135.決裂
建安十五年(210)三月。
梅の花が香る清清しい朝。蟄居謹慎中の荀彧を訪ねて、曹操を乗せた豪華な馬車が屋敷を訪れた。もしや己の過ちに気づき、詫びを入れに来たのかと淡い期待を抱いた荀彧は、曹操を書斎に招き入れる。
「曹丞相、いかがなされましたか?」
「蟄居謹慎中の身とはいえ、軍師のそなたには一応報告しておこうと思ってな。月が替われば、わしは涼州の馬超を伐つ」
「!!」
もはや修復できそうもない二人の溝に落胆した荀彧は覚悟を決め、最後の奉公とばかりに曹操を諫める。
「お待ち下され!馬超は涼州刺史として、たとえ形式的だとしても貴公に従っております。理由もなくお味方を伐つとあっては、曹魏に降った諸将の間に動揺が走り「次は自分の番ではないか」と疑念を起こし、悪逆の道に向かう者も出て参りましょう。天下は再び乱れてしまいます」
「理由なら、ある。伏完と共謀し、わしに対してクーデターを起こさんと企んだ、謀叛の罪がな」
「それはまったくのデマです。馬超が伏完とクーデターを共謀していたというのはあくまで噂に過ぎず、伏完の屋敷を家宅捜索しても馬超が関わっていた証拠は発見されませんでした。現に伏完が誅された際にも、馬超は動いておりません」
「うるさい!そなたは謀叛人を庇う気か?!証拠なら、後からどうにでもなる。今は馬超を伐って涼州を降したという功績が必要なのだ」
もって回った曹操の言葉にハッと思い至った荀彧は、
「まさか……貴公は!」
せせら笑った曹操は、
「天才的な軍司令官が功績によって爵位が上がる危険性を問題提起したのは荀彧、そなたではなかったか?だが、司馬懿がみごと解決してくれたぞ。
わし自身が涼州を平定した功績により爵位が“王”に昇り、さらに益州を平定した功績によって、漢の天子より“皇帝”の位を禅譲してもらえば、天下統一が二歩前進するとともに、仮にわしの座を脅かす軍司令官とやらが残り二州、荊州と揚州を平定したとしても、せいぜい大将軍か公までで歯止めがかかりましょう、とな」
「なりませぬ!かような戦術は、かつて春秋戦国の世に蔓延った徳にもとる卑賤な行い。王者の戦いとは申せませぬ」
荀彧の賢しらな物言いに、曹操は憮然として、
「王者?徳?荀彧よ、わしはそのような役にも立たぬ腐れ儒者の戯れ言など、今さら求めてはおらぬ。欲しいのは、漢の天子も認めざるを得ない一州を得たという輝かしい功績よ」
「そのために、涼州を生贄にすると……」
「生贄とは人聞きが悪い。天下統一に向けた尊い犠牲ではないか!それに荀彧、そなたは勘違いしておる。わしから事を起こすのではない。馬超の方から謀叛を起こすよう仕向けるのだ。奴の父親の馬騰をな、こう……」
曹操は首を斬るジェスチャーをした。荀彧は顔色を変えて、
「なりませぬ!なりませぬ!己に従わぬ者を悪と決めつけ、罪なき者を殺めるは人倫にもとる行為。父を殺された馬超の恨みはもちろんのこと、諸将にも貴公への猜疑しか生じません。私は一身を以て貴公の蛮行をお止めします」
「その恨みをぶつけて来た敵を武力で捩じ伏せれば、恨みは雲散霧消する。功績を以てわしの爵位が王に昇り、諸将に恩賞を施せば猜疑も称賛へと変わるだろう。
司馬懿は仕事が早いぞ。永年の懸案が次々と解決に向かっておる。そなたの説いた策では皇帝に即位する前にわしの寿命は尽きていただろうが、おかげで帝位に登った後に酒池肉林を楽しむ余裕まで生まれそうじゃ。わはは」
上機嫌で笑う曹操を冷ややかに睨みつけた荀彧は、
「曹丞相。孔子の述べた「本当の敵は外にあらずして邦の内にあり(原文:憂いは顓臾に在らずして蕭牆の内にあり)」という教訓を今こそ思い出すべきです。
事の運びがあまりにも急すぎる。
考えてみれば、司馬懿は董昭や華歆と組んで、これまで積み重ねて来た貴公の徳行を全否定する策ばかり進言しておる。“使持節都督諸軍事”を假し与える妙案とやらも、将来的に自ら令外の官に就いて軍事専断権を振るい、実は曹魏の内部から侵食するトロイの木馬やもしれませぬ。司馬懿にはお気をつけあそばせ」
「荀彧よ、哀れよのう。そなたは時代に取り残されたのじゃ。綺羅星のごとく現れた、若く有望な軍師に己の地位を奪われたからと言って、嫉妬は醜いぞ」
と嘲笑う曹操。荀彧は静かに首を振り、
「……私は貴公に協力したことを、今ほど激しく後悔したことはございません。
私は予言します。確かに貴公は皇帝の座に践祚できるかもしれません。ですが、貴公の子孫はおそらく貴公が作った前例を踏襲される形で帝位を奪われ、貴公が新たに興した王朝は半世紀と保たず滅びることになりましょう」
「フン。諫言にかこつけて、不敬の暴言をわしに向かって確かに申したな。謹慎では済まされぬぞ。荀彧、追って沙汰を申し渡す。身を清めて待っておれ」
と吐き捨て、曹操は荀彧の屋敷を出た。馬車に乗り込んだ曹操は、中で待っていた腹心の程昱に向かい、
「話は終わりだ。荀彧に例の物を送れ」
「しかし……」
程昱は曹操に再考を促す。
「昔から、わしの座を脅かし得るのは荀彧だと踏んでおった。いつかはこうなると予想しておったのじゃ。切り捨てるには惜しいが、奴との溝は埋まりそうもない。生かしておいて秦朗と結託しても目障りだ。やむを得ぬ」
「……畏まりました」
冷たい風が吹いて、梅の花がはらはらと散り大空に舞った。
許都から遠く離れた荊州にいる関興は、荀彧に迫る最期の日を知る由もない。




