170.曹操、血を吐いて昏倒する
●建安十六年(211)三月 馮翊
自分が生きていると知れば、当然のごとく皆喜んで救援に駆けつけてくれると思っていた曹操は、息子や臣下たちにあっさりと黙殺されて愕然とした。
「これでは趙の武霊王と同じ運命ではないか!」
武霊王。
戦国時代、西方の秦に対抗するために胡服騎射を採用して、趙を中原最強の国家に押し上げた英主。
それまでの中国の伝統的な戦術である戦車戦――三人の戦士が戦車に乗って御者・弓射・戈を役割分担する白兵戦――から、兵士一人が一頭の馬に乗ることでその機動力を生かし、軽騎兵が攻撃と退却を繰り返して敵を翻弄(いわゆるパルティアン・ショット)しながら、敵の陣形が乱れたと見るや反転し、一気に突撃して大破する戦法を編み出して、領土を飛躍的に広げたのである。
武霊王は、この戦法を野蛮で卑怯と蔑んで胡服騎射に従おうとしなかった公子章を廃嫡し、公子何を太子に立てた。
後に武霊王は公子章に再起のチャンスを与えた。公子何に王位を譲る(恵文王)けれども、公子章には新たに獲得した代の地の君主を命じたのである。その上で武霊王は「主父」と号し、恵文王の治める趙本国と公子章の治める代国を束ねる王として“院政”を敷き、二人の子の成長を見守る――というプランを思い描いていた。
ところが、親の心子知らず、公子章は恵文王に対して王座奪回の反乱を起こす。反乱は失敗し、公子章は主父が治める沙丘城へ逃げ込んだ。恵文王配下の将軍の李兌と公子成は、主父の城を大軍で包囲したため、敗北を覚った公子章は自殺した。
これで反乱は終息したはずなのだが、主父に対して兵を向けた格好となった李兌と公子成は、主父に不敬の罪をなじられ誅殺されることを恐れ、それなら逆に主父が死ねばよいとばかりに沙丘城の包囲を続ける。
その裏には、せっかく王に即位したのに主父に握られたままの権力を奪い取りたいと謀む、恵文王の了解があったことは言うまでもない。だから恵文王は、李兌と公子成に「包囲を解け」とも、主父に兵糧を送り届けて籠城を後押ししようともせず、事態を平然と黙殺した。
恵文王の悪しき魂胆を知った沙丘城内では、主父に従う将兵は離れ、食糧も尽き、三か月の包囲の末に主父は飢えに苦しんだまま憤死する。一代の英主の哀れな末路であった。
「くっ、荀彧の諫めどおりだったか……」
傀儡と思っていた献帝からは朝敵と認定され、息子の曹丕からは「老いぼれはとっとと去れ!」とばかりに引退勧告を受ける。
「うぬぬっ……」
と呻いた曹操は、屈辱のあまり血を一斗ばかり吐き出し昏倒した。
「殿!お気を確かに!」
徐晃と夏侯淵は驚いて曹操を抱え上げ、寝室へ運び込む。賈詡に気つけ薬を飲まされ、目を覚ました曹操は、
「このままでは終われぬ!わしを裏切った奴らに目にもの見せてくれようぞ!」
と己を叱咤する。それならと三輔地方の地理に詳しい衛覬は、
「馮翊は馬超や匈奴に近く、いつまでもこの地に留まるのは不利。
ここから三百里ほど西にある陳倉は要害の地であり、城の守りは堅く、忠誠心の厚い韋康が城主を務め、配下の楊阜や郝昭も良将です。こちらに転進することをお勧めします」
と進言した。
「転進か……物は言いようだな」
と朱霊が自嘲のつぶやきを漏らす。だが他の妙案も出ないまま、曹操とその一行は陳倉へと向かった。
◇◆◇◆◇
その頃。
揚州都督の曹熊(曹操の息子。曹丕の同母弟)は、司馬懿の甘言や傾国の美女・董桃に誑かされた曹丕を痛烈に批判し、
「丕兄は、父上を見殺しにするつもりか!
忠臣の荀攸らの諫言に耳を塞ぎ、父上が旗揚げ以来、曹魏のために尽くしてきた者をことごとく退けた。一方、丕兄の寵臣・司馬懿は漢帝に媚び諂い、曹魏を蔑ろにする心を隠しておることは、天下の者はみな知るところ。要職には自分の息のかかった者を就け、その専横ぶりは日増しに看過ごしがたいものとなっておる。
俺は君側の奸・司馬懿を排除すべく揚州の兵を率いて許都に上洛し、丕兄の目を覚ましてやる!
父上に忠誠を誓う天下の有志たちよ、俺とともに立ち上がれ!」
と宣言し、揚州の都督府・寿春で決起した。
名指しで批判された曹丕は激怒し、曹熊の“反乱”を鎮圧するために正規軍十万を遣わした。率いる大将は曹仁、副将には張郃、そして司馬懿が軍師として同行した。
許都から寿春までは通常の行軍で一か月はかかる道程であり、曹熊はその間に正規軍を迎え撃つ準備を整えれば、十分対抗できると考えていた。
ところが司馬懿は、臨機に応じた柔軟な作戦を立案できる優秀な軍師だった。そのうえ【風気術】師の呉範から正史『三国志』奪っており、そこに記述されるさまざまな戦略と戦術を研究していた。
(ふむ。これは太和二年に叛逆した孟達を、未来の私自身が討伐した時に用いる作戦で鎮圧するのがベストだな)
史実によれば、太和二年(228)、孟達が蜀漢の諸葛亮と内応して魏に叛いた。諸葛亮は孟達に司馬懿を警戒するよう伝えていたが、司馬懿の駐屯する宛城から孟達の任地である上庸までは、通常の行軍で一か月かかる道程であり、孟達は高をくくっていた。司馬懿は丁寧な書簡を送って孟達を迷わせた上で、昼夜兼行の進軍を強行し、わずか八日で上庸までたどり着いた。城を包囲された孟達は、同僚や部下に次々と離反された。司馬懿は十六日間の攻城で上庸を陥落させ、孟達を斬首したという。
さて、軍を率いる曹仁は司馬懿の献策に従い、
「曹熊よ、君の忠誠心は叔父である私もよく分かっておる。今ならまだ間に合う、挙兵は考え直さないか」
と書簡を送り、曹熊の翻意を促し油断を誘いつつ、昼夜兼行の進軍を強行し、わずか八日で寿春までたどり着いた。予想外の速さで寿春城を包囲された曹熊は驚き慌てた。今さらながら、陳蘭・梅成の討伐に向かっていた安東将軍の張遼を呼び戻したが、もう遅い。
城内では、揚州刺史の温恢や部下の陳矯・徐宣らが離反し、秘かに内応する旨を記した文を曹仁へ送った。約束どおり陳矯・徐宣が夜半に城門を開いて軍勢を引き入れたため、曹仁は攻城戦わずか三日で寿春を陥落させ、曹熊を捕らえた。
曹熊に従った将校や兵士らは斬首の上、その亡骸を積み上げて京観が作られた。曹操派の刺史・太守や将軍を威圧する目的で行われた残虐な行為に、眉を顰める者も多かった。
曹丕は、実の弟ながら自分に刃向かった曹熊を許さず、鴆毒を飲ませて自殺させた。忠孝の公子・曹熊を襲った悲劇に、官民そろって涙した。
荊州との国境に近い潜山にたて籠る賊の陳蘭・梅成の討伐に向かっていた張遼は、都督の曹熊が自分の留守中に早まった行動を起こさぬよう近侍の者に固く戒めたが、勇み足で起こした反乱が失敗に終わると曹熊の無念を思い号泣した。曹操に忠誠を誓う張遼は、悲壮感に満ちた声で兵に告げた。
「俺は曹操閣下に御恩を受けた曹魏の将軍だ。今さら寿春に戻り、漢帝の犬と成り下がった曹丕殿下に仕えたいとは思わない。この場で遠征軍を解散する。
曹丕殿下を慕う者、家族を寿春に残して来た者は、俺に構わず寿春に還るがよい」
「将軍はどうなさるおつもりですか?」
「ここ潜山から西に向かえば、荊州の江夏郡に出る。俺は曹操閣下を救出するため、荊州刺史の関羽に援軍を要請する。きっと受け容れてくれるだろう」
と答えた。張遼の男気に惚れた兵二千が行動を共にすると誓った。
関羽のおっさんは張遼を喜んで迎え入れた。




