[幕間]呉範の回想(その2)
先日コロナワクチン(3回目)の注射を受けました。その後2日間高熱と頭痛の副反応に悩まされ、更新が遅れてしまいました。すみません。
もう一つ懸念がある。
荊州を降し江東に襲来する曹操との対決を押した周瑜と魯粛の二人が、どういうわけか私と微妙に距離を置いている。いまだに二人と挨拶を交わしたことすらないのだ。周瑜提督は赤壁の戦いの直前まで鄱陽湖で水軍の調練を行なっていたそうだから、建業にいる孫権の側近くに控えていない理由は分かるが……。
そして、いよいよ建安十三年(208)九月。曹操が荊州を降し、一敗地にまみれた劉備一行が孫呉国境に近い江夏に逃げ込んで来た。
曹操の次の目標は孫呉。
史実によれば、周瑜提督は変節極まりない劉備に不信を抱き、魯粛と諸葛孔明が推進する孫劉同盟の締結を嫌ったのであるが、私も同感である。
なにしろ諸葛孔明は、自らのニックネームを冠した旅芸人の臥龍座を使って、同盟相手の孫権将軍を貶めたのだ。それも後世(東晋時代)の『捜神記』に記された于吉の伝説を題材にして。
タイムワープでもしない限り、後世に作られた話を過去に遡って創作することなど不可能だ。とすれば、芝居『周武王冥土旅之一里塚』の脚本を書いたであろう諸葛孔明の正体は、私と同じ転生者に違いない。
おそらく、諸葛孔明(しかもこのVR世界では女性!)の正体は劉備推しのニワカ“歴女”であり、劉備を担いで天下統一を狙っている。曹操に追われ命からがら逃げて来た敗残の輩のために、どうして我ら孫呉が矢面に立って助けてやらねばならぬ?
「幾多の群雄を裏切り、自分だけ生き残りを図って来た劉備将軍。荊州で劉表の死に乗じて乗っ取りを図ったが、上手く行かぬので逃げて来たことくらい、私が見抜けぬと思うてか?!次は孫呉で乗っ取りを謀んでおるのだろう。そのような危険人物を、やすやすと味方に招くことができようか?」
私の痛烈な批判に対し、この世界ではなぜか関羽配下の甘寧が、
「劉備がクソ野郎なのはあんたの言うとおりだ。だが、今はそんな好き嫌いを言ってる場合じゃない。俺たちが結集して曹操に当たらないと各個撃破されて、あんたの大事な孫権が滅ぼされてしまうぞ」
確かに正論だ。しかし、曹魏軍が赤壁の戦いで壊滅した史実を知る私はフフンと鼻で笑い、
「心配無用。我ら孫呉が誇る水軍の名将・周瑜提督にかかれば、おまえら劉備軍がいなくとも、兵3万で曹魏軍など撃退するのは容易いのだよ!」
と突き放した。
そう。私こそ、忠誠心に富む真の愛国者なのだという自負があった。それなのに!
私への最大の批判者は他ならぬ周瑜提督だった。顔を合わせるなり、私を“エセ占い師”・“君側の奸”と罵ったあげく、
「俺は曹操を迎え撃つにあたり、孫権将軍に5万の兵を要求した。が、返って来た答えは3万だ。この2万の差はいったい何なのか?
呉範よ。合肥要塞の大敗が尾を引き、孫呉の建国以来最大の国難に直面しているにもかかわらず、孫権将軍は3万しか兵を集められないのではないのか?
そして、こんな無謀な戦いを仕掛けた張本人が、責任を取るでもなくのうのうと孫権将軍の側に侍り、性懲りもなく再び戦いに口出しをして来る。
俺にはそれがどうしても我慢ならんのだ!」
と糾弾した。
だが私にも言い分がある。芝居『周武王冥土旅之一里塚』のせいで孫権が後を継いだ正統性を疑われた時、ご意見番の張昭も周瑜も魯粛も、誰一人孫権を擁護してやろうとは考えなかったではないか!
私は世間の目を逸らせるほどの華々しい戦果を求めて、外征に賭けるしかなかったのだ。
が、今さら弁明しても詮ない。
曹操軍二十万との対決を前に、私を取るか周瑜提督を取るか孫権将軍に迫った所で、彼の答えは決まっている。謀略も武力も戦いの役に立たぬ私は切り捨てられるのだ。
-◇-
●建安十三年(208)九月 許都 ◇呉範
身の危険を感じ孫呉を離れた私は許都を目指し、稀代の【風気術】師として後漢の朝廷の門を叩いた。
そうだ。孫策将軍亡き後、我が大望を理解できぬ田舎侍どもに関わっていたのが誤りだった。前世で培った三国志の知識を生かし天下統一を志すならば、最初から最高権力者たる天子様にお仕えするのがセオリーだったのだ!
そうして私を宮中に迎え入れたのは、侍中の伏完だった。
伏完。
侍中 兼 輔国将軍・儀同三司。後漢歴代の司徒・太傅を務めた琅邪の名士一族の裔であり、現皇帝・献帝の祖父にあたる桓帝の娘婿。後漢朝廷の中でも最高位の貴族と言える。
かつて車騎将軍・董承が起こした反曹操クーデター未遂事件に連座して処刑された董后亡き後、大将軍となった曹操の意向で伏完の娘が献帝の皇后に昇格し、外戚として献帝の信頼も厚いとか。
その恩に感じ、表向きは曹操と親密に接しているようだが、私は伏完の胸の内を知っている。
――曹操は貴族とはいえ、父・曹嵩が金に物を言わせて大尉の位階を買った成り上がり。おまけに祖父にあたる曹騰は卑しい宦官である。乱世を奇貨として、武力と謀略でのし上がった姦雄にすぎない。そんな輩の下風にいつまでも立たされるなど、屈辱以外の何物でもない。
そんな長年の鬱積の結果、伏完は秘かに伏皇后と組んで曹操排斥をたくらみ、建安十九年(214)にその陰謀が明るみに出るや一族誅滅の悲劇に遭うのである。
(ならば、ひとつ試してみるか……)
と思料していると、さっそく伏完が私を揶揄した。
「曹丞相の次のターゲットは孫呉とか。【風気術】師の呉範殿が孫呉を見捨てて許都にお越しとは、さても逃げ足の速いことよ!」
ふむ。朝廷ではやはり戦いは曹操有利と見ておるか。だが私と周瑜提督との不仲の件はまだ伝わっておらぬようだ。ならば私も孫権将軍の名前を存分に利用させてもらおう。
「恐れながら、小生は孫呉から逃げ出したのではござらぬ。孫呉の将来を見据え、天子様の勅許をいただく布石として、孫権将軍より朝廷に遣わされたのでござる」
「ほう。曹丞相のお膝元のここ許都で、丞相の敵が天子様の勅許をねだるとは大胆よのう」
「されば、的中率100%を誇る小生の【風気術】のお告げによれば、こたびの戦、孫呉が勝つと顕れましたので」
「ふーむ……残念ながら今回ばかりは当たりそうもないのう。曹丞相は兵八十万と号する大軍で攻め込むのじゃからな。
そうじゃ!近ごろ都では、吉鳥の朱雀が空を舞う姿がたびたび目撃されておる。曹丞相もこの瑞兆を嘉され、新たに支配地とした鄴に銅雀台を築くとか。【風気術】師の呉範よ、おまえはこれをどう見る?」
なるほど。興味なさげなフリをして、曹操が負けると出た占いは気になると言う所か。
「はて。曹操が瑞兆を嘉した、と?
小生が見るところ、朱雀は朱き鳥。朱は陰陽五行説に基づく火徳を象徴とする漢の色。つまり、朱雀は後漢にとっての瑞兆であり、漢を簒奪し次の王朝樹立を狙う土徳(黄)の曹操にとっての瑞兆ではございますまい」
そうして伏完の反応を上目遣いに窺った。伏完は真意を読み切れず訝しみ、
「どういうことじゃ?」
「小生が孫呉におりました際の占いでは、曹操の易卦は“水山蹇”であり、これは進めば水流に巻き込まれ、退いては険しい山に立ち塞がれ進退に窮することを暗示しまする。「蹇は西南に利あり」とあるから、都から見て西南にあたる荊州の征伐には成功するものの、東にあたる孫呉の征伐では不慣れな水戦に敗れ、進退に窮するは必定と見ました」
「……おまえは本当に曹丞相が負けると申すのか?」
「御意。これぞ、後漢にとっての瑞兆とは申せませぬか?」
伏完の鳴らした、ゴクリと生唾を飲み込む音が私の耳に届いた。
「に、俄かには信じられぬ!お…おまえの【風気術】が正しいと証明できる根拠を示せぃ!」
クククッ。それらしい理屈などいくらでも付けられる。私は伏完を籠絡できると確信した。
「されば、天文を観察しておりますと今年七月、熒惑(=火星)が逆行を始め心宿(=さそり座のアンタレス)を犯しました。古来、熒惑が進行を乱し心宿で留まるのは天が不吉を告げる兆しであり、諸侯の身に異変が起こるとされています。七月は楚(=荊州)の分野、事実荊州牧の劉表が死にました」
「確かに……」
「来たる十月には、順行に戻った熒惑が再び心宿を犯します。十月は宋(=豫州)の分野、つまり豫州で都の留守を預かる曹沖が死ぬことになるでしょう」
建安十三年(208)における“曹沖の死”は、正史『三国志』に載る史実である。多少時期は遅れたとしても、結果が出れば自ずと私の【風気術】は的中したと評価されよう。
長い沈黙からようやく覚めた伏完は私の手を取り、
「呉範よ、つ…続きは結果が出てから話すとしよう。孫権からの使いと申しておったが、しばらく許都に駐まっても構わぬのじゃろう?」
「天子様にお仕えする伏完様のご意向とあれば、喜んで」
私はニヤリとほくそ笑んだ。




