176.関興、苦境に陥る
「簡単に言うけどさ、甄洛副会長は女性だし、亡き曹沖殿下の妃、高貴な御方だぞ。きっと忘れ形見の赤ん坊(=曹叡)も連れているはずだ。
学園に押し入り、力ずくで攫おうと計画している張虎の場合とはわけが違う」
「そうね。たとえお金が掛かっても、危険がないように救出して差し上げないと」
「ああ、母上に言われずともそのつもりだ。
一番スマートなのは、霊帝の陵墓造営の冥加金として荊州に割り当てられた百万銭を持参し、献帝に拝謁する裏で秘かに甄妃を連れ出す作戦。
オレ的には献帝に屈服した感じがして非常に不愉快だが、この際やむを得まい――と割り切りつつも、しかし困ったことに、オレの手元には先日宋県の地主から貰った金十万銭しかない。
金十万銭と言えばオレにとってはものすごい大金だが、百万銭を要求している相手に十分の一の十万銭ぽっちを差し出しても、感謝するどころかケンカを売ってるようにしか見られまい」
と正直に今の苦境を吐露した。
「……分かったわ。私も協力してあげる」
杜妃は、身に着けていた簪と指輪をはずしてオレに手渡した。
「どちらも曹操閣下からいただいた、珊瑚樹と宝石を散りばめた逸品よ。両方合わせれば百万銭は下らないと思うわ。これをあなたの作戦の足しにしなさい」
「でも……」
「心配しないで。「その代わり、曹操閣下を救出しなさい!」なんて秦朗の意に沿わない要求とかしないから。私も母親だもの、あなたの気持ちを尊重するわ。
だけど、これまで曹操閣下が積み上げて来た功績は忘れないで。閣下がいたからこそ、天下大乱に陥った中華の地はようやく安定を見た。それを再び覆そうと謀む不遜な輩に、このまま好き勝手荒らされるのは許せないと思わない?」
「……」
「秦朗、あなたが曹操閣下や荀彧殿に認められる文武に秀でた凄い子だってことは知ってるわ。だけど、あなた一人の力で、今の漢に巣食う不遜な輩の暴挙を止めることができる?力を結集しなければ敵を倒せないのなら、敵の敵は味方、今は許せない気持ちに蓋をして、曹操閣下に協力してあげることはできないかしら?」
「……考えとくよ。母上、ご協力ありがとうございます」
オレは素直に杜妃に礼を述べた。
-◇-
しかし、ここ潁陰の商人は強欲だった。杜妃自慢の珊瑚樹と宝石を散りばめた簪と指輪に、たった金二十万銭の値しかつけようとしないのだ。
「変ねぇ。私、曹操閣下に騙されたのかしら?」
杜妃は首を傾げる。
「違げぇよ!ここの吝嗇な商人に足元を見られてるんだ。《今すぐ金が欲しいんだろ?だったらこの金額で手を打てよ》って」
「ひっどぉーい!ねえ、もう少しなんとかならないの?」
と食い下がる杜妃。商人は冷ややかな笑みを浮かべて、
「そう申されましても、こちらも商売。某のような田舎のしがない商人には百万銭なんて、とてもとても…。ご不満でしたら、許都で換金なさればよろしいのでは?もしも杜妃様が許都にお戻りできる身ならば」
「ぐぬぬ……」
「それに某もけっこう危ない橋を渡ってるんですよ。なにせ、豫州は曹丕殿下の治める地域。許都から逃げて来られた杜妃様に金を融通したと知られれば、殿下にどのようなお咎めを受けるか……」
ケッ、しらじらしい。
だが杜妃はネチネチ繰り返される商人の言い訳に根負けして、
「もう分かったわよ!二十万銭でいいからさっさとお金を頂戴!」
「まいどありー」
ヒッヒッヒと卑しい笑みを浮かべ、金二十万銭を渡す商人。杜妃はひったくるように受け取り、
「あぁもう、悔しいっ!」
と地団駄を踏む。
「ごめんね、秦朗。百万銭用意できるって豪語したのに、二十万銭しか手に入らなかった」
「いや、母上がオレのためにいろいろ動いてくれただけで十分。感謝の気持ちでいっぱいだ」
とはいえ、オレの手持ちの十万銭と合わせても三十万銭。荊州に割り当てられた冥加金の百万銭にはほど遠い。これでいったい何ができるってんだ?
妙案も出ぬまま、時間だけが無為に過ぎて行く。
その時、一隻の軍船が波を切り潁水を遡上しながらやって来る。船首に龍を装飾している軍船といえば、孫呉の船だけど。許都を攻撃するつもりか、たった一隻で?
「停まれ!」
甲板の上で指揮を執る若い男が命令を下す。そして停止した軍船の上から手を振り、
「おーい、関興君じゃないか!」
とオレに声を掛ける。目を細め見やると、
「……孫紹君、か?」
「そうだよ!久しぶりだね。何してるの、こんな所で?」
「それはこっちのセリフだ!軍船で許都に向かうつもりか、何考えてるんだよ?たった一隻で許都を攻撃するなんて無謀だぞ!」
孫紹はキョトンとした顔で、
「何言ってるのさ、朝廷の許可はちゃんと貰ってるに決まってるだろ。
僕は十五歳になったから、将来の嫁さん探しを兼ねて、この四月から許都の帝立九品中正学園に入学するんだ。荷物の搬入とか、前もって準備が必要だしね」
「けど、少し大げさすぎないか?今は曹魏に面従腹背する時期、事を荒立てるのはまずいって周瑜提督にも伝えていたはずだが」
オレが懸念を伝えると、孫紹は胸を張って、
「フフン。その周瑜提督の勧めで軍船に乗ってやって来たのさ♪何事も最初が肝心、許都に住まう学園生たちの度肝を抜かしてやれって」
ふ~ん、オレとは意見が違うなぁ。しかしこの場合は好都合、かも。
「厳密に言えば、城壁外の外港にこの船を停泊し、そこから歩いて許都に入城することになるんだけどね。それで、関興君はここで何をしてるんだい?」
「許都に入城できなくて困ってるんだ」
情けない顔でオレは答える。
「孫紹君には残念なお知らせかもしれないけど、いま許都の帝立九品中正学園は大変なことになっているんだよ。
ほら、曹丕殿下と曹操元丞相が真っ二つに割れて争っているのは知ってるだろ?そのあおりを受けて、曹丕殿下が学園に通う生徒を人質にして「可愛い息子や娘を叛逆罪で殺されたくなければ、曹操派から寝返って俺に従え!」と臣下の者たちに脅しを掛けているらしい。学園生は許都の城外に出ることを禁じられてるそうなんだ。
オレは学園に通うガールフレンドの鴻杏ちゃんの無事を確かめたい。あわよくば鴻杏ちゃんを助け出して、父君のいる広陵郡に連れて帰ってやりたいんだ!
なぁ孫紹君。お願いだから、オレに手を貸してくれないか?」
うーんと唸った孫紹は、
「ちょっと待ってて。中で話し合ってみる」
と言い残し、いったん奥に引っ込んだ。
(おい、チビちゃん。同盟を結んでる孫紹を騙すような真似して大丈夫かよ?!)
と甘寧が心配そうに耳打ちする。オレは動じず、
(大丈夫。オレは肝心な目的を告げていないだけで、嘘は一切言ってないだろ!)
しばらくして再び甲板に現れた孫紹は、
「とりあえず、人を遣って関興君の話が事実かどうか確認してみるよ。君に手を貸すかどうか判断するのは、それからでもいいかい?」
「ああ、もちろんだ」
なるほど。孫紹は知恵の回るブレーンを裏に同行させているのか。誰だろう、沈友かな?でもそれならオレや甘寧は顔見知りだし(というか命の恩人だな)、姿を隠す必要はないと思うけど。
-◇-
翌日。
津で待つオレたちのもとに下船した孫紹は、少し顔を引きつらせ、上目遣いでオレを見ながら、
「関興君の言ったとおり、曹丕殿下が学園生を人質にして自分に味方させようとしている話は本当のようだね。こんな状況で学園に入学するのは、しばらく延期した方がよさそうだ。僕は今から船で建業に引き揚げることにするよ」
「待ってくれ!オレには孫紹君だけが頼りなのに……」
「そうは言っても、僕にはもう許都に入城する意味がなくなったんだ。お役に立てなくてごめんね」
と申し訳なさそうにオレに詫びる。




