110.苦い酒
そして運命の建安十三年(208)十一月。
史実どおり、赤壁で激突した周瑜提督率いる孫呉の水軍三万が曹魏の大軍を破ったとの伝令が許都に届けられた。余勢を駆って孫呉軍は荊州の江陵に侵攻を開始、城に籠る曹仁は苦戦を強いられているそうだ。
フハハッ、見たか周瑜よ!あれほど嫌悪した私の予言どおりに事が進んだ感想は?!
(たった3万の兵で、どうやって曹魏軍の大軍を撃退しろと言うのだ?!)
(おまえは安全な帷幕の中でただ思いつきを述べるだけのくせに!)
ああ、そうとも。私は戦闘には向かぬ。だが正史『三国志』の知識を駆使し、帷幕の中で下した予言が100%的中する我が異能【風気術】にひれ伏すがいい!
おお、そうだ。私を排除し諸葛孔明に媚びる憎き周瑜よ、御礼におまえの死にざまを占ってやろう!
――江陵攻略中、流れ矢にあたったおまえは一命を取りとめるが、その時負ったケガのせいで、たびたび血を吐くようになるだろう。三度目の吐血がおまえの寿命の尽きる時。二年と経たず死が訪れよう。
許都にいる私は南の空に向かって高笑いした。
「先生、ご機嫌のようですな」
との声に振り返ると、私を食客として取り立ててくれた屋敷の主・侍中の伏完がにこやかに微笑んでいた。
「これは伏完様。お見苦しいところを見せてしまいました」
「いやいや、気持ちはよく分かりますぞ。私も正直驚いております。先生の予言どおり、まさか曹丞相の大軍が敗れるとは……やはり、朱雀は曹丞相にとっての瑞兆ではなく、後漢の天子様にとっての瑞兆であると解釈した先生の見立てが正しかったのですな」
現金なものだ。予言が当たったとたん、呼び名が“おまえ”から“先生”に変わるとは。まあ、その程度で目くじらを立てる必要もあるまい。
「御意」
「先生ほどの高名な【風気術】師に、このような狭い部屋を宛てがった失礼をお許しください。先生のために、別宅に新たな居を構えております。また、先生の許都来訪を祝って宴席を用意しました。ぜひ、足をお運びいただければと……」
「左様ですか。かたじけない」
-◇-
食卓の上に見たこともないような山海の珍味が所狭しと並んでいる。
「ささっ、呉範大先生。まずは一献いかがですかな?」
そう言って、伏完自ら酒の酌をしてくれる。
「いただきます……旨っ!」
そう、譬えれば最高級ワインを口にしたような芳醇な香りと鮮烈な味。貴族とはこのような贅沢が許されるのか?!
「近ごろ都に現れた朱雀が、曹操ではなく後漢の天子様にとっての瑞兆という先生のご指摘には感銘を受けましての。どうか稀代の【風気術】師である先生のお知恵を拝借したい。
後漢の朝廷に仕える侍中であるわしは常々、天子様を蔑ろにする曹操めを秘かに疎ましく思っておったのじゃ。
例えばの話、この機に乗じて天子様の号令の下、反曹操を貫く軍閥を結集し、朝廷に巣食う曹丞相を四方から攻め立てるというのは……」
ふふっ、やはり来たか。
私の考えた最強の天下統一計画と同じだ。
赤壁で曹操を破った孫呉勢力は勢いに乗じて荊州を占領。続いて長江を遡って益州を掌中に収める。涼州に割拠する馬超・韓遂とは同盟を結び、また荊州の一部を劉備に貸し与えて、揚・荊・涼の三方面から曹魏に攻め込み、許都を陥落させて後漢の皇帝・献帝を擁立する――
残念ながら、そこに伏完の名前が入る見込みはない。
建安十九年(214)、侍中の伏完と伏皇后の間で反曹操クーデターの密議を交わす文が、宦官の穆順の不注意で曹操の手に渡り陰謀が発覚、彼らは一族もろとも処刑されてしまうことを、私は知っているからだ。
そんな不吉な輩を仲間に引き入れ、うっかり連座に巻き込まれるのは御免被りたい。
しかし財力に富み、天子様の外戚でもある伏完をパトロンとして利用しない手はない。
さて、どうしたものか?私はしばし熟考にふけった。
曹操の天下統一が赤壁の敗戦で頓挫した今年、建安十三年(208)から伏完の陰謀が発覚する建安十九年(214)まで、六年もの月日が経過している。その間、彼らは何故ぐずぐずと反旗を翻すのをためらっていたのだろうか?
ふむ。やはり問題はそこだ。
伏完のように、反曹操クーデターの実行を建安十九年(214)まで待つのでは遅すぎる。
赤壁の戦いで曹魏軍が壊滅した建安十三年(208)の今こそ、揚・荊・涼の三方面から曹魏に攻め込めば成功の可能性は高いのではないか?
いや待て。
後漢の朝廷に何のツテも持たぬ今、多少名は知られているとはいえ、ただの【風気術】師にすぎぬ私が声高にそれを唱えてもさすがに通用するまい。やはり、侍中の伏完を唆して彼に発議させるのがベターだ。
私は居住まいを正し、伏完に問うてみた。
「さすが伏完様、時世に適った善きお考えかと存じます。
一つ確認させていただきたい。先ほど“反曹操を貫く軍閥を結集する”と言われましたが、具体的には誰を考えておられるのでしょうか?」
「わしが頼りとする筆頭は、先生が臣従する孫権。それに涼州の馬超・韓遂の勢力。あとは長年曹操と反目し合い、かつて董承とともに陛下から密勅を授けられ曹操暗殺を企てた経験のある劉備の三軍閥じゃのう」
……やはりか。伏完がぐずぐずと六年も反曹操クーデターを先延ばしにした理由は、おそらく劉備の勢力が成長するのを待っていたからだ。口では「頼りとする筆頭は孫権」と言いながら、内心ではエセ君子の劉備の働きに最も期待しているのだろう。
馬鹿めっ!劉備は我が身かわいさに平気で味方を裏切る節操なしだぞ。董承の陰謀発覚後も一人のうのうと生き残っているのは、曹操に陰謀を密告した裏切者が実は劉備なのではないかと陰口が叩かれているのを知らないのか?!
今回も劉備は、伏完の企てた反曹操クーデターの陰謀に名を連ねるものの、曹操との戦いには同志を矢面に立たせ、その陰で己の領土を増やす腹づもりに違いない。
実際、史実では建安十六年(211)、三方面の一角を占める涼州に曹操が攻め込み、馬超は逃亡、韓遂は戦死。
また孫呉でも建安十五年(210)に周瑜提督が死ぬと、彼の唱えた天下二分の計――揚・荊・益の広大な三州に覇を唱え、曹魏に対抗する作戦――が頓挫した。周瑜に替わって孫呉を導いた魯粛は、連年淮南から許都を窺う動きを見せたものの、ことごとく失敗。
そして案の定、その間に漁夫の利を得たのは劉備。曹魏の鉾先が国境を接している涼州・揚州に向けられている間に、諸葛孔明が構想した天下三分の計の目論見どおり、まんまと荊・益の二州を手に入れた。
劉備こそが梟雄、奴を信じた者が馬鹿を見る破目に陥るのだ。
誰がそんな奴を信用できようか!?
「恐れながら、小生は劉備に大きな期待を寄せることには反対でござる。それに、孫権将軍の活躍で曹操を撃退したものの、荊州南部に拠点を移した劉備に余力は残っておりますまい」
私の諫めに伏完はニヤリと含み笑いをし、
「そうでもないさ。先日、劉備の軍師と称する諸葛孔明とやらが天子様に拝謁してのう、曹操を討ち破る秘策をわしに授けてくれた」
「!?」
なんだと?転生者の諸葛孔明がすでに打倒曹操に向けて動いている?!
「そ、それはいかなる作戦で……」
「ははは。いかに先生とはいえ、軍事機密を軽々と口にするわけにはいきませんな。
わしが先生に期待しておるのは、曹操を討ち破る秘策が成功するかどうか、結果を【風気術】で占っていただくことであり、作戦の内容を精査していただくことではござらぬゆえ」
くっ。やられた。
これでは仮に反曹操クーデターが成功しても、その功績は私ではなく諸葛孔明に行ってしまう。かと言って作戦失敗と予言すれば、先ほど「時世に適った善き考え」と口にしてしまった以上、孔明に嫉妬して占いをねじ曲げたと見なされかねない。
今の私にできることは、反曹操クーデターの実行が史実のとおり建安十九年(214)では遅すぎる、もっと早く決起すべきだと提案するしかあるまい。
「……分かりました。孫子の兵法に「兵は拙速を貴ぶ」とありまする。打倒曹操に向けた秘策は速やかに行うのが吉かと存じます」
私は正直に告げた。伏完は高笑いをし、
「先生ならそう言っていただけると信じておりましたぞ。ささ、酒をもう一献」
私は伏完が酌をしてくれた酒杯を一気に流し込んだ。苦い味がした。




