156.曹沖、曹操の身代わりを買って出る
かつて張繍に襲われた曹操を救うため淯水で死んだ、曹昂と典韋のエピソードの再来でしょうか?
●建安十六年(211)一月 蒲坂
計略が漏れたとも知らず、翌日の日の出とともに曹操は兵五万を分けると、まず一手を筏に乗せて蒲坂の津から渡河させた。その成功を見届けた曹操は、黄河の岸辺に床几を据え、刻々と報らせ来たる戦況に耳を傾ける。
「対岸の上陸に成功した第一陣の徐晃将軍らは、すでに馮翊へと進み、陣の構築に取りかかっています」
「うむ。その調子で続けろ」
一方、馬超軍二万は数百里の距離をものともせず、一晩のうちに蒲坂の渡し場を望む九峰山麓の高台に到達し、眼下にある曹魏の屯営を望んだ。曹魏の一兵卒が山肌にはためく赤い軍旗の存在に気づき、
「あっ、あれは……」
「ば、馬超軍の旗だっ!」
まさか現れるとは思いも寄らぬ敵が、魔法のようにすぐ間近に出現したのだ。これを見て曹魏軍の士卒は驚愕し混乱した。
「ぬかるな、諸将。いざ、突撃!」
馬超の号令のもと、涼州軍の騎兵・長槍兵は鬨の声を上げて坂を駆け下り、馬煙を上げて曹魏軍の屯営に怒涛の勢いで迫る。曹魏軍の士卒は潰走し、我れ先にと黄河の流れへ逃れようとするが、人馬が次々と走って後に続き、押しつぶされて溺死した者は数知れず。
馬超と馬岱は、
「父の仇たる曹操の首を見ぬうちは、決して退かじ!」
と乱軍をくぐり、敵の中軍へ割りこみ、血眼になってその姿を探し求めた。
その時、涼州兵が口々に、
「紫の戦袍を着ている奴が、敵の大将曹操だぞ!」
と呼ばわり合っているのを聞いて、当の曹操は逃げ走りながら「これは目印になる」と慌てて戦袍を脱ぎ捨てた。すると、なお執拗に追いかけて来る涼州兵が、
「黄金の鎧兜を纏っている奴が、敵の大将曹操だ!」
と叫ぶ。曹操は自慢の鎧兜をかなぐり捨て、遮二無二馬に鞭をあてて林間へ駈けこんだ。
林の中は樹木が障害となって馬の機動力が生かせぬ上に、横への展開ができず、むしろ騎兵にとっては不利な地形となる。曹操のとっさの好判断に「チッ!」と舌打ちした馬超は、自軍を二つに分けると、長槍兵を指揮する馬岱に曹操の追撃を任せ、自身は騎兵を率いて残敵の掃討に向かった。
ここまで曹操に付き従って来た護衛の許褚は、
「俺がここで敵を食い止め時間をかせぎます。その間に、殿は遠くまでお逃げあそばすように」
と述べて、曹操に己の鎧兜を渡した。
「うむ。武運を祈る」
曹操がただの一騎で林の奥へ逃げて行ったのを確認した許褚は、林の入口に仁王立ちになって、追って来た涼州兵の前に立ち塞がる。
「ここから先は一歩も通さぬ。雑魚の小兵ども、一騎当千と名を知られたこの許褚が相手してやる。命を惜しまぬ者は前に出ろ!」
と吠えた。
許褚は八十斤の戟を振り回し、迫り来る涼州兵を右に左に撃ちすえ、片っ端から斬り刻んでいく。血と脂に塗れて戟が使い物にならなくなると、敵から奪った長槍で突きまくり、槍が折れると別の槍で立ち向かった。許褚は数十箇所の傷を受けながらも、百を超える敵兵を倒した。接近戦では敵わぬと見た馬岱は、
「弓兵はおらぬのか?弓を使って奴を仕留めよ!」
鎧を曹操に渡し生身となった許褚の身体に、容赦なく矢が刺さってゆく。許褚は微動だにせず仁王立ちのまま恐るべき両眼で涼州軍を睨みつける。敵兵は思いきって進み出られないまま無為に時が過ぎる。
将軍の馬岱が許褚の生死を確認するために恐る恐る近寄ると、許褚は「ぐおおーっ!」と咆哮し、最後の力を振り絞るかのように再び長槍を振り回す。馬岱はその一撃を弾き飛ばすと、返す刀で許褚の腹へ突き刺した。血を噴き出しながら崩れ落ちる許褚。
「敵将・許褚を討ち取ったり!」
馬岱は高らかに戦果を掲げると、逃げた曹操の跡を追って林の中へ駆け入った。
-◇-
やっとの思いで林を抜け出た曹操は、再び黄河の河畔に出る。もしや馮翊へ向かった第一陣の徐晃らが、我が軍の危機を聞きつけて援軍を差し向けてくれてはいないかと期待をしたが、無駄に終わったようだ。
「くそっ!こんな所で終わってたまるか!」
曹操は黄河の流れに背を向けると、弘農を目指して単騎、東へと落ち延びる。そこへ運悪く、前方から李の旗をなびかせた敵の一団が現れた。
「ぬっ。いかん!」
慌てて踵を返したが、一本の矢が曹操の乗る馬に命中して、バランスを崩した馬からどうっと曹操は放り出される。それが狙っておった曹操だと気づいた涼州軍の李堪は、
「お命頂戴!」
と叫び、倒れ臥して動かぬ曹操に駆け寄り剣を振り下ろした。
カキィイーン。
しかし李堪の剣は曹操の身体を貫く前に、どこからともなく現れた若武者の戟に阻まれた。
「誰だ?邪魔をするな!」
李堪は若武者と一騎討ちを試みるも、三合を斬り結ぶ間もなく首を刎ねられた。さてこの若武者の正体はいかに?!
「父上!父上!」
若武者は、馬から放り出された衝撃で脳震とうを起こしたのか、意識の戻らぬ曹操の頬をペチペチと叩いてむりやりに起こす。
「おぅ…おまえは曹沖か。何故おまえがここに?」
潼関に対峙する砦の守備を任せたはずの曹沖が、遠く離れた戦場に姿を現したのだ。曹操が不思議に思って聞き返すのも仕方あるまい。
というのも、曹沖は胸騒ぎがしていた。
前日、夏侯淵は「明朝いざ尋常に勝負」と返事を寄せたにもかかわらず、翌日の朝になっても馬超軍は一向に潼関から出陣しようとしないのだ。
そんな時に、傷を負った兵卒が早馬で砦に重大な報せをもたらした。
《も、申し上げます!蒲坂の渡し場に敵将・馬超が率いる二万の騎兵が襲撃。大将の曹公をはじめ、お味方は潰乱しております!》
《!!》
ここで非情な賈詡なら、二万の騎兵を別動隊に差し向けたせいで守りが手薄となっている潼関に、迷わず全軍出撃して関を陥とす道を選ぶだろう。
だが曹沖は、父の曹操を救える可能性が残っている以上、蒲坂に援軍を出すべきだと考えた。
曹沖は決死隊五百人を募ると、後事を夏侯淵に託し、馬を駆けて蒲坂の戦場へと向かった。そして黄河の河畔で、李堪に襲われる寸前の曹操に出会ったのだった。
「すまぬ。馬超めにしてやられたわ。わしの運命もここまでかのう」
「これしきの敗北で何を弱気なことをおっしゃいますか、父上!蒲坂の北五里の地点に、お味方が筏を用意しているとか。急ぎ参られませ」
と言って、曹沖は自身の馬を父の曹操に差し出した。
「馬鹿者!おまえがわしを助けに来てくれたことはかたじけなく思う。だがわしの傷は重く、今日ここが死ぬ場所だ。沖、わしに構わず自分が逃れることを考えよ」
曹沖は笑顔を見せて、
「父上は漢帝国の丞相として、国家の柱石、乱れた中州を纏め上げるため、天下に一日たりともなくてはならぬ存在。それに引き換え僕は単なる跡継ぎ、代わりはいくらでも居ります。生かすべき者は父上なのか僕なのか、誰でも容易に分かりましょう。
さあ、父上!この馬に乗ってお味方が筏を用意している場所へ向かいませ!」
「すまぬ、沖!武運を祈る」
曹操を安全な場所へ逃がす時間をかせぐため、曹沖は得意の弓を用意し戟を手にして、追撃して来る敵の来襲を待ち構える。
「来た」
林を抜け出た涼州兵が猛然、百歩の距離まで迫る。曹沖は弓を弾き絞り、狙いを定めて矢が尽きるまで射続ける。十二、三人と倒れる敵兵。彼らを踏みつけながら前進して来たる群れ。十重二十重に囲まれた曹沖は、最早これまでと戟を構える。馬岱が、
「若武者よ、名のある将軍と見受ける。名を名乗られよ」
「……漢帝国の丞相にして魏公にあらせられる曹操が太子・曹沖」
おおっ、と敵兵がどよめいた。
「吾が首を馬超に持たば、百金あるいは将校の地位くらいは与えられよう。富貴を望む猛者あれば、吾と勝負せよ」
「おのれ、小癪なっ!」
と叫んだ涼州兵が、曹沖に向かって長槍を突き出す。曹沖はさっと躱すと、襲い来る敵兵の首筋に瞬間的に戟を薙ぎ払う。鎧ごと斬られた兵士は、呆気に取られたまま自分が死んだことが信じられないとばかりに目を剥いたままドサリと倒れた。
続けざまに戟を振るう。七人、八人を倒したところで反撃にあい、深傷を負わされ血が噴き出る。痛みを堪らえるが、失血の多さに意識が朦朧となる。立っているのがやっとだ。
ついに曹沖を囲んだ敵兵が長槍を構える。追い詰められた曹沖は、
「ごめん、洛さん。僕はここまでだ。叡を頼むよ。秦朗、僕の代わりに二人を見守……」
「殺れっ!」
馬岱の命令に応じて、涼州兵の長槍が曹沖をめがけて突き出された。
曹沖は叢の上に斃れ臥した。
曹沖、無念の戦死。曹操の運命やいかに?!
ちなみに叡とは曹叡(のちの明帝)、この世界では曹沖と甄洛との間にできた子のことです。
明日は、保留にしていた150話を投稿します。ご了承ください。




