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三国志の関興に転生してしまった  作者: タツノスケ
第五部・学園離騒編
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119.駆け引き

学園ドラマのドタバタ劇の裏で、政治的にきな臭い駆け引きにも活躍する関興の姿を2回に渡ってお届けします。

●建安十四年(209)八月 荊州・江夏 ◇関興=秦朗


江夏に到着したオレは、さっそく関羽のおっさんに挨拶に出かける。


「父上。ただいま戻りました」


「興、よく戻ったな。舞殿の護衛ご苦労であった」


「申し訳ありません。勝手な判断で帰国を遅らせてしまいました」


「なぁに。依頼を断ったせいで、かえって曹丞相に猜疑の目で見られるわけにも行くまい。おまえらしい柔軟な対応だったと感心しておる」


と関羽のおっさんがにこやかに話す。側には軍師の龐統と、孫権から引き抜いた魯粛が侍っていた。


「それで、許都の情勢はどうなのだ?」


オレはこの一ヶ月、ただ学園で楽しい学生生活を送っていただけではない。唐県侯の爵位を持つオレは、丞相府に顔を出してお偉方に媚びを売ったり、狩りやら舞踏会やら貴族令息同士の付き合いにも欠かさず出席している。そこで誰と誰が繋がっているとか政治的な裏話を仕入れたり、戦いに関するきな臭い情報を集めて回り、荊州に送る仕事も担っているのだ。(だからこそ、オレが許都に一年間残ることがすんなり了承されたわけだ)


曹操は天子様のいる許都を離れて鄴に移ると、巨万の富をかけて銅雀台を築いて己の財と権力を誇った。これが四月。その一方、曹沖と曹丕の世継ぎ争いはいよいよ激しくなり、あわせて荀彧ら漢帝を奉じる穏健派と漢帝を廃して新王朝を樹立しようと企む宿将らの強硬派の対立が、政局となりそうな気配だと報告した。


「漢の天子様も、裏でいろいろ画策しているようでして」


まあ、後漢の献帝も曹操に廃されるのを黙って待つばかりのはずがあるまい。どうやら侍中の伏完を使って反曹操クーデターを起こそうと動いているようだ。そして曹操の側でもそれを察知している。狐と狸の化かし合いだ。巻き込まれないに越したことはない。


「それに関連して、孫呉を出奔して伏完に寄生していた【風気術】師の呉範が、六月に獄死したそうです」


「トカゲの尻尾切りというわけか?」


「はい、おそらく」


「困ったのう。実は、今月に入って俺の所にも伏完から反曹操クーデターの誘いの(ふみ)が届いておる。涼州の馬超・韓遂と劉備将軍は賛同しておるそうだ」


「決起はいつと?」


「今年中にはなんとか……と考えているらしい」


えらく急だな。最低でも一年は準備が必要だろうに。裏をかいて、曹魏軍の準備が整わぬうちに長安を陥とすつもりだろうか?ならば早急に荀彧に知らせてやらなければ。


「それで、父上の返事は?」


「保留だ。まだ返しておらぬ」


「良かった。天子様のいる許都に近い我々は、彼らと違って大っぴらに曹操に反抗するのは得策ではありません。叛逆すれば真っ先に鎮圧の兵を差し向けられるのがオチです。曹操に対しては、今は面従腹背。つけ入る隙を与えてはなりません。

 我々の元には伏完からの(ふみ)は届いていないというスタンスを取るのが賢明かと」


龐統と魯粛もそれに同意した。

実際、オレと曹沖・曹麗との関係は良好であるが、曹操との関係は昨年来冷え切っている。


まあ無理もない。関羽のおっさんは形式的に天子様を擁する曹操の傘下に入ったとはいえ、兵六万を有し、オレの意見を容れて内心では荊州の割拠・独立を企んでいる上に、曹操の不倶戴天の敵である劉備の盟友だと警戒されているのだ。(劉備の下に見られるのは大いに心外だが)


関羽(とオレ)から荊州を己が手に奪い返さなければならない。が、その妙手が思い浮かばない曹操は苛立ちを募らせていた。


 -◇-


そんな時、揚州刺史だった劉馥(りゅうふく)が死んだ。死ぬ間際、見舞いにやって来た荀彧に劉馥(りゅうふく)は遺言を残した。


「荀彧様。私は息子の劉靖を荊州の秦朗君の元で勉強させています。彼の富国強兵策は、法律に抵触する部分もあるでしょうが非常に独創的かつ先進的で、今後曹魏領内の統治にも役立てられると思います。ノウハウを習得した劉靖をいずれお引き立て下されば、思い残すことはありません」


「分かってるよ。僕と君の仲じゃないか、どうか安心してくれ」


劉馥(りゅうふく)はベッドに臥せたまま話を続ける。


「荊州を治める関羽殿と孫呉から分かれて建業にいる孫紹の一派は、秦朗君が周瑜提督を討ち取った経緯もあって、表面上は不仲に見えますが、実際には裏で繋がっています。どうやら周瑜提督は生きているとの噂もあり、斥候に命じて探らせておりますが、いまだ真偽の程は(つか)めておりません。

 私が寿春で睨みを利かせている間、彼らはおとなしく曹魏に属しておりましたが、機が熟せば自立を目論んでいることは明らかです」


「うん、君の見立てどおりだ。秦朗君のことは個人的に気に入っているが、彼の行動次第で曹魏が危機に陥るかもしれぬことは百も承知だよ」


荀彧は、最期まで揚州の情勢に気を配る劉馥(りゅうふく)に感動をおぼえる。


「私は淮河の水運を使った彼らの往来を黙認していましたが、行動が目に見える範囲でなされている間は、彼らの決起準備がまだ整っていない証しだと見なせるし、仮に変事が起こったとしても、軍事力に勝る我ら曹魏軍はいかようにでも対処できると考えたからです。

 しかし彼らの往来が裏に潜ってしまうと、正しい情報が寿春にいる我らに届かず、気づいた時にはすでに手遅れの事態に陥っているやもしれぬことを危惧します」


ゴホッゴホッと咳込む劉馥(りゅうふく)。荀彧は背中をさすってやりながら水を飲ませた。


「大丈夫かい?無理をしちゃだめだ。君の言いたいことは分かっているよ。彼らには淮河を使わずとも、長江経由で遠回りするルートを持っている。そうなっては情報が閉ざされ、我らが入手するのが困難になる。それは避けなければならないということだろ?」


「ええ。私は関羽殿や孫紹に対して寛大に振る舞って来ましたが、気づかぬフリをして監視だけは怠らないように注意しておりました。彼らもそのことを知っておるからこそ、敢えて事を起こさなかったように思います。

 私の後任者は、私の処置が甘すぎると考えて淮河での取り締まりを厳重にし、通行税の増額やら軍事的な脅しをかけて、彼らへの締付けを強化するに違いありません。ですが、それは逆効果だと憂慮しています。

 荀彧様、どうか後任の揚州刺史にはくれぐれも私の懸念をお伝え下さいますように。

 関羽殿や将軍の甘寧は一騎当千の猛将。また孫紹の新生孫呉は、水軍に長けた強者が揃っています。彼らが驕慢にならなければ、このまま曹魏の下で飼い馴らすべきで、我らの方から決して敵対関係に追いやってはなりません」


劉馥(りゅうふく)は息も絶え絶えにそう述べると、静かに目を閉じた。そしてそれが劉馥(りゅうふく)の最期の言葉となった。


 -◇-


揚州刺史には新たに温恢(おんかい)が就任した。丞相主簿からの異例の抜擢で、曹操の意向を忠実に実行する人物として知られていた。

同じ頃、高幹の失政で混乱していた上党郡に安定を取り戻した手腕により、曹操から豫州刺史に抜擢された賈逵(かき)が、揚州と組んで荊州を経済的に干し上げる作戦を立案した。


その一つが、オレが幼少の頃に始まった、荊州と豫州で異なる兵糧米の価格差を利用した米の“密売”を厳しく取り締まろうというものである。

長年平和を維持し豊作続きで米余りの荊州と、戦乱続きで荒れ地が広がり兵糧不足の豫州の間では当然異なるはずの米価を、曹操は大司農に命じて一律とし、“密売”の取引仲間だった田豫を他州に転任させた。

兵糧の価格が暴落した豫州の米問屋はほとんどが破産、州内の商業は大混乱に陥った。


一方、オレは曹魏への兵糧米の“密売”を諦め、販路を別に拡大した。国を興したばかりの劉備や、漢水をさかのぼった漢中に割拠する五斗米道の張魯など、兵糧を欲しがる先は曹魏の他にも存在する。張魯は信徒が上納した五斗の米に加え、荊州から安値で購入した兵糧米を涼州の馬超に高値で転売して大儲けしているらしい(涼州はもともと乾燥・寒冷で収穫高が少ない上に、戦の準備で兵糧を絶賛募集中)。宗教をビジネスにという風潮はこれが起源なのかもしれないな。


それでも荊州では余剰米が出るため、オレはより付加価値の高い茶や蚕桑などへの転作を奨励し、荊州の農民が豊かになる方法を教えてやった。これも、史実と異なり荊州が魏・呉・蜀三つ巴の争奪戦の戦場とならず、関羽のおっさん統治のもと平和と安定が続いているからこそなし得た実績だ。


それに我が荊州軍閥の最近の儲けは、贋金作りや桐柏(とうはく)ダム~淮河を利用した孫紹との交易がメインだから、今さら賈逵(かき)に兵糧米の“密売”を禁止されても、実のところ痛くも痒くもない。


豫州の商業が振るわず収入が激減した賈逵(かき)は、そうと知って揚州刺史の温恢(おんかい)と協同して淮河の航行税を2倍に増額した。確かにこれは、オレの領地である唐県にとっては非常に困る事態だ。が、交易相手の建業の孫紹とは、少々遠回りになるが長江経由でも行き来が可能なため、そちらにルートを変えたおかげで利益が10%減る程度の浅い傷で済んだ。


淮河航行税の増税で最も打撃を被ったのは、淮河で水運業を営む者たちであった。食うに困って河賊になった彼らの跋扈で、豫州全域と揚州刺史・温恢(おんかい)の治所の寿春では治安が大そう物騒になっているらしい。温恢(おんかい)劉馥(りゅうふく)の遺言に従わなかったことを後悔しているそうだ。


そうだ、淮河をさかのぼって河賊が荊州の唐県を襲って来ないように、豫州との国境を封鎖しないとな。そんなわけで、オレはやむを得ず(笑)豫州向けの物資の輸出を完全にストップさせた。結果、先に経済が干上がったのは豫州の方であった。賈逵(かき)は大した成果を残せず一年も経たずに左遷された。


>早急に荀彧に知らせてやらなければ。


関興は馬超の決起を荀彧に知らせました。荀彧は、許都に隠居中の馬騰に「早まった行動を起こさないように」釘を刺しました。そのせいで、年内の予定だった馬超の決起は、先送りになりました。


>賈逵(かき)は大した成果を残せず一年も経たずに左遷された。


前世、三国志フリークだった秦朗(はたあきら)は、曹魏を乗っ取った司馬氏の腰巾着である賈充が大嫌いです。よって、賈充の父親である賈逵(かき)を潰せばその子の出世も遅れる……と踏んだようです。



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