172.曹麗、献帝に啖呵を切る
●建安十六年(211)三月 許都・大極殿 ◇曹麗
献帝の皇后となった曹麗は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の皇帝を除かなければならぬと決意した。曹麗には政治が分からぬ――わけではない。むしろ関興は、彼女の聡明さに舌を巻いたぐらいの政治通である。
「おやおや。いつも後宮の一室に籠って顔も見せぬ皇后が、わざわざ大極殿にお出ましとは珍しい。いったいどういう風の吹き回しじゃ?」
と揶揄する献帝に向かって曹麗は問い質す。
「聞けば陛下は、妾が父・曹操を朝敵と認定し、逆賊討伐の詔をお出しになったとか。真でございますか?」
「真じゃ。実の父が朝敵とされた皇后には気の毒だと思うがのう。
誠に遺憾ながら、馬超と曹公は仇敵、両雄並び立たずの間柄。涙を呑んでどちらかを切らねばならぬ。曹公の跡を継いだ曹丕に確認したところ、それならば、我々は“漢”の錦の御旗を掲げることを明確に宣言するためにも、曹公を切り捨てましょうということに相成った」
「!! 兄上が?!何故?」
「それは朕に聞かれても知らぬ。曹丕には曹丕なりの深い考えがあるのだろう」
勺を頬に当て、感慨深げにうんうんと頷きながら答える献帝。その仕草が曹麗には殊のほか癪に障る。
「しかし、このままでは曹魏は曹操派と曹丕派に分かれ、せっかく安定を見た中原が再び戦火に焼かれる事態に陥るかもしれません。陛下には、いま一度の再考を願います」
「心配いらぬ。曹操に授けられた魏公の爵位はすでに朕に奉還され、「曹魏」の概念は消滅した。これからは“漢”VS“逆賊の曹操”の戦いが始まるのじゃ。“漢”の武を支えるのは、雍・涼州を束ねる馬超をはじめ、冀・兗・青・豫の四州を領有する曹丕、それに司隷・荊州を督する司馬懿が含まれる。
一方の曹公は今、馬超に追い詰められ西のかた陳倉に籠城し、兵は一万に満たぬとか。
朕が“漢”の戦力で“逆賊の曹操”を圧倒すれば、東方で勝敗のゆくえを傍観しておる曹彰・曹植らも、いずれ朕になびくであろう。皇后が危惧する“中原が再び戦火に焼かれる”事態なぞ起こるべくもない」
とにべもなく曹麗の頼みを却下する。曹麗はなおも食い下がり、
「なれど、父と子を戦わせ、あげく子に父を殺させる行為が孝と言えましょうや?儒教の建て前では、陛下は天命を受けて天下を治ろしめす仁徳ある皇帝なのです。そのような人倫にもとる行為を助長して良いはずがありませぬ!」
献帝はジロリと睥睨して、
「それは違うぞ。
曹公は朕を敬わず、いずれ漢を滅ぼし新たな王朝を興そうと野望を抱いていたことは誰もが知る所。
また、曹公は己への謀叛を企んだかどで、今を遡る十二年前には董貴妃とお腹の子を惨殺し、昨年には伏后と朕の二人の息子を弑しておる。
果たしてこれらの行為は忠と言えるだろうか?
忠でなかった者を朕が成敗して何が悪い?自業自得とはこの事であろう」
「……」
「なれど安心せい。朕はそなたの父とは違う。
たとえ曹操が逆賊として討伐されたとしても、そなたを連座で巻き込み誅殺しようなど微塵も考えておらぬ。朕の優しさに感涙するがよい」
献帝はニヤニヤと蔑んだ笑みを浮かべる。曹麗は腹立ちを抑え、
「優しさ?果たしてそうでしょうか?
どうせ陛下が命令を下さずとも、陛下の意向を忖度した佞臣どもが妾を殺す手筈は整えておるのでしょう?陛下は単に矢面に立ちたくないだけの臆病者ではありませぬか!
それに、先ほどから陛下は父が討たれる前提で話を進めておりますが、妾が父・曹操は幾度も死地をかい潜って来た真の英雄。そう易々と討伐できるはずはございますまい」
と批判した。献帝は苛立って、
「フン。少し憐れみを掛けてやればつけ上がりおって!よくも朕を臆病者と罵ってくれたな!そなたの勇ましいセリフがいつまで続くか、曹公の首が都に届けられる日が待ち遠しい限りじゃ。
興が冷めた。そなたの顔などもう見とうない、朕は下がるぞ」
と言い捨て、奥に消えた。
-◇-
かつて父・曹操に殺された妃と子供の無念を晴らすため、陛下はいずれ私を同じ目に遭わせるつもりだろう。
邪智暴虐の献帝と組んだ、陰険な丕兄さまと冷酷な司馬懿が次に考えるのは、必ずや曹操由縁の者たちを排除することに違いない。
――そう考えた皇后の曹麗は、曹操の妃やその子たち(つまり曹麗の兄弟姉妹)に早急に許都から逃亡するよう伝令を飛ばした。
秦朗(=関興)の生みの母で曹操の寵姫だった杜妃は、曹林と次男の曹袞を連れて慌てて逃げ出す。行先はもちろん関羽のいる荊州。運良く途中で秦朗たちと合流でき、保護されたらしい。
他の曹操の妃とその子たちからも、史渙将軍のおかげで許都の城門を難なく通過でき、実父の領地に戻ることができたと無事の知らせが次々と届く。
「良かった!」
曹麗は安堵する。だが曹麗は、肝心の女性のことを忘れていた。
曹丕のかつての許嫁、彼に婚約破棄され今は亡き太子・曹沖に嫁いだ甄洛のことである。
献帝の娘で傾国の美女と称される董桃が、
「あたしに“ざまぁ返し”して、自分だけ幸せを掴んだ悪役令嬢の甄洛なんて、絶対許さない!」
と叫び、曹丕をけしかけて執拗に甄洛の逮捕・拘禁を命じたのである。
太子宮に夏侯楙率いる近衛兵が突入した。だが、いくら探しても甄洛と乳飲み子の叡は見つからない。それもそのはず、侍女たちが必死で二人を隠し通し、秘密の抜け道から逃がしていたのだ。
さて、許都の旧市街の路地に出たものの、甄洛は途方に暮れた。甄逸将軍は并州の雁門関を出て、匈奴の討伐に向かっている。乳飲み子を抱え、我が身に危険が迫っている今、頼みの綱の父親を頼ることができないのだ。
そんな時。
「あら?甄洛副会長じゃないですか?」
と声を掛けられる。ふり返ると、帝立九品中正学園の制服を着た、かつて学園で何度か目にしたことのある女生徒だった。
「えっと……たしか興ちゃんのお友達の鴻杏さん。だっけ?」
(ただのお友達じゃなくて、私は秦朗君のガールフレンドなんですけどねっ!)
甄洛に悪気がないことは分かっている。けど、それだけに余計タチが悪い。鴻杏にはよそよそしくフルネームで話すのに、秦朗に対しては親しげに興ちゃんとあだ名で呼ぶことも、何か引っかかる。
が、鴻杏は気を取り直して、
「どうしたんですか、こんな所で?」
「近衛兵が太子宮に押し入ったの。たぶんどこぞのアホ殿下が私のことが邪魔になって、捕らえようとしたみたい。なんとか外に逃げ出したものの、お父様も頼れないし、この子を抱えてどうしようかと……」
赤ん坊の曹叡は、危機迫る中で健気にも甄洛の腕の中ですやすやと眠っている。
事情を察した鴻杏は、
「分かりました。とりあえず私が、現時点で最も安全な場所にお連れします」
「でも、鴻杏さんの手を煩わせるのは申し訳ないわ。ほら、私たちは学年も違うし、親しくお話ししたこともなかったような……」
と遠慮する甄洛。
「いいんです!きっと私のボーイフレンドの秦朗く…興ちゃんなら、絶対に副会長を助けようとするはずですから!」
(うっわ。秦朗君のことを初めて興ちゃんって呼んじゃった☆)
と鴻杏は顔を赤らめる。これって、甄洛副会長にヤキモチ焼いて、マウント取ろうとしてるんだ……。
「ありがとう。鴻杏さん、よろしくお願いします。でも現時点で最も安全な所って、いったいどこへ?」
「えへへ。私の親友の曹麗様の所です!」
「ええーっ!漢の大極殿の後宮じゃない?一般人がいきなり参内して大丈夫なの?」
と甄洛は心配する。
「任せなさ~い☆そこは親・友・特・権。私、皇后の曹麗様の相談相手として、宮門の通行パスをいただいてるんです!その代わり、甄妃様は私の侍女の役になって下さいねッ!」
(これくらいの意地悪は許されるわよね?)
ペロッと舌を出す鴻杏。
「は、はい、お嬢様。こんな感じで良いのかしら?」
「上出来です。じゃあ、行きましょう!」
二人は周りを警戒しながら、急いで大極殿の後宮に向かった。




