137.鄧艾の失着
初めて荀彧に会った時の印象は最悪だった。
《僕は主上の思召しや曹操閣下のご信頼を得ている偉い人。一方、君はぺーぺーの新参者。周りの者の扱いに差が出るのは当然だよね》
《フフン。君が今は面従腹背してるけど、時期が来れば自立を目論んでいることくらい百も承知だよ》
と言われ、本当に嫌味ったらしい腐れ儒者だと思った。
――ちょっと頭いいからって、恩着せがましいし、優しいフリをして平気で罠に嵌めるし、なにが品行方正で徳の備わった天下の賢才だ!
と反発したっけ。
そんな荀彧の本来の姿は、
《僕は儒者の端くれとして、戦乱の世で困っている者を見捨てておけないんだ。彼らを救わなければ、政治家を志した意味がないじゃないか》
《統治とは、乱の原因を取り除いて治を加えるもの。その方法は、社会に礼義を教化する以外にない。僕の先祖の荀子は、寛容で素直な心を持って人を教え導きなさいと言った。だから僕は微弱ながら先祖の教えを守り、乱世を治めるための種(礼儀教化)を広めているんだ》
と語る、慈悲の心で衆生を哀れむ菩薩のような君子だった。
それまでオレは、この世界は単なるVRゲームの舞台と割り切って、いかなる犠牲を払ってでも、孫権に騙し討ちされて殺される運命の関羽のおっさんと関平の命さえ救えればいいと思っていた。数字でしか表されない無名の兵士や領民たちを踏み台にしたって、オレが知ったことか、と。
オレは尊敬の眼差しで荀彧の話を聞き、改心して彼を師と仰いだ。荀彧自身もオレに目を掛けてくれたようだ。
《大丈夫だったのかい?困った時は、迷わず僕に相談してくれていいんだよ。曹魏の臣下がらみの案件なら、大概のことは僕の力でなんとかできるんだし》
《僕は関興君を好ましく思っている。君の命を狙われるような目には遭わせたくない》
だけど、曹操に疎まれ命を狙われるような目に遭うのは荀彧の方だった。彼自身もきっと気づいていたはずだ。
《正道に従って主君に従わないのが、君子の踏むべき宿命だ。自らの志を曲げ、言葉を諂うならば、儒者の道は尽きてしまう。私は最期まで儒者の道を貫きたい。たとえ君が腐れ儒者と揶揄しようとも、ね》
《礼を言うよ。仮に僕が自ら命を断とうとしたって、全力で止めてみせると君が言ってくれた時、本当は涙が出るほど嬉しかったんだ》
「……オレは本気ですからね。オレたちを守るために、自らを犠牲にして曹丞相の猜疑を一身に引き受けようったって、そんな真似はオレが許さない。名誉の自死なんて、全然名誉でもカッコ良くもないですから」
と大見得を切ったのに、オレは……。
◇◆◇◆◇
「若、お目覚めですか?」
夢から覚めたオレは、ベッドに寝かされ、傍らには許都から帰って来た鄧艾が侍している状況に気づいた。
「鄧艾!荀彧の屋敷で書生をしていたおまえなら、詳しい事情を知っているだろう!?さあ、話せ!」
「お待ち下さい。若が意識を取り戻したことを、関羽の大殿にお伝えするのが先です」
オレに話す方が先だ、と鄧艾の行く手を止めようと身体を起こしたオレは、関羽のおっさんに喰らったパンチの痛みに思わず呻いた。
「くっ……痛ってェ!」
「言わんこっちゃない。一騎当千の大殿に喰らった本気の当て身ですよ。まだ身体を起こすのは無理ですってば」
コップに注いだ冷たい水を飲ませて再びオレを寝かしつけた鄧艾は、関羽のおっさんを呼びに行った。
-◇-
「興、悪かったな。だが、おまえの命を守るためと堪えてくれ」
関羽のおっさんが当て身を喰らわせたオレの鳩尾を優しく撫でる。
「……いえ。オレの方こそ冷静さを失っていました。正気に戻してくれた父上に感謝します」
心にもない返事をしたオレの気持ちはきっと見透かされていただろう。関羽のおっさんは苦笑交じりに、鄧艾に話してやれと促した。
「あの晩、荀彧様は屋敷にいる書生一同を集め、曹丞相への最後の説得が不調に終わり、おそらく荀彧様ご自身にもなんらかの罰が与えられるだろうが、なぁに心配はいらないと告げられた。
念のため、身の振り方は各自で決めておくように。もし希望すれば、一族の荀攸様に紹介するが、彼が全員引き取ってくれるかどうかは分からない。皆の才能を存分にアピールして、彼に気に入られるよう頑張って欲しい、と。
俺は荀彧様に尋ねた。ご家族の方はどうされるのですか?と。荀彧様は「家族にまでは累が及ばないように決着しないと、ね」と笑っておられた。
書生らは安堵して部屋に戻って行ったが、俺は逆にその話を聞いてピンと来た。曹丞相は荀彧様を殺めるつもりでおり、荀彧様もそれを覚悟しているのだ、と」
おかしい。いや、話の筋は通っている。通ってはいるのだが、そもそも超人見知りで無口な鄧艾が、自分から荀彧に質問するなんてあり得ない。何を誤魔化そうとしている?……オレは不審をおぼえた。
「翌日、曹丞相から慰労と称して荀彧様の屋敷に菓子箱が届けられた。おそらく毒入りの菓子だ。俺は元盗っ人の斥候・鼠を呼び、荀彧様に気づかれぬよう書斎に忍び込み、封をしたまま箱の底を抜いて、毒入りの菓子を全部捨てて空箱にした」
「!!」
おい、鄧艾!なんてことをしてくれたんだ?!
中身が空の箱を贈れば、それは“用済み”を意味して婉曲に「死ね!」と命じていることと同義なんだぞ!
オレはまさかの鄧艾の失着に怒りを覚え、鄧艾の上着の襟を掴んで「ウーッ、ウーッ」と言葉にならない唸り声をあげ、激しく揺さぶった。関羽のおっさんが鄧艾を庇うように、
「……興、よせ!鄧艾を責めるのは筋違いだぞ。仮に鄧艾が何の処置もしなければ、荀彧殿は曹丞相から届けられた毒入りの菓子を口にせざるを得ず、荀彧殿は毒にあたって死ぬ運命だったのだ」
そんなことは分かっている!鄧艾の話のとおりなら、どう転んだって荀彧が助かる道は残されていなかった。だけど、オレがその場にいたらもう少し上手くやれたんじゃないかという後悔の念が頭の中でグルグル回るのだ。
もちろん、オレは曹操の怒りを買って許都に居ることができなかったのだから、今さらそんな仮定の話を言っても詮ないことだ。責めるべきは曹操に許都から追放されてしまった自分にある。
あ……そうだ、鄧艾のせいじゃない。
この先起こるであろう荀彧の運命を知っていながら、結局何もできなかったオレ自身に対してこみ上げる怒り。
先ほど感じた鄧艾への不審は、本当のことを誤魔化すために、鄧艾は誰かが書いた台本を読まされているのではないかという疑念だ。
何のために?
失着を犯した鄧艾を庇うために、鄧艾を責めるのは筋違いだとオレに気付かせようと、関羽のおっさんが台本をわざわざ書き直して……
いや、きっとそうじゃない。
師と慕う荀彧の死を前に何もできなかったオレが、オレ自身を責めないように、自分が余計な失着をしたせいだ、若は何も悪くないと鄧艾が怒りの矛先を買って出てくれたんだ。
鄧艾は自分で書き上げた台本を何度も何度も繰り返し練習して、吃音にならないよう一言一句セリフを諳んじたに違いない。
「うわああぁーっ!」
絶望とか自分への怒りとか、いろんな感情がない混ぜになって、オレはベッドに臥せたまま泣き叫んだ。
「若……」
オレを慰めようと鄧艾が差し伸べた手を掴んだオレは、
「頼む、鄧艾。本当のことを教えてくれ!荀彧が死んだのがおまえの失着のせいにされてしまったら、オレは一生自分のことが許せなくなってしまう。そうならないためにも、オレは荀彧の死の真相を知らなければならないんだ!」




