120.妙手
荊州領内の関羽軍の配置
江夏…〇関羽・龐統・魏延・蒋琬
江陵…〇関平・甘寧・魯粛
唐県…〇関興・鄧艾・劉巴・劉靖
襄陽…〇潘濬・周倉・鄧芝
〇は城主。関興と鄧艾は許都の学園に留学中で一時的に不在だが、屯田兵卒の李凱・楊賢や陳京らが留守を預かっている…という設定。
●建安十四年(209)九月 許都 ◇関興=秦朗
次に曹操が目論んだのは、荊州への軍事的な圧迫である。
曹操は、後漢皇帝の権威が失墜した原因として、州の内政を司る刺史に軍事力を持たせたこと(つまり“州牧”となったこと)が諸悪の根源だと喝破した。その反省から、曹操は自ら領有する八州においては、州の内政を司る刺史と軍事を司る将軍職を厳格に分離した。すなわち、将軍には州における軍事の権限を与える代わりに、人事・財政には口を挟むことができない。一方、州刺史・郡太守は内政に専念させる代わりに軍兵の所持を制限した。このようにすれば、曹家に対抗しようとする勢力が勃興する芽を摘み取ることができると考えたのだ。……史実では、な。
この世界では、赤壁の敗戦に意気消沈する曹操を脅して荊州の保有を認めさせる一方、孫権を牛渚の会戦で叩きのめし曹丞相の威信回復と領土の拡張に多大な功績があったとして、六万もの兵力を有する将軍の関羽を荊州刺史に任命せざるを得なかった。
せっかく荊州牧の劉表を倒したのに、より軍事力に長けた鎮南将軍かつ荊州刺史の関羽という「怪物」――州の内政と軍事の両方を兼任する藩鎮を、自領内に誕生させてしまったのである。
当然、曹操としては“強い”荊州刺史の関羽から軍権を取り上げて、他と横並びの“弱い”刺史に落としめたい。
そこへ家臣の司馬懿が妙案を提示した。
――襄陽とは漢水を挟んだ対岸にある樊城に駐屯している征南将軍の曹仁に、荊州の軍事一切を統括する“都督荊州諸軍事”の権限と、皇帝の許可を仰ぐことなく州刺史・郡太守を含む二千石以下の臣民を死刑にできる専断権を持つ“使持節”を試みに假し与えてはどうか?
というものだ。
狙いはもちろん、荊州刺史・関羽が持つ軍事力の削減と、独立の機会を窺うオレへの牽制。妙な動きをすれば、叛逆罪でいつでも討伐の対象にするぞという脅しである。
例えば、曹仁は“都督荊州諸軍事”の権限を使って、荊州刺史の関羽に「おまえの配下の兵6万のうち半分の3万を寄越せ」と命令できる。関羽はこれに拒否できない。断れば、“使持節”の専断権を持つ曹仁は、いとも簡単に関羽へ死刑の処分を行使できるからだ。それが嫌なら曹魏の総兵力40万を相手に討ち死に覚悟で挙兵するしかない。だが、周りに味方のいない今の状況ではまともに戦っても関羽は負ける。
史実では、この“使持節都督諸軍事”のような強力な軍事的専断権が、魏の時代の将軍に与えられた例は確認できない。それは後代の晋の時代に初めて現れるものだ。
魏の時代には、わずかに曹丕の寵臣であった夏侯尚が、荊州刺史・仮節都督南方諸軍事・征南将軍の号を授けられたことが見える。ここで“仮節”とは、軍令を犯した部下の将兵を将軍の判断で死刑に処してよいという“弱い”専断権だ。
それをいきなり飛び越えて、樊城に駐屯する曹仁に使持節都督荊州諸軍事という“強い” 専断権を假し与えるとは、な。
つまり、魏の曹操の脅威となり得る関羽のおっさんを、後代(晋)の知恵でもって制しようと画策した人物が現れたようなのだ。
うっわ、面倒くせぇ!新たな転生者の登場か?!
新学期が始まって許都に戻ったオレは、さっそく荀彧に探りを入れた。どうやら、その策を進言したのは司馬懿らしい。
なるほど、諸葛孔明の宿命のライバルで、後に晋を興した司馬懿か。まあ、あいつの頭脳なら“使持節”やら“都督諸軍事”くらい思いつくかもしれないな。しかし司馬懿が曹操の下で頭角を現す時期って、史実ではこんなに早かったか?たしか司馬懿は曹操に猜疑の目で見られるのを恐れて、己の能力を隠していたような気がするんだが……。
荀彧はニヤニヤと笑いながら、
「さすがの関興君も困り果てているようだね。それにしても司馬懿は、刺史(二千石職)の生殺与奪を握る“使持節”やら、荊州の兵を自在に調達できる“都督荊州諸軍事”なんて妙手をよく思いついたもんだ。前漢の時代まで遡らないと先例が見つからないのに」
と司馬懿の博学に感心というか警戒を隠さない。
「彼の提唱する方法は、理想主義的な儒学に基づく“仁徳”の政治でもなく、法令で統御する“法治”主義でもなく、新たに強力な権限を持つ令外の官を設けて白紙委任するやり方だ。
僕は危ういと思う。“使持節”の専断権を假し与えられた将軍が、有能かつ忠誠心がある者ならばうまく行くだろうが、皆が皆そうだとは限らないよね。もし野心があり悪魔的な才能を持つ者が令外の官に就いて、強力な軍事独裁権を手に入れれば、この国の秩序は破壊され、やがて彼に国を乗っ取られるだろう」
そのとおり。そして荀彧の懸念はおそらく現実のものとなる。四百年続いた劉氏の漢王朝を“禅譲”により合法的に簒奪した曹魏は、わずか四十年足らずで司馬懿が興した晋王朝に乗っ取られるのだ。
「まあ、オレなりに抵抗してみますよ。兵糧の供出ならともかく、せっかく育てた兵の半分を曹仁に没収されるのは腹立たしいし、“使持節”なんて危険な専断権を持つ将軍に、大軍を擁して喉元に匕首を突き付けられた状態で州内を監視されるのは迷惑ですし」
オレは軍師の龐統と相談して、六万の兵のうち、
精鋭三万は治安維持の部隊として手元に残すとともに、
初期に育てた屯田兵一万を帰農させたことにし、
赤壁の戦いで捕虜にした一万を都督荊州諸軍事の曹仁に供出し、
残りの一万を荊州南部を支配する劉備に貸すことにした。
こうすれば、関羽軍は“都督荊州諸軍事”の軍権を持つ曹仁に、本来なら有する兵の半分にあたる三万を供出しなければならないのを、ずっと少ない一万に抑えることができるし、劉備軍は虎視眈々と荊州侵略を狙う孫権を牽制しつつ、念願の益州制覇を史実どおり達成できるというWin-Winの関係が成立するのだ。
ただ、劉備のクソ野郎の成功に不本意ながらオレ自ら手を貸したという汚点が残るが、この際致し方あるまい。オレは女神孔明との交渉に向かった。
-◇-
●建安十四年(209)十月 荊南・公安城 ◇関興=秦朗
「……というわけで、劉備将軍は荊州南部の領土を確保しつつ念願の益州制覇を達成できる。今まで世話になった恩義に報いるために、劉備将軍に兵一万を貸してやれという関羽のおっさんのありがた~い思し召しだ。って、聞いてるのか?!女神様?」
オレが説明してるのに顔を真っ赤にして目を逸らし、てんで聞いてなさそうなそぶりの女神孔明にイラッとする。
「えっ?あ、うん。ちゃんと聞いてるわよ!ありがとね、関興」
「オレにじゃねぇよ!礼を言うなら関羽のおっさんにだろ!おい、本当に大丈夫か?真っ赤な顔して、熱でもあるんじゃねーか?」
オレは女神孔明の額に手をあてる。
「ひゃう♡も…もも、もう。急に触らないでよ!びっくりするじゃない!」
「あ、悪りぃ。恋人でもない男が軽々しく女性の体に触れちゃ失礼だよな。熱もないようだし、もう触らないから許してくれ」
「ち、違うの!関興にはもっと触れて欲し…じゃなくて、触るんだったら先に私の了解を取ってよって話。心の準備が必要だもん」
???
駄目だ。前世では彼女いない歴=年齢の恋愛オンチだったせいで、この世界に転生しても女神様が何を言いたいのか意味が分からない。
「とにかく、兵一万を貸してやるって話には同意するんだな?ただし、部下を粗末に扱う張飛に預けるのは論外だ。益州に遠征するのは劉備と徐庶、それに黄忠だろ。なら消去法で公安城に居残る趙雲と陳到に預けるとしよう」
などと尤もな理由を付ける。なにを隠そう、以前話したとおり、劉備軍から関羽軍に鞍替えを打診して来た将軍とは、趙雲と陳到なのだ。彼らになら、一万の兵を預けても大事に扱ってくれて、最終的にきちんと返還してくれるに違いない。
「分かったわ」
……もっと揉めると思っていたから、こうもあっさり女神孔明に同意されるとなんか調子狂っちゃうなぁ。
「ねぇ関興。あんた何歳になったの?」
と女神様が尋ねて来る。オレは呆れて、
「あんたが十年前に転生させたんだろ!それくらい覚えてろよ」
「そ、そうだったわね。十歳かぁ。元服はもう少し先よね?そ、その…あんたの彼女の鴻杏ちゃんとはもうキ…キスしたの?」
「はあ?なんで女神様がそんなこと聞くんだよ?!」
オレは怒りと恥ずかしさのあまり赤面する。
「だ、だって気になる…じゃなくて、前世で童貞のまま死んだあんたは、この世界に転生してもどうせモテなくて可哀想だから、私がファーストキスの相手になってやろうかと親切心で立候補しよっかなぁ……なんちゃって」
「断る!何が悲しくて女神様なんかと…。
鴻杏ちゃんとはまだだけど、甄洛副会長がオレを揶揄うつもりでキスしやがったから、ファーストキスなら経験済だ。あっ、そんなのをカウントする時点で童貞丸出しとか馬鹿にするなよ!」
ぐはっと血を吐いて(?)膝から崩れ落ちる女神様。何やってんだ、さっきから?
「オレもう帰るぞ。史実どおり劉備のクソ野郎が益州を手に入れて、女神様の天下三分の計が実現できるといいな!」
とオレは告げて許都に戻った。
82話で女神孔明のピンチを救った関興に恋心を抱く、女神様の胸の内に気づかないザ鈍感・関興の巻でした。
そうして二学期が始まった九品中正学園では、文化祭やら体育祭で盛り上がったが、本編とは関係ないので(気が向いたら)番外編でお届けする予定です。




