125.初恋
ついに白馬に乗った王子様の登場!
●建安十四年(209)十二月 学園にて ◇曹沖
僕は臆病でずるい人間だ。
今だって丕兄さまと衝突するのを恐れ、理不尽な仕打ちと分かっているのに足がすくんで動けない。
なのに僕より年下の秦朗は、怯むことなく敢然と丕兄さまを諫める。
「甄洛副会長のご実家は、もと袁紹の配下であった華北きっての名門貴族。曹丞相は、新たに曹魏に降った袁家ゆかりの者たちを慰撫するために、甄家との姻戚関係を結ぶよう義兄上に指示したのです。
そんな甄洛副会長との婚約を義兄上が勝手に解消するとなれば、これ以降曹魏は袁家に仕えた者たちを切り捨てるという誤ったメッセージを与えかねません」
秦朗の言うとおりだ。
かつて鄴が陥落した時、敵の大将・袁尚は残された将兵を見捨てて北に逃げた。血道を切り開いて彼らを追った武将もいたが、父上(=曹操)が出した「逆賊の袁尚に脅された将兵のうち心を悔い改めた者はすべて降伏を許す」との布告に安堵して、曹魏に鞍替えした臣下も多いのだ。ここで甄洛副会長との婚約を破棄して罰を与えれば、先の父上の布告を疑う者も現れるだろう。
「甄洛副会長の父君である甄逸殿は雁門関を守備し、騎馬民族である匈奴の侵攻を阻止する重要なお役目を担っている御方。咎もないのに一方的に婚約を破棄された甄洛副会長の処遇に不満を募らせ、万が一甄逸殿が曹魏に叛いて雁門関を開いて匈奴の侵入を許したら、華北の領地はどうなるとお思いですか?」
もちろん、僕は甄逸将軍がそんな人物ではないことを知っている。そんなことを言い出したら、荊州を治める唐県侯の秦朗だって、父上や荀彧様は警戒を隠さないけれど、彼が僕と敵対する未来なんて想像できない。
子供の頃から聡明を謳われていたけど見掛け倒しの僕より、秦朗の方が父上の覇業を継ぐにはふさわしい。
とはいえ血筋というものがある。彼は父上にとっては義理の息子、言葉は悪いが“嫁の連れ子”にすぎない。そうである以上、将来的には僕が父上の後を嗣いで、秦朗には僕の右腕として政務を輔佐してもらうのが良い。
だがきっと、父上も荀彧様も反対するだろう。秦朗は今でこそ表面上曹魏に臣下の礼を取っているが、時期が来れば必ずや自立を目論む、と。たぶんそうなのだろう、彼の器は荊州一国に収まるはずがない。
僕も国家を預かる丞相家の人間として、危機管理は万が一に備えることが大事だと思う。仮に荊州の秦朗や関羽将軍と、雁門関の甄逸将軍が呼応して同時に曹魏に叛いたら、許都は南北から挟撃されることになる。それはまずい!
最近、秦朗は甄洛副会長と親しげだ。そして、甄洛副会長もまた満更でもなさそうなのだ。もしや秦朗は、そうなることを見越して彼女に近づいたのか?
……ああ、僕はいやな性格だな。秦朗がそんな計算高い人間じゃないことくらい、長い付き合いで知っているのに。
むしろ計算高いのは僕の方だ。秦朗の才能を狡賢く利用しようとしているし、今だって彼の諫言には賛同しながらも、矢面に立たされることを恐れて、彼を擁護しようとも二人の対立の仲裁に入ろうともしない。
丕兄さま達はますます激高し、秦朗に挑発を繰り返す。
董桃「そんなに甄洛のことが大切なら、あんたが結婚でも愛妾にでもしてやればいいじゃない!」
曹丕「そのとおりだ。それほどまでに曹魏の将来を思っての諫言であれば、秦朗、おまえが甄洛と結婚してやればいい!」
そんなの駄目だ!
このまま秦朗と甄洛副会長が結婚したら、許都は荊州と雁門関の南北から挟撃されるという万が一の仮定が、現実のものとなってしまう!
――いや、それが僕の本音なわけじゃない。
秦朗と甄洛副会長が結婚すること自体が、僕の心をざわめかせるのだ!
さっきは「秦朗が僕と敵対するなんて考えられない」などと言っておきながら、内心では秦朗のことを訝っている。
(うげっ。あんたに“興ちゃん”とか言われたら鳥肌が立ちそう)
(うっざ。もう帰れよ!)
とぞんざいな扱いをしているけれど、秦朗は甄洛副会長のことが本当は好きなんじゃないか?
――嫉妬。
そう、僕は秦朗に嫉妬している。
僕だって、甄洛副会長のことがずっと好きだったんだ!
かつて陥落した直後の鄴を訪れ、袁煕の幼妃で美貌を謳われた甄洛に出会った時、十歳の僕は一目で恋に落ちた。と同時に僕は、その恋を諦めなければならなかった。なぜなら彼女は丕兄さまの婚約者に選ばれたから。
赤壁の敗戦で、丕兄さまと決まっていた丞相の後継者が白紙に戻されて以来、その座を巡って僕と丕兄さまは激しく対立した。僕は秘めた恋を語ることすら固く封印しなければならなかった。僕と丕兄さまの対立が甄洛を巡る争いだと矮小化されて世間に誤解されれば、曹家の威信だけでなく彼女の操をも傷つけることになるからだ。
麗姉さまは僕の恋心を薄々勘づいているらしい。僕が婚約者を立てずにフリーを貫いている言い訳を、周りにあれこれフォローしてくれている。
そして今、甄洛は丕兄さまに婚約破棄を宣言されフリーとなった。丕兄さまと董桃の挑発に乗って、秦朗は彼女にプロポーズしようとしている。
「甄洛副会長。あなたのような美しい才女にとって、年の離れたオレでは頼りなく見えるかもしれませんが、あなたさえ良ければオレの嫁に来……」
その時、麗姉さまが僕を叱咤して、
「沖、何をぐずぐずしてるの?今行かないと、あんたの好きな甄洛副会長が秦朗に盗られちゃうわよ!」
と僕の尻を叩いた。勇気を出した僕は、秦朗のプロポーズを遮るように、
「ちょっと待ったぁー!!」
と大声で叫んだ。
-◇-
突然の出来事に驚く甄洛に対し、僕は会釈して丕兄さまの前に進み出て、
「兄上。あなたは甄洛副会長との婚約破棄は決定事項だとおっしゃいましたが、間違いありませんね?」
「お、おう。沖、おまえもそこの秦朗と同様に俺を諫める気か?」
と訝る丕兄さま。
「いえ、べつに。よかった!だったら、甄洛副会長は僕がいただきますね」
そう言って甄洛の方に振り返ると、
「何の咎もないのに、僕の愛しい甄洛副会長をこれ以上好奇の眼に晒すわけには行きません。さあ、僕と一緒にこちらへ」
と申し出た。
「えっ?あ、あの…曹沖殿下、なにを?」
途惑う甄洛の手を取り、僕は連れだってパーティー会場を抜け出す。
「ま、待て!おい、沖!」
予想もしなかった僕の行動に焦り、丕兄さまが僕を呼び止めるけれど、僕はその声に聞こえないフリをする。この分じゃ、追っ手を差し向けられかもしれないな。急がないと。
ぽかんと呆けた顔をしたままの秦朗の前を通り過ぎる時、
「ごめんね、秦朗。これだけは君に譲るわけにはいかないんだ。後のことはよろしく!」
とささやいてウインクすると、秦朗は事態が飲み込めないのか、
「へっ?あ、はい……」
と間の抜けた返事をした。




