139.天命
●建安十五年(210)三月 許都・荀彧の屋敷 ◇荀彧
一方、曹公は曹公で、世間に名を知られた清流派の儒家の一族で、漢の朝廷とも繋がりを持つ僕を大いに利用した。袁紹と比べて劣位にあった曹公が、天下の三分の二を有する勢力にまで成長したのは正直、僕の貢献も大きかったと自負している。
何のことはない、仁徳を重んじ漢王朝の復興を企む僕と、武功によって皇位簒奪の野望を抱く曹丞相は同床異夢。相手を自分の理想に引き寄せようと、互いに力比べをしていたにすぎない。その力比べに最終的に僕は負けた。事もあろうに邪道の儒教を利用されて。
建安十四年(209)七月、腐れ儒者の董昭は「天命思想」を持ち出して、「天命は劉氏から曹公に遷った。まずは曹公を魏公に昇進させるべきだ」と言い出した。
天命とは何か?
漢の朝廷に仕える廷臣どもが権力者の意を汲んで「国家はこうあるべき」と唱えて発生した、人為的に作り出された多数派の輿論。それが天命の正体だ。
漢の天子様の権威が衰え曹公の権力が強大化すると、漢の朝廷に仕えるはずの廷臣は曹公に媚び諂い、「天下は曹公に帰すべきだ」という輿論をあっという間に形成した。漢の天子様への忠誠心よりも、権力者におもねり勝ち馬に乗る道を選ぶ者の多いこと。呆れることにね。
そこには君主に対する忠も、社稷を守ろうとする義もない。情けないことに、僕は曹公をはじめ廷臣の教化に失敗し、彼らとの権力闘争に負けたんだ。
僕は予言する。
もはや仁義の道は衰え、彼らの望みどおり天下は曹公に帰すだろう。
だが、曹公の子孫はおそらく曹公が作った前例を踏襲される形で帝位を奪われ、曹公が新たに興した王朝は半世紀と保たず滅びることになるだろう。
この予言が曹公を怒らせた。しかし荀子の子孫である僕は、伍子胥のように最後まで主君である曹公の非を諫めざるを得なかった。
正道に従って主君に従わず、信念に基づいて主君の非を諌めるのが、君子の踏むべき宿命だ。自らの志を曲げ、言葉を諂うならば、儒者の道は尽きてしまう。
だけど僕はおまえたちに、父のように失敗の轍を踏んでも漢の天子様に忠義を尽くせと言うつもりはない。多数派の勝ち馬に乗るもよし、曹植君のように士大夫の身分にこだわらず詩歌の道を歩むもよし、時の権力とは一線を画し学問の道を究めるもよし、己が望む道を歩めばよい。
それが父である僕の最後の願いだ。
-◇-
声を押し殺して涙を流す子供たち。僕の想いは通じた…かな。
「父上は荀子の教えに忠実に従って主君の非を諫言しただけなのに、こんなの理不尽です!」
憤慨する長男の惲をなだめるように、
「言い忘れてた。曹公を恨んではいけないよ。僕が曹公の立場だったら、間違いなく僕も同じように振る舞うと思うから」
「父上はどうされるおつもりですか?」
「僕は従容と曹公の沙汰を待つだけさ。おまえたちにまで累は及ばないよ」
「討っては出ないのですか?」
「……僕は謀叛を起こす気は毛頭ないからね。おまえたちを連座に巻き込むつもりもないし」
「父上亡き後、私たちは誰を頼ればいいのでしょう?」
「こらっ!最初から他人にすがる生き方をするな!おまえたちはもう元服した大人なんだ。己が望む道を歩めばよいと僕は言っただろう。自分の意志をしっかりと持て」
「では、もしも私が父上の遺志を継ぎたいと言えば、父上は許しますか?」
「遺志を継ぐ、か……」
-◇-
そう。僕は曹公との勝負に負けたんだ。負けたからには引き際が大事だと分かっていたんだけどね。
僕は夢を託したいと思う一人の少年に出会ってしまった。
乱世を終わらせない限り、民の苦しみは永遠に続く。乱世を終わらせるためには、戦いに勝ち残って天下を統一することが必要だ。だとすれば、天下は漢の天子様のもとに一統されなければならぬ。曹公を利用して漢王朝の権威を立て直すことが、再び天下泰平の世へ向かう唯一の道だと僕は信じていた。
だけどその少年――関興君は、僕のそんな悲壮な考えを軽々と越えてしまった。
彼は天子様お一人の力でもはや天下を治めることは不可能だ、と実に不忠極まりない言葉を平気で抜かしやがるけど、董昭ら腐れ儒者どものように「だから曹公に天下を譲るべきだ」とは考えなかった。
彼の眼は、漢の天子様への忠・不忠なんかとは別の次元を見ていた。創生期の儒家が抱いていた理念、すなわち民の平和と安寧な暮らしの実現こそが正道だと。僕が漢王朝の復興にかまけて見失っていた基本理念を、関興君はずっと忘れずに追っていた。
天下は統一されなくとも民の平和と安寧な暮らしは実現可能だ、と彼は言う。彼の師の諸葛孔明が語った「天下三分の計」の変形版なのだろうか、八州を治める曹公と荊・揚・涼・益を治める諸侯が緩い連合を構築すれば成立する。幕末の坂本龍馬や小松帯刀が唱えた大政奉還論とかなんとか、訳の分からぬことを言っていたな。
なにを机上の空論(=儒家の理想論)を、との批判が出そうだが、実際彼が言うとおり、曹魏と関羽が治める荊州とは奇妙な均衡が成り立っている。
最初は単なる荊州の唐県というたった一県を治めるだけだった。脅威ではない、ただのザコだ。いつでも滅ぼすことができる、ただちに武力で征圧する必要はないと考えた。
次に彼と朗陵の田豫が密約を結び、唐県を通じて荊州の兵糧を横流ししてもらえば安く手に入れることができるようになった。生かしておいた方が役に立つ、だから敢えて武力で征圧する必要はないと考えた。
兵糧の密売で稼いだ潤沢な資金のおかげで急速に軍備を整えた関羽は、荊州内でめきめきと頭角を現し、いつの間にか侮れない勢力となっていた。博望坡の戦いでは荊州に攻め込んだ曹魏は撤退を余儀なくされ、荊州討伐戦でも曹丕が返り討ちに遭って関興君の虜にされた。彼らの実力を認め、できれば彼らとは戦いたくないと考えを改めざるを得なかった。
だからと言って、彼が曹魏と敵対していたわけではない。寿春に攻め込んで来た孫呉を撃退するために、関興君は率先して曹魏に荷担し策を講じてくれた。赤壁の戦いで敗れた曹魏の仇を討つべく、牛渚の戦いで周瑜の無敵艦隊を壊滅させた。余勢を駆って揚州三郡を手に入れた曹魏は、天下統一に大きく前進した。その意味で関興君は曹魏の大恩人でもある。
が、100%善意の恩人というわけでもない。
一緒にBチームを組んだ僕は、彼の壮大な計略を間近で見て舌を巻いた。傷寒病に倒れた曹公を助ける代わりに、荊州は切取り次第というお墨付きを得た関羽は、関興君が勝利した牛渚の戦いの裏で孫呉から江陵をも奪回し、江夏・襄陽・唐県にまたがる一州にわたって飛躍的に領土を広げた。曹魏にすれば、せっかく劉琮の治める荊州を無傷で手に入れたのに、それを丸ごと関羽に奪われた形だ。
要は、彼の行動原理がよく分からない。味方となれば頼もしく、敵対すればこの上なく恐ろしい相手。劉馥の戒めどおり、彼らが驕慢にならなければこのまま曹魏の下で飼い馴らすべきで、曹魏の方から決して敵対関係に追いやってはならないのだ。
荊州の民は、善政を敷く彼らの統治に大喜びだ。劉表に始まる二十年の平和。いまだに彼らの兵から戦死者は出ていないという。戦乱の世にあって奇跡的なことだ。平和ボケと罵られようが、民にとっては平和と安寧な暮らしが一番である。戦乱に追われた各地から避難民が評判の荊州に流れ込み、いまや人口二百万を超える一大勢力となった。
関羽や甘寧といった一騎当千の名将がいるだけでなく、龐統・魯粛という謀臣の知恵により、揚州の孫紹や荊南に残る劉備配下の趙雲と恩徳・交易・友情で結ばれた堅固な同盟関係を築いた。もはや容易には手が出せない、先に手を出せば確実に負ける強敵。
だが不思議なことに、彼らはこれ以上の領土拡張は望まず現状維持で満足しており、彼らの方から曹魏に対して戦争を起こす可能性は限りなく低い。徹底した専守防衛だ。
であれば、天下は統一されなくとも民の平和と安寧な暮らしは実現できる、と言い切る関興君の自信はもっともなのだ。
さすれば、天下は何故統一されなければならないのか?
帝位を簒奪するための方便として、敵を殲滅し天下を統一することが必要なだけではないのか?そんな物、ただの英雄のエゴだ。そこに民を思いやる気持ちなど一片もない。
“御用学者”の董昭が考え出した、公→王→皇帝に昇るという危険極まりない思想に踊らされ、帝位簒奪の野心に執り憑かれた曹公に、僕はもはやついて行く気にはなれない。
天下泰平をもたらせば、民は勝手にその者を天子に祭り上げる。それが正道、儒家の目指すべき堯・舜の統治なのではないか?
そう。これこそ僕が追い求めた究極の理想なのだろう。
そのことに気づかせてくれた関興君、君の将来をずっと見守りたかったよ。もう叶わない夢だろうけれど。
◇◆◇◆◇
翌日。
自殺用の鴆毒をすでに用意して待っている僕のもとに、ついに使者がやって来た。夏侯恩という曹公の寵臣だ。
彼の手より、「曹公からの慰労の品です」と称して菓子箱を渡される。どうせ空っぽに違いない。慇懃に「開けてみて下さい」と命じられた僕は、覚悟を決めて目の前で紐を解き封を切った。
だが箱の中には、曹公の丞相印璽が押され大きく二文字で「追放」と書かれた皺だらけの指令書が入っていた。




