106.救出
●建安十四年(209)六月八日未明 誘拐犯のアジトにて ◇劉舞
その時グワッと大きな音が響くと、小屋の上から屋根をぶっ壊して侵入した小柄な男がボスを襲った。手練れの殺し屋であるボスは殺気を感じたのか、素早く私から離れ、腰に差した剣を抜いて彼に対峙した。
「チッ、外したか」
「おのれっ、せっかくのお楽しみを邪魔しやがって!なに奴?」
「関興。いや、許都では秦朗と名乗った方が通じるかもな」
「!」
「興ちゃん!」
私は叫んだ。興ちゃんは一瞬笑顔を見せたがすぐに真顔に戻り、
「舞ちゃん、危ない目に遭わせてごめんね。オレが来たからにはもう大丈夫……と言いたいところだけど、こいつ強そう」
「駄目よ!この男、曹魏軍の暗殺処理班で興ちゃんの命を狙ってるって言ってた。仲間のチンピラ達も外に7,8人いる!興ちゃんだけじゃ太刀打ちできない。ここまで助けに来てくれて嬉しかったけど、ここは私を置いて早く逃げて!」
だけど興ちゃんは目つきを鋭く怒らせて、
「そういう事情を聞いちゃったら、ますます逃げられないな。
おい、悪党!わざわざこっちから出向いてやったんだ。覚悟しろ!」
「くははっ!おまえ一人で何ができる?死角から俺を襲う不意打ちが失敗に終わった今、おまえに勝機はない。こっちは味方が大勢いるんだ。おい、おまえら出て来いっ!」
とボスは叫ぶ。しかしチンピラ共は誰一人現れず、血塗られた剣を片手に小屋の扉からのっそりと姿を見せたのは、あのいけ好かないサイテー従者の鄧艾だった。
「若、ザコ共は片付けときましたよ。後の美味しいところはお任せしますね」
「待て。ここは従者らしく「若、俺も加勢します!」と威勢よくお仕えする場面じゃないのか?」
「そうやってすぐ手抜きしたがるのは、若の悪いクセですよ。たまには本気を見せたらどうですか?俺は舞様と華を保護します」
と言いながら、鄧艾は私と華を縛っていた縄と猿轡を解き、私には自分が着ていた上着をそっと掛けてくれた。
「へっ、おまえに言われずとも分かってるさ」
余裕ぶった興ちゃんと鄧艾の会話に、悪役のボスは苛立ちを隠せない。
「くそっ!」
ボスが間合いを詰めて興ちゃんを上段から斬りつける。興ちゃんは最初の一撃を読んでいたかのようにひらりと躱し、がら空きになった敵の胴をめがけて反撃の一刀を打ち込む。だがボスは、素早く防御の姿勢を取って興ちゃんの剣を撥ね退けた。
「フン。思ったよりも剣の腕は確かなようだが、チビの一撃は軽いんだよ。そんなんじゃ俺は倒せねえ。せいぜい浅い傷を負わせるくらいが関の山だ。残念だったな」
力対力の鍔迫り合いに持ち込みたいボスは再び一歩踏み込み、そこから怒涛の勢いで興ちゃんに剣を振るう。だが興ちゃんは剣で応じることなく、ただ淡々と躱し続けるのみ。
「ちょっと鄧艾、何ボーッと見てるの?興ちゃんの援護に回りなさいよ!」
「大丈夫です。あれしきの敵、若がやられるはずがない」
鄧艾の言葉に納得がいかない私は、何度も「危ない!」と叫びそうになったが、興ちゃんの集中力が削がれることを恐れ、ぐっと呑み込んだ。
「そうかい、闘いの最中にわざわざ欠点を教えてくれるなんて親切だな。確かにあんたの一撃は重い。まともに喰らったらオレの力じゃ吹っ飛ばされる」
「逃げてばかりの腰抜けめっ!それじゃ貴様は俺に勝てないぞ」
「腰抜け結構。あんたの言うとおり、オレは力勝負には自信がないからね。あんたの体力が尽きるのを待つだけさ」
興ちゃんはボスの挑発を軽くいなし、余裕の笑みを浮かべる。
「糞がっ!」
興ちゃんの狙いどおり、一方的に攻め続けた結果、ボスの息が上がりやがて足が止まった。
「舞ちゃんと華さんも救出したし、あんたを置いてこの場から立ち去ってもいいけど、許都にいる限りあんた達殺し屋に再び襲われるのは面倒だし、善良な民のためにもならないもんな。やっぱりここで始末しよう」
「なっ、舐めんじゃねぇー!」
ボスは残る力をふり絞り、剣を振り上げて興ちゃんに渾身の一撃を叩きつける。ドン!という重々しい音とともに砂煙が上がり、大地が揺れた。
その刹那、興ちゃんは剣を手放し大地を蹴り上げ、朝日に白む空中に駆けあがったかと思うと、そのまま一回転してボスの頭上に踵落としを見舞った。
「ぐはっ!」
鮮やかな蹴り技が決まり、ボスはよろめきながら二、三歩後退し倒れ伏した。興ちゃんは落下して来た剣を掴み直すと、「成敗!」と叫んでそのままボスの身体に突き刺した。
「あーあ。いいんですか、若?黒幕は誰なのか、口を割らせないまま殺しちゃって」
と鄧艾が横たわるボスを足でツンツンと蹴って、本当に死んだかどうか確かめる。
「いいんだよ。オレ、拷問なんて苦手だし。どうせ裏世界の掟でこいつらが黒幕の依頼主をバラすはずがないし、官憲に突き出してもどっからか圧力がかかって、釈放されるのは目に見えてるし。だったら、殺し屋なんてここで始末する方が世のためだ」
そうして興ちゃんはクルッと振り返り、
「さ。舞ちゃん、帰ろう」
と優しく声を掛けた。
「ごめんなさい。私の短慮のせいで興ちゃんが……」
「ハハ、反省してるの?だからオレ、あの時「逃げようとか変なこと考えちゃ駄目だよ」って言ったじゃん!「怖い人が来ちゃうかも」って」
えっ?怖い人って、曹麗様のことじゃなかったの?
「やっぱり舞ちゃんも内心そう思ってるんだ?麗様って本当に圧がすごいんだよねー」
ここぞとばかりに興ちゃんはケラケラ笑って同調する。
「冗談はさておき、オレの方こそごめんね。オレさ、曹魏のお偉いさん達に目をつけられているから、舞ちゃんを迎えに行ったら許都に長居せず、すぐに荊州に帰ろうと思ってたのに……。結局、舞ちゃんを変な争いごとに巻き込んじゃって、思い出したくもない乱暴な目に遭わせちゃったし」
と逆に謝ってくれた。
「ううん、大丈夫。ちょっと汚れただけだし。それと鄧艾、助けてくれてありがとう」
鄧艾は慌ててあーうーと呻きながら、コクリと頷いた。
「それより興ちゃんに大事な話があるの!誘拐犯の黒幕の話」
「! 舞ちゃん黒幕に心当たりがあるの?」
「そういう訳じゃないけど……」
私は、明日興ちゃんが迎えに来て荊州に連れ戻されるのを避けるため、杜妃様に相談を持ち掛けて身を隠すことにしたこと、そしてその計画を無邪気に甄洛に打ち明けてしまったことを説明した。
「なるほど。事情は分かったけど、たぶん舞ちゃんの考えすぎだと思うよ。
誘拐犯からの脅迫状が届く前に、どうしてオレたちが敵のアジトが分かったかって簡単に説明するとね、昨夜、オレたちが泊まる宿舎に差出人不明の怪文書が届いたんだ。舞ちゃんが寮を抜け出して杜妃様の屋敷に身を隠そうとしているって。
たぶん、甄洛副会長がこの怪文書の差出人。舞ちゃんの身を心配して、わざわざオレに知らせてくれたんじゃないかな」
「そう、だったんだ……」
私は親友の甄洛が犯人グループの一員じゃなかったことを知って、ホッとした。それと同時に彼女を少しでも疑ったことを恥じた。
「実はオレたちもね、初めて許都を訪れた時に夜闇にまぎれて逃げ出そうとしたことがあるんだ。だから舞ちゃんも逃げ出したと知って、やっぱり皆考えることは一緒だな、と鄧艾と苦笑いしてたのさ。
そしたらどこぞのアホな妃が能天気に「迎えの馬車をやったのに、舞ちゃんがまだ来ないんだけど~秦朗、どこにいるか知らない?」と、舞ちゃんが居場所を秘密にしたがってる対象のオレに、間抜けな報せを寄越して来やがった。
ここで初めてオレたちは舞ちゃんが誘拐されたのかもしれないと心配し、行方を探すことにした。
幸い許都は厳重に警備されており、夜間に城門が閉じられ一切の通行が許可されない。だから、誘拐された舞ちゃんの居場所は許都の城内だと捜索範囲を絞ることができた」
「でも、許都って広いんじゃ……」
「まあそうだね。でも、杜妃のような高貴な方が仕立てる高級馬車が、貧乏貴族の屋敷の前に置かれていたら、誰だっておかしいと思うだろ。そんなわけで、敵のアジトはあっさり分かっちゃったってわけ」
興ちゃんってすごい、なんでもお見通しなんだ。私はもう一つ気になる点を訊いてみた。
「あのね、私、夜中に寮を抜け出したのって今回が初めてなの。甄洛が犯人グループの一員じゃなかったら、いったい誰がその日の夕方に立てた私の逃走計画を知って、今回の誘拐を謀んだのかしら?」
興ちゃんは少し困った顔をして、
「……誘拐犯のボスが舞ちゃんをお迎えする馬車の御者に扮していたんだろ。だったら、その御者があらかじめ杜妃の屋敷に潜り込んでいて、舞ちゃんが杜妃に二、三日匿ってくれるよう相談した時に盗み聞きしたとすれば、前もって誘拐の計画を立てられるよね」
あーなるほど。納得だわ。
「それより、ほら」
と興ちゃんが指さす方に振り返ると、甄洛が泣きながら駆け寄って来た。




