138.空の箱
前半の語り手は鄧艾。後半は荀彧が漢と儒学の関わりについて私見を述べます。
涙まじりのオレの頼みを無碍に断りきれず迷う鄧艾に向かって、関羽のおっさんは黙って頷く。鄧艾は、
「あーあ、バレちゃったか。日頃の恩に報いるため、せっかく若のせいじゃないって慰めようとしたのに、俺の創作は台無しじゃん」
とつぶやき、
「……俺が屋敷にご厄介になってすぐ、荀彧様は曹丞相に蟄居謹慎を命じられた。屋敷は兵に取り囲まれ、外出は厳しく制限された。それまで百人以上いた食客の奴らはあっさりと荀彧様を見限り、結局残ったのは書生の俺と家臣の数名だけだった。
ある日曹丞相が屋敷を訪れ、荀彧様と会談された。内容は分からない。が、時おり曹丞相の怒声が書斎の外にまで漏れ聞こえて来た。
《わしは秦朗が怖い。あいつは曹魏を乗っ取るつもりなのだ》
《もうよい!そなたは秦朗めに誑かされておるのじゃ!》
《荀彧、そなたは謀叛人を庇うつもりか?》
その晩、荀彧様は書生として残った俺と家臣を集め、
「曹丞相を諫めたが聞き入れてもらえず、話は決裂した。おそらく公から厳しい処罰を与えられるだろう。おまえ達は今夜のうちに屋敷を出なさい」
と命じた。荀彧様を心配した家臣が、家族とともに逃げないのかと尋ねると、
「僕は従容と曹丞相の沙汰を待つだけさ。べつに謀叛を起こしたわけじゃないからね。公の狙いは僕だけだ。家族にまで累は及ばないよ」
荀彧様は冷静にそう答えた。曹丞相は荀彧様を殺めるつもりでおり、荀彧様もそれを覚悟しているようだった。決裂の原因は、たぶん若」
「おいっ!そこまで直接的に言わなくても!」
慌てて関羽のおっさんが鄧艾を制止した。
大丈夫、オレはとっくに真実を受け止める覚悟ができている。荀彧は、やはりオレの命を守るために自らを犠牲にして曹丞相の猜疑を我が身に引き受けようとしたんだな。
鄧艾もそれが分かっていたからこそ、自分が余計な失着をしたせいだ、若は何も悪くないとオレを庇おうとしたわけか。
「翌日。屋敷から退去した俺は、荀彧様のもとへ向かう使者を通り道で待ち伏せした。斥候の調べで、使者は夏侯恩という曹丞相の寵臣で、慰労と称して菓子を届ける役目らしいことを突きとめた。おそらく毒入りの菓子だ。
俺は使者の乗った馬車を途中で足止めし、その隙に車内に忍び込んで、封をしたまま菓子箱の底を抜き、毒入りの菓子を全部捨てて空箱にしようとたくらんだ」
「しかし、馬車を止めれば使者殿が不審に思って騒ぎ出すだろう。誰にも見つからずに車内に忍び込むなど不可能ではないか?」
関羽のおっさんのもっともな疑問に対して、鄧艾は、斥候の鼠や旅役者の協力を得て鮮やかな手口でやってのけたそうだ。
まず、近衛兵に化けた旅役者が警備と称して馬車を止める。
《曹丞相の寵臣である夏侯恩殿を乗せた馬車だぞ!》
と苦情を言う御者に対して、近衛兵に扮した役者は弱り切った顔で、
《とは申されましても、近衛騎士団長より誰も通すなと厳命されている以上、私の一存で通すわけには参りません。団長に確認しますゆえ、しばしお待ちを》
と押し問答を続け時間をかせぐ。すると窓から夏侯恩が顔を出して、
《おい、役立たずの御者めっ!何をグズグズやっている?僕は面倒な仕事をさっさと終わらせて遊びに行きたいんだ!そんなザコは鞭で追い払ってしまえ!》
と癇癪を起こした。すかさず鼠がその窓に向かって眠り薬入りの玉を投げ込むと、薬の効き目で夏侯恩はすぐに眠り込んでしまった、ということだ。
「……こうして俺たちは馬車の中に忍び込むことに成功した。目あての菓子箱はすぐに見つかった。ところが、鼠がナイフで切れ目を入れて箱の底をきれいに抜くと、菓子箱の中身は最初から空っぽだった」
「待て。どういうことだ?」
関羽のおっさんの問いに軍師の龐統は、
「曹丞相は、荀彧様が空箱だったとありのままを答えれば「わしの厚意を愚弄する気か」と咎め、さりとて美味しく頂戴したと礼を言えば、「実は中身を入れ忘れておったのだ。にもかかわらず、さも受け取ったかのように振る舞うとは、この不忠者の嘘つきめ!」と、どちらに転んでも処罰するつもりだったのでしょう」
と解説した。
「そういうことだったのですか!?
俺は贈り物なのに最初から空っぽというのが気持ち悪くて、これは下々の者には理解できない良くない暗示だと直感し、とにかく空っぽの箱の中に何か入れなきゃいけないとの思いで必死だった。たぶん鼠も俺と同じだったと思う。青ざめて俺に「どうします?」と尋ねて来た」
◇◆◇◆◇
●建安十五年(210)三月 許都・荀彧の屋敷 ◇荀彧
その前夜。荀彧は家族を一堂に集め、話を始めた。
我が一族は儒家の荀子の末裔だ。
儒家の建前は孟子が「民を貴しと為し、社稷は之に次ぎ、君を軽しと為す」(民は国家よりも貴く、国家は君主よりも貴い『孟子・尽心下』)と述べたように、仁を中核とし、徳を基礎とし、礼を規範とし、民を第一とする調和の取れた社会の構築を目ざす道だと僕は信じている。
その前提として儒教は、君主に対する忠誠心と秩序を重んじ、権威や序列すなわち君臣・長幼・華夷等の尊卑に応じた階層化を図り、縦の指揮命令系統を保とうとする性格を持っている。為政者の眼から見れば、国家体制維持の面において儒教はまことに都合の良い思想と言えるのは、皆も承知のとおりだ。
と同時に儒教は、堯・舜・禹や殷の湯王・周の武王のように聖人による統治を理想としていた。このような思想は畢竟、彼ら聖人が天下を支配し得たのは、天が徳ある彼らに国家の支配権を委譲したからだ、つまり、天命を下された人間が皇帝となって天下を支配すべきだ、という皇帝の権力と権威を正当化する性質(天命思想)を帯びて来る。
そこに目をつけた漢の武帝は儒教を官学化し、漢王朝の支配を正当化するためのイデオロギーとすることを思いついた。董仲舒は、天は不徳の為政者の世には災異を起こして為政者を譴責する一方、聖徳の為政者の世には祥瑞を顕して泰平の世を褒め称える「天人相関説」を唱えた。
やがて「天人相関説」は、儒教のグノーシス的位相を有する讖緯説に発展する。
皇帝権威の確立は、たび重なる自然界の超常現象(祥瑞)の出現という形で民に知らしめることが最適かつ有効であると喝破した王莽は、彼が立てた新王朝の神秘と正当性を証明する手段として讖緯説を包含した邪道の儒教を利用するに至った。
いっぽう、我が偉大なる祖先の荀子は、「天命思想」あるいは「天人相関説」のような“御用学”的な考え方を否定し、礼と法に基づく現実的な方法によって、皇帝を頂点とする国家を安定的に統治する理論を示した。
が、劉秀(光武帝)が後漢を再興した時に、讖緯説あるいは「天命思想」を大いに利用したことで、為政者にとって本当に有用なのは、正統的な荀子の儒教よりもむしろ邪道の儒教であることが明らかになった。悔しいことにね。
いずれにしろ、一度王莽に乗っ取られた劉家の漢王朝が再び甦ったことは、漢王朝が天命を受けて天下に君臨していることの証明に他ならない。ここに、天命を受けた漢王朝は劉家のもとで永続すべきものであり、儒家は漢王朝の政治体制を擁護し奉仕しなければならぬという不文律が確立された。
僕はね、創生期の孔子や荀子の頃から時代が変わった今、儒教が変容したことはやむを得ないと思っている。でも、馬融のように権力におもねる“御用学者”(関興君曰く“腐れ儒者”かな・笑)が大儒とされる風潮には我慢ならなかった。
後漢も二世紀中頃になると、権力に迎合し、為政者に都合の良い言説を垂れ流す“御用学者”が増殖する。昔ながらの正統派の儒家もいたが、濁流の宦官と組んだ“御用学者”が仕掛けた「党錮の禁」によって、彼らは息の根を止められた。
確かに桓・霊の二帝は失政の多い天子様であった。が、朝廷に残った廷臣は、ただ保身に走り、権力者の意向に忖度し阿諛追従する者たちばかり。これでは政治が良くなるはずがない。黄巾の賊が蔓延り天下が大乱に陥るのも当然の流れである。
それでも我が荀家は最後まで漢王朝の永続を願い、天子様を厚くお守りする責務を担っているという自負は捨てなかった。
我が祖先の荀子は、統治とは、乱の原因を取り除いて治を加えるもの。その方法は、社会に礼義を教化する以外にないと述べ、君子は寛容で素直な心を持って人を教え導くようにと家訓を残している。僕は微弱ながら先祖の教えを守り、一歩ずつ、乱世を治めるための種(礼儀教化)を広めることから始めた。
今、曹公があまたの群雄を討伐し、乱世を終わらせようと動いていることは、皆もすでに承知であろう。
かつて曹公は「わしの覇業のために君の王佐の才を生かしてくれ」と述べて僕を招聘してくれた。曹公こそ仁義・威厳をまとった英雄であり、彼の武力と僕の仁徳で天下を帰服させ、再び漢の天下を甦らせようとの考えは、今でも最善の選択だったと思っている。
曹公が、漢に代わり皇帝として天下に君臨したいという野望を秘めているのはもとより承知の上だ。それでも僕が曹公に仕えたのは、彼のたぐいまれな胆力・戦闘指揮能力と僕の知恵・ビジョンとが補完し合えば、天下統一に最も近づく勢力に化けると踏んだから。
乱世を終わらせなければ民の苦しみは永遠に続く。乱世を終わらせるためには、戦いに勝ち残って天下を統一することが唯一の道だ。
だとすれば、天下は漢の天子様のもとに一統されなければならぬ。それが儒家に生まれ長年漢の臣として仕えた僕の信念だった。曹公を利用して漢王朝の権威を立て直すことが、再び天下泰平の世となる近道だと僕は信じていた。




