者を探すなど時間の無駄だ)
献帝の激高はさらに激しく、
「秦朗とともに姿を消した者どもは朕に叛き、逆賊となった曹操に味方する者ばかりではないか!奴の狙いは明らか、陳倉に籠る曹操を救出するつもりなのだ!」
(馬鹿馬鹿しい。荊州から陳倉まで三千里。いくら秦朗とはいえ、途中には武関や潼関のような天下の険があるというのに、我が軍の鉄壁の防御をどうやって突破できるのか?
そもそもアイツは父上に追放された身なんだぞ!陳倉に籠る父上の救出に手を貸すわけないだろうが!)
曹丕はあり得ないと高をくくる。その意見に司馬懿も賛成だ。強気な言動とは裏腹に、実はビビリの献帝は被害妄想が過ぎて辟易する。が、その献帝に弱みを握られている司馬懿は、本音を口に出すことができずに献帝を宥め、
「恐れながら、陛下はどうなさるおつもりで?」
「決まっておろう、今度こそ秦朗の息の根を止めるのじゃ!」
「ですが先日、我らは荊州に侵攻して、敵の新兵器(霹靂車と連弩)に撃退されたばかり。対策も立てぬままこちらから仕掛けるのは愚策です」
司馬懿の消極的な意見に苛立ちを隠せぬ献帝は、
「では、どうしろと?」
と訊ねた。
(俺は、献帝を利するような戦いに兵は出さんぞ)
と言いたげな曹丕のそぶりを一瞥した司馬懿は、しばし熟考する。
――曹魏の乗っ取りには準備不足だ。それに私が都督を務める司隷の兵力は温存したい。かと言って、先の戦いで敗れた曹丕も兵の供出を渋るだろう。とすれば、雍州の馬超を秦朗との戦いに投入するまで。
最適解は早々に見つかった。
そもそも、ヤツの得意戦法は分かっておる。狡賢い秦朗は、敵軍を敢えて自軍の陣地に誘き寄せ、相手が攻撃して来たところを強力な新兵器(霹靂車と連弩)で迎え撃って戦意を喪失させ、返す刀でカウンターを繰り出すのだ。
いつだって先に手を出したのは相手側で、それを撃退・追撃したらいつの間にか領土が増えちゃった、テヘッ☆と白々しく開き直る卑怯者。秦朗め、盗人たけだけしいわっ!
荀彧は荊州のヤツらを徹底した専守防衛だと評したが、それはとんでもない誤りである。
我が軍の方から敵の罠にみすみす嵌まりに行く必要はない。むしろ、相手の得意技をこちら側から仕掛けて、秦朗の奴にぎゃふんと言わせてやろうではないか!
――問題は、どうやって秦朗を荊州から引きずり出すかだが……。たしか、正史『三国志』にもってこいの戦史が記載されていたような。
記憶を頼りに即興で計略を組み立て、やがて口を開いた司馬懿は、
「ここは兵法に見える“抛磚引玉”の策を使いましょう」
「抛磚引玉?なんじゃ、それは?」
と献帝が尋ねる。“磚”とは囮、つまり“抛磚引玉”の策とは、価値の劣る物を囮として、大事な玉を引き寄せる兵法だ。
正元二年(255)、魏の朝政はすでに司馬懿の息子・司馬師に牛耳られており、魏の鎮東将軍・都督揚州諸軍事の毌丘倹は「君側の奸を誅する」と称して、寿春で挙兵した。毌丘倹は揚州刺史の文欽とともに都の洛陽を攻めるべく、五万の兵を率いて西の項城へ進軍した。司馬師は大軍を率いて汝陽で迎え撃った。それとは別に、鎮南将軍の諸葛誕には豫州の軍を率いて西から、征東将軍の胡遵には青・徐州の軍を率いて東から、それぞれ毌丘倹を討伐させた。毌丘倹と文欽は三方から挟撃され、前進して戦うこともできず、ひき退けば追撃されないかと恐れて寿春に帰ることもできず、計画は行き詰まりなす術がなかった。こうして項城の包囲陣が完成した司馬師は、一戦を交えて文欽を討ち破り、毌丘倹は逃亡を図ったが斬られた。
司馬懿は(将来起こるであろう)毌丘倹を破った項城の戦役を念頭に、
「荊州から陳倉へ向かうには、途中で宛城を通らなければなりませぬ。
宛は古来交通の要衝、東は許都・北は洛陽・西は長安の三都へ向かう街道が交差しています。物産も豊かで市が立ち並び、後漢の盛時は最も人口の多い郡として栄えておりました。反面、四方から攻撃を受けやすいと言えましょう。つまり宛城は「攻めるに易く、守るに難し」の土地なのです。
そこで磚(=囮)の出番、我々は敢えて宛の地を秦朗にくれてやりましょう!」
「何故だ!?宛城が敵の手に渡れば、朕のおる許都も危ういではないか!」
と献帝の顔が引きつる。
「ご心配には及びません。あくまでも、宛城は敵を引き付けるための囮、すぐにこちらの手に戻って来ますから。
先の毌丘倹の譬えに当てはめれば、宛城はまさに磚となる項城。
まずは、我が軍はわざと秦朗軍に抵抗せず奴の侵攻を許します。いったん秦朗が宛を占領すれば、それが反撃の狼煙。
西は長安から天下無双の馬超の涼州軍が、東は許都から曹丕殿下の曹魏軍が、北は洛陽から私こと司馬懿の司隷軍が一斉に宛城を攻めればよいのです。
三方から挟撃すれば、毌丘倹と同じく秦朗は袋の鼠。陳倉まで進むことも荊州まで退くこともできず、宛城が奴の墓場となりましょう」
「なるほど、面白い。じゃが、そう簡単に秦朗めを宛に誘導できるかのう?」
と献帝は懸念を示す。司馬懿は自ら立てた計略に自信を見せ、
「もちろんその作戦も考えております。
陛下がおっしゃるように、秦朗が本当に曹操の救出を目論んでいるならば、宛城から武関を越えればそこは長安、長安から陳倉までは目と鼻の先。秦朗にとっても宛の占領は、前線基地を築くために願ったりの土地なのです。
さて、宛の太守の東里袞は能吏と評判ですが、毎年行われる計吏報告で良い成績を誇示したいがために、過酷な税と軍務を領民に課しておるようですな。
このままでは近い将来、それが祟って領民に怨まれ一揆を招くことになりましょう。この一揆勢力を率いることになる首謀者は、私の見立てでは侯音と申すヤクザ者。彼を煽動し、関羽に内通させるのです。もし侯音が肯んじなければ、文を偽造して関羽に送り届けるだけでよろしい。故事に「隴を得て蜀を望む」と申すではありませんか!」




