164.献帝、ロクでもない親政を始める
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●建安十六年(211)二月 許都の宮殿
曹操という巨人の枷から解放された献帝が真っ先に行ったことは、洛陽への遷都だった。
董卓によって皇帝に擁立されるとすぐに長安へ拉致され、奴が死んでようやく戻れると思ったら、董卓が存命中に起こした放火・略奪のせいで洛陽は廃墟と化しており、献帝は曹操の誘いに応じて許都へ移らざるを得なかった。
許都での暮らしは息が詰まりそうだった。実力者となった曹操の顔色を窺う毎日。我慢ならず、何度も「曹操を討て」と密勅を出したが、そのたびにすべて潰された。
曹操が死んでそのくびきから解放された今、長年の願いであった洛陽への帰還が叶う。
十五年の間に洛陽の城じたいは修復が終わり、司隷校尉の治所としてすでに政治的に機能している。しかし一国の都となると、皇帝が坐すにふさわしい宮殿を建設しなければならない。完成までに四,五年は要するだろう。
献帝は多額の税金をつぎ込んで建設工事を始めたが、それだけでは到底足りず、諸侯に冥加金の供出を命じた。我が荊州には五百万銭(=五十億円)。ちなみに曹魏は一億銭だったらしい。
くそっ、交易で得た年間利益が全部パーじゃないか!!オレは渋々五百万銭を用立てた。
味をしめた献帝が次に思いついたのは、亡き父・霊帝の諡号を変えることだった。
『逸周書』諡法解によると、“霊”の諡号は、危うく国を亡ぼすところだった無道の君主に贈られるものとされる。献帝は、自分の父親が悪しざまに評価されたことに我慢ならない。
「朕の亡き父帝は、たしかに儒者には評判の悪い「売官」・「売爵」という政策を提言したが、それは私的遊楽のための蓄財ではない。
実は父帝は、皇帝直属の常備軍を創設しようと構想を練っていたのである。そのため西園八校尉を置いたが、反乱続きで国家財政が逼迫するなか、この近衛軍の編成には莫大な経費がかかるであろう。「売官」政策は、常備軍構想の財源獲得や光武帝時代の栄光と皇帝権威を復活するために、やむを得ず実行したにすぎないのだ。
すなわち、父帝は暗愚な皇帝どころか、先見の明ある偉大な皇帝と言えるだろう!とすれば“霊”の諡号はふさわしくあるまい」
果たして献帝の言い分は正しいだろうか?
二世紀中ごろから続く天候不順は、作物の凶作と物価の上昇をまねいた。食糧を求めて羌や鮮卑らの異民族が侵攻して来ると、その鎮圧のために重税が課され、物価の上昇と相まって庶民の暮らしを直撃したため、地方で反乱が頻発する。
今でこそ、天候不順に端を発する失政のすべてを為政者のせいにするのはいかがなものかと冷静に判断できるが、後漢の時代には董仲舒の唱えた、天は不徳の為政者の世には災異を起こして為政者を譴責する「天人相関説」の考え方が主流だったのである。
霊帝が、桓帝と並び後漢の失政を代表する悪帝と評されるのは自然の成り行きだった。
実際、作物の凶作時には倉を解放して貧しい庶民に穀物を配給する福祉政策や、市場に大量に放出して物価の抑制を図る等の経済対策が必要な時に、霊帝本人は宮殿内で商人のまねをし、大尉や中郎将といった官職や関内侯といった官爵を一億銭で「売官」・「売爵」するなど遊興にふけり、酒と女に溺れて政治に一切関心を示そうとはしなかったのである。
国のトップである皇帝の無気力・無関心のせいで、政治の実権はやがて「濁流」と呼ばれる張譲や趙忠ら宦官に専断され、「売官」により官職を得た悪徳政治家による苛斂誅求や、賄賂がまかり通る政治が当たり前のように横行するようになった。
悪政は庶民の生活を疲弊させ、治安の悪化は社会不安を増大させる。その結果、後漢の国勢はますます衰退していくという悪循環を引き起こし、ついに黄巾の乱の勃発となって破綻に至ったのが霊帝の御世であった。
後漢の正規軍では黄巾の乱を鎮圧できず、政治力の欠如と軍事力の低下が露呈したことにようやく気づいた霊帝は、慌てて西園八校尉を置いて軍隊の再編に取り組む。が、時すでに遅し、乱の最中に割拠した群雄が乱立したまま、翌年霊帝は病没してしまう。
以上の史実を時系列に並べると、霊帝の行なった悪評高い「売官」政策と常備軍創設の構想は、献帝が弁明するようにはリンクしない。両者を無理やり結びつけようとする献帝の見解はどう見たって誤り、美化のし過ぎである。
オレは、後漢を亡ぼす引き金を引いた無道の君主・霊帝には、やはり“霊”の諡号がふさわしいと思う。
まあ、自分の父親が後世悪く言われるのは我慢ならないという献帝の気持ちは、分からないでもない。しかし、せっかく曹魏から権力を奪い返したのに、そんなくだらないことを優先させるのか?という疑問は当然生じるよなぁ。
さて、話をもとに戻す。
献帝の意向を忖度して、侍中の黄奎が媚び諂い、
「あまねく徳を敷き義を第一に考えるという意味を持つ“穆”はいかがでしょうか?」
と進言すると、献帝は大いに喜び、
「これ以後、父帝の諡号は穆帝と称することにする」
と即決した。
そして、黄巾の乱と董卓の暴虐で財政難に陥ったため貧相な墓にすぎなかった穆帝陵を大々的に改築すると布告した。諸侯には陵墓造営のための冥加金(というか、もはやタカリだな・怒)が再び割り当てられたのだが、我が荊州には百万銭(高すぎるだろっ!)の寄付を言って来た。
ま た か よ !
百歩譲って、洛陽への遷都は劉氏の中興を大々的に喧伝するために必要な政治的演出というのは分かる。だが霊帝の陵墓造営なんて、完全に献帝のエゴだろ?
納得できないオレは、陵墓の冥加金の供出を鄭重にお断りした。
ま、これが後々やっかいな問題になるのだが、それはさておき、侍中の楊彪が、
「陛下の亡き父帝についてはそれでよろしいかと思いますが、董卓に殺された亡き兄君にあらせられる弁皇子はどう致しましょうか?」
と尋ねたところ、献帝はとたんに不機嫌になった。
「楊彪よ、あれは無能で惰弱であった。あれの世が続いておれば朕の即位はあり得なかったというのに、わざわざあれを尊ぶ必要があろうか?」
「陛下、そうではありませぬ。即位後まもなく董卓に弑殺され無念の思いを抱いたまま亡くなった兄・弁皇子の鎮魂は行なうべきです。若くして亡くなった弁皇子には後嗣がおりませんから、今さら陛下践祚の正統性を損ねる恐れはありませぬ。すなわち、弁皇子に良き諡号を追贈することは、なんらリスクを生じさせることなく陛下の徳の高さを示すことに繋がります」
楊彪の説明を聞いた献帝は喜び、
「なるほどのう。さすが賢者と名高い楊彪、優れた献策じゃ!」
そうして弁皇子(いわゆる少帝)には懐帝の諡号が新たに贈られた。腐れ儒者の評判は上々だったが、庶民の反応は「はぁ?」であった。
そりゃそうだよな。そんなくだらないことを議論するヒマと金があるなら、もう少し賦役をゆるめてくれよというのが彼らの望みなのだから。
◇◆◇◆◇
それが終わると、献帝はいよいよ州刺史の認定に首を突っ込んだ。
とは言っても、女神孔明と交わした益州刺史を劉璋から奪い改めて劉備に授ける、との口約束を履行しようとしたのではない。
献帝の狙いは、活躍めざましい馬超の勢力伸長を抑えるためであった。
憎き曹操を殺してくれた馬超にはある意味感謝したものの、皇帝を頂点とした中央集権制を理想の統治体系と思い描く献帝としては、このまま馬超が暴れまわり、東進して許都や洛陽に攻め込んで来て、再び奴の傀儡にされてしまう悪夢は避けたい。
そこで涼州軍の内部分裂を誘うために、現・涼州刺史の馬超を排し、改めてライバルの韓遂を涼州刺史にしてやると持ち掛けた。韓遂は喜んで献帝に寝返ると、潼関・蒲坂の戦場から撤退し、配下の兵を連れて涼州に帰って行った。
反対に収まらないのが馬超である。本物かどうかは不明にしろ、かつて伏完から届けられた「逆賊・曹操を討て」との密勅に応じて挙兵したのに、いざ曹操を倒したら、褒美どころか涼州刺史を解任されてしまったのだ。
韓遂が離脱したせいで、当初十万と号していた兵力は実数三万に減ったとはいえ、天下無双の騎兵はいまも健在である。馬超は曹操の残党を掃蕩するでもなく、また新たに涼州刺史となった韓遂を攻めて力ずくで刺史の座を奪い返すでもなく、献帝に怒りをぶつけるべく東進を開始し、函谷関に迫った。
驚いた献帝は慌てて先の勅命を撤回し、事態を取り繕う。
「待て待て。そなたには鎮西将軍を授け、鎮西府を開き、涼州の他に雍州(長安を中心とする三輔地方)を統轄する権限を持たせる。馬超よ、これで許してくれまいか?」
馬超はようやく矛を収め、再び潼関に戻った。
この仕打ちに、涼州に戻っていた韓遂は当然のごとく腹を立て、後漢朝廷と鎮西府に対して反旗を翻し、辺境を荒らし回っているらしい。
……まあ、なんと言おうか、鎌倉幕府崩壊後の建武の新政で後醍醐天皇が行なった、取巻き優遇・出る杭を打つ・場当たり的なロクでもない政治が体現しようとは!
ただ、韓遂はどうせ史実に倣い、部下の麹演や閻行に裏切られて首を獲られるんだ。この先オレと絡むことはないだろうし、放っておいて問題あるまい。
ところで、雍州の地はもともと司隷の管轄であって曹魏の縄張りである。それを献帝が勝手に割いて新たに雍州を馬超に割譲したものだから、(自薦ながら)司隷の都督を拝命した司馬懿は面白くない。
翌日、朝廷に参内した司馬懿は厳重に抗議する。
「恐れながら陛下。形式的に曹魏は漢の臣下にあたり、主君の皇帝陛下に従っている立場とはいえ、許可なく曹魏の領地を割いて他人に与えるのは、越権行為にあたりますぞ」
煌びやかにしつらえた玉座に腰かけた献帝は、たじろぐでもなく、
「司馬懿よ。言いたいことはそれだけか?」
「は?」
「そなたは朕に対して居丈高に物を申せる立場かと尋ねておる」
「どういう意味でしょうか?」
「過日、そなたが連れて来た董桃と話す機会があってだな……」




