116.ポーカーフェイス
●建安十四年(209)七月 許都・荀彧の屋敷にて ◇関興
夏のある日の放課後、オレは曹操のブレーンである荀彧の呼び出しを受けた。宿題が残っているが仕方がない。世話になったことのある、長い物には巻かれるのがオレの信条だ。
「やあ久しぶりだね、関興君。君がまた許都に滞在していると聞いて会いたくなったんだ。しかし大胆不敵だねぇ、君の活躍を快く思っていない腐れ儒者が大勢いるというのに」
「はあ。もうすでに脅されました。兄嫁の舞ちゃんを誘拐されて、「彼女の命が惜しければ一人で来い」みたいな」
飲みかけたお茶をブフッと吹き出し咽る荀彧。
「大丈夫だったのかい?まあ、こうして君がここに来ているんだから、解決済みなんだろうけど。困った時は、迷わず僕に相談してくれていいんだよ。曹魏の臣下がらみの案件なら、大概のことは僕の力でなんとかできるんだし」
「ありがとうございます。ただ、事件の黒幕を探し出すことになれば、そっちの方が面倒くさいことに巻き込まれるんじゃないかと思ったので」
オレの予想がおおむね当たっていることに苦笑いした荀彧は、
「今回はどんな目的で許都に潜入してるんだい?」
潜入って。まるでオレが敵の組織に所属するスパイみたいじゃないか!オレはただ、許都に疎開していた舞ちゃんと妹の蘭玉を迎えに来ただけだってのに。
「……曹麗様に頼まれまして。表向きは、天子様に輿入れする曹麗様の護衛兼ご学友としてですが、その実、帝立九品中正学園に入学した曹沖様の身辺警護をするように、と。なんでもクラスメート達は、世継ぎ争いのライバルである曹丕様の派閥の者ばかりとか。そんなわけで、気心知れたオレに白羽の矢が立てられたそうで」
「ふ~ん。それはご苦労さま。
僕の息子も学園に通っているんだけどさ、反抗期なのか親の言うことを全然聞かなくてね。その点、武芸の腕も知恵もある君が曹沖様のそばに付いてくれるのなら安心だ」
そんな御礼を言うために、荀彧がわざわざオレを屋敷に呼んだわけじゃないだろう。
「それで、オレに御用の向きとは?」
と問うと荀彧は苦々しげに、
「今日行われた朝議で、董昭の奴が曹丞相の位階を魏公に進めようと建議しやがった!前漢末期に国を乗っ取った王莽の事件を省み、後漢では公や王には劉姓の皇族しか就任できないという決まりを作ったことを、董昭も知らぬはずがあるまい。
それなのに、曹丞相が魏公に就任すれば、臣下による帝位簒奪の一歩となり得る危険な予兆であることは自明、その原則に反するものだ。
漢の侍中として天子様にお仕えする僕は、とうてい承服できない」
ああ、ついに始まったか!
史実によれば、曹操の魏公昇任をめぐる建議に対して、漢の天子様に忠誠を誓う荀彧は、「曹丞相が起ち上がったのは、朝廷を助け国を安定させ天子様に忠義を尽くすためであって、爵位を求めるためにしたことではない。曹丞相はそんな小っぽけな俗物ではないのだ」と反対した。天下の覇権を握る大義名分として漢の天子を利用していたにすぎない曹操は、このことを聞いて荀彧の排除を決断したという。
やがて曹操は、慰問と称して荀彧にお菓子を送った。届けられた箱を開けると中は空っぽだった。空の箱=用済みという曹操の悪意を察した荀彧は毒を飲んで自殺した、と『魏氏春秋』に記されている。真相は不明だが、後年、程昱や荀攸らの功臣が曹操の廟に陪祀されたのに対し、荀彧は祀られず、やはり曹操が死を賜ったと考えるのが妥当だろう。
この世界でも、腰巾着の董昭を使ってまずは観測気球を打上げ、漢の朝廷にいる曹操の意向に沿わぬ者を炙り出し、彼らに抵抗勢力のレッテルを貼って一人ずつ排除して行くつもりだろう。いよいよ曹操の帝位簒奪の野望が牙を剥き始めたのだ。
「ですが、天子様お一人の力ではもはや天下を治めるのが不可能なことは明らかだと思いますが」
身も蓋もないオレの言葉に、はあっと溜め息をついた荀彧は、
「君も漢の世を永続させたいと願う忠義を持ち合わせていないのかい?」
「荀彧様らしくもない。『荀子』を引用して、君子は正道に従うべきで主君への忠義は後回しにせよと説いたのは荀彧様ではありませんか!
オレは民の平和と安寧な暮らしの実現こそが正道だと確信しています。漢の天子様への不忠を咎められたって、なんら恥じるところはありません!
漢の世という形式論にこだわらず、民が平和で安寧に暮らして行ける世の中を実現してくれる方なら、献帝でも(曹操のような)他の実力者でも敬うべきだというのがオレの考えです」
「ならば君は、曹丞相が天下の覇権を握り、漢王朝に替わって皇帝に即位することを容認する、と?」
オレは首を傾げて、
「さあ、それはどうでしょう?オレは阿諛追従の董昭とは違いますからね。けれども曹丞相が戦争に頼らず天下を統一するなら、オレは素直に従うつもりです。
とりあえず、現時点で曹丞相の威令に服していないのは、益州の劉璋・荊南の劉備・揚南の孫権と五斗米道の張魯くらいでしょう。荊州の関羽(とオレ)・江東の孫紹・涼州の馬超は、曹丞相が擁する漢の天子様から形式的に刺史や太守の称号を拝命しておりますので」
「形式的には、ね。本心ではどうか分からないという意味だろ?」
「ノーコメントでお願いします」
オレは言葉を濁した。
「曹丞相が治める八州を筆頭に、諸侯が領有する残りの荊・揚・益・涼の四州を安堵して、緩い連合を構築する政治体制がオレの理想です。
董卓の乱以来、都から遠絶にある地の利を恃んで関係を絶っている益州を、戦争ではなく“仁徳”によって帰順させることができれば、そのような政治体制は簡単に実現できましょう」
荀彧は呆れて、
「君は簡単に言うけどね。曹丞相には非戦論を斥け、孫権を力ずくで屈服させようとして失敗した前歴がある。まずは君の理想論を許容するかどうか……」
「そんなことオレは知りませんよ!曹丞相が先の赤壁の戦いのように、あくまでも征服戦争を起こして敵を殲滅するやり方を望み、いずれ荊州に攻め込むつもりなら、オレも関羽のおっさんも受けて立つ。それこそ、ザコの劉備や孫権と組んででも抵抗するつもりです」
「ふーん。曹丞相が天下統一のために戦争という手段を取ることを認めないと言うのであれば、ダブルスタンダードを嫌う君自身や関羽殿も、領土拡張を狙ってこれ以上の軍事作戦を行う意志はないんだよね?つまり現状維持を望む、と?
ずいぶん欲がないんだね。君の才能を以てすれば天下を狙えるかもしれないのに。
関興君、ここは建前論を捨てて本音で語り合おう。僕はね、歴史に名を残すために天下統一の野望を抱く曹丞相が、このまま現状を追認するとは思えないんだ。その時君はどう動くつもりなんだい?
君の師匠である諸葛孔明が唱えた「天下三分の計」によれば、たしか荊州と益州を領有して我が曹魏に対抗するという作戦だったと思うが」
さすが荀彧。敵勢力の機密を隅々まで調べ上げている。
が、ちょっと待て。女神孔明がオレの師匠という見解には断固異を唱えるぞ!オレはあいつに下僕扱いされていいかげん迷惑してるんだ!
「オレは亡き劉表に荊州の領土保全と領民の安全を託されただけで、荊州の統治だけで手一杯です。諸葛孔明とはすでに袂を分かちました。それゆえ、こうして曹丞相に臣下の礼をとっている……とは信じていただけませんか、やっぱり?」
「フフン。君が今は面従腹背してるけど、時期が来れば自立を目論んでいることくらい百も承知だよ」
だろうな。だが、オレが単に爵位や富貴を求めて自立を目論んでいるわけじゃないことは、この機会に主張しておかなければならない。
「オレには守りたいものがあるんです。以前お話ししたように、【先読みの夢】で見た、味方の裏切りに遭い関羽のおっさんと関平君に訪れるかもしれない死の運命を回避すること。荊州の領民の平和と安寧な暮らし。それと……荀彧様、あなたの命」
「僕の命?君の心配は素直にうれしいけどね。君よりはるかに地位が高くボディガードも雇っている僕に、どんな命の危険が迫っていると言うんだい?」
「……本当は気づいているんでしょ?遠くない将来、曹丞相から疎んじられる日が来ることを。
あなたは、Bチームの他メンバーに矛先が向かないよう、自らを犠牲にして曹丞相の猜疑を一身に引き受けるおつもりだ!」
「……」
ポーカーフェイスを崩さず、笑みを浮かべたままの荀彧。
「オレも本音で話します!
曹丞相がもはや儒学の“仁徳”で天下を治める気がないのは明らかです。そんな人に今さら“仁徳”を説いたって、善に教化することも、より良い方向に政治を誘導することも叶うはずがない。
荀彧様はこれからも、自らの信念に基づいて曹丞相の非を諌め続けるのでしょう。このままでは主君の怒りを買って、伍子胥の運命を辿るのは目に見えている。
オレはそんな結末は嫌なんです!
あなたは最期まで儒者の道を貫きたいと言った。「自らの志を曲げ、言葉を諂うならば、儒者の道は尽きてしまう」(『荀子』子道篇)と。
ならばオレは、「義を見てせざるは勇無きなり」(『論語』為政篇)と言う。名誉を重んじたい荀彧様が仮に自ら命を断とうとしたって、オレは全力でそれを止めてみせる」




