94.周瑜、赤壁に曹魏の軍勢を破る
十一月二十日の早朝。
東南の風が吹きすさぶ中、周瑜は腹心の呂蒙を呼んで何やら耳打ちし、一兵卒の姿に身をやつして程普隊の黄蓋と同じ楼船に乗るよう命じる。
いよいよ戦いの火ぶたが切って落とされた。
周瑜軍三万は、中央に周瑜の艦隊が、右翼に程普の艦隊が、左翼に魯粛の艦隊がそれぞれ一万の水軍兵を乗せて、魚鱗の陣形で烏林の曹魏軍に向かって進撃する。
右翼の程普隊の先鋒は、曹魏軍と秘かに示し合わせたとおり黄蓋。
対する曹魏軍は、連環の計で軍船と軍船を鎖で繋げ、横一列にまるで水上要塞のようにゆっくりと前進して来た。
左翼の旗艦に乗る程昱と曹丕は、寝返りの算段を打つ程普軍の先鋒・黄蓋の軍船がこちらに向かって来るのを、今か今かと待ちわびた。
――程普隊一万は右翼に陣取り、先鋒に黄蓋を立てまする。彼の軍船と分かりますように、竜の幟幡と赤い幔幕で飾ります。
黄蓋の「降伏」の号令とともに、右翼の程普隊は寝返り、中央に陣取る周瑜隊の右腹から攻撃をします。曹魏軍は周瑜隊の正面から全力で突撃して下さい。挟み撃ちに合った周瑜隊はひとたまりもありますまい。
「あっ、丕殿下!あれは」
程昱の指差す方向を眺め見ると、竜の幟幡と赤い幔幕で飾った楼船の上で、白髭の爺が手を振って合図を送り、「降伏」と叫んでいる。
「おお。まさしく黄蓋よ!」
「約定どおり、程普隊は寝返りましたな。これで我が曹魏軍の勝ちは見えました。後は全力でこのまま周瑜の軍船に突撃し、押し潰しましょ……」
と程昱が告げたとたん、敵の軍船の上から黄蓋が長江に突き落とされるのが見えた。
「な、なに?!」
気づけば、魚鱗の陣形で向かって来ていたはずの周瑜の艦隊は、いつの間にか後方に下がり、右翼の程普隊が突出して先行する陣形となっている。このまま敵の右翼が猛進すれば、司令官の曹丕が乗る楼船に直撃する。
「どうなっておるのだ、程昱よ?!」
曹丕は慌てて問い質すと、
「くっ、黄蓋の寝返りは偽りであったか!」
と歯噛みする程昱。
いや、程普隊が曹魏軍に寝返りを図ろうとしたのは決して偽りではない。程普も黄蓋も十分にその気であった。
だが、その謀りごとは周瑜に漏れていた。
黄蓋に降伏の合図を送らせて敵を油断させ、周瑜の腹心である呂蒙がぎりぎりのタイミングで黄蓋を長江に突き落とし、右翼先鋒の軍船を乗っ取る。そして呂蒙の指揮の下、曹魏軍の楼船に突撃させる。
「それっ、今だっ!勇ましき孫呉の兵よ、恐れるに足りぬぞ!
曹魏の軍船は怖じ気づくただの巨体にすぎぬ。敵は狼狽、なすことも知らぬ有様。逃げることも避けることもできぬまま、我が艨衝の襲撃にサンドバックにされるのをただひたすら待つのみだ。それっ、突っ込め。突っ込んで、暴れ散らせ!」
「うおおーっ!」
呂蒙の号令に発奮した孫呉の水軍兵は、命を惜しまず曹魏軍の楼船に次々に特攻した。
周瑜の艦隊はじりじりと下がり、右翼の指揮官・程普の乗る船の横腹にぴったりと寄せ、程普を狙って矢を放つ。
「おのれっ、周瑜!味方に矢を放つとは血迷ったか?!」
と程普が叫ぶも、周瑜は平然と答え、
「血迷ったのはきさまの方だ!孫権将軍から右提督という重き任務を授けられながら、秘かに敵に寝返りを打とうとしたことをこの周瑜が知らぬと思うてか?きさまのような売国奴は、死をもって償うほかあるまい!」
「うぬっ、今この情勢での降伏は、孫権将軍の御身を思えばこそ。きさまのような青二才めが国を誤つとは情けなや!」
と言い放った程普の眉間に、ヒュッと矢が突き刺さる。そのままどうっと倒れた程普は、物を言わぬ骸となった。
指揮官の程普が死んだ右翼の艦隊は、呂蒙が乗っ取った先鋒の軍船が敵に突撃を仕掛け、後ろからは周瑜の本隊に圧を掛けられる以上、程普の部曲(私兵)の水軍兵は周瑜の指揮に従わざるを得なかった。
周瑜は程普隊の楼船に膏油を注ぎ、生贄とすべく火を放った。兵卒は次々と長江に飛び込む。楼船は無人のまま、突き進み巨大な火焔を盛ってどっと曹魏の軍船へぶつかる。ぐわっと燃える焔が曹魏の軍船を包み、黒煙を上げて焦がしていく。一つの船が燃えると、連環の計で鎖で結ばれた隣の軍船に次々に引火し、折からの東南の風に乗ってたちまち烏林の岸の陣営にも焔が燃え広がった。
地獄の業火のように、長江も陸地も赤々と焦がす火焔と黒煙。
曹操に持久の策を取れと命じられていたものの、必勝の策と信じて孫呉に急戦を仕掛けた曹丕は、自分の犯した失態に呆然とたたずむ。
「丕殿下。逃げましょう」
程昱そして腹心の桓楷・華歆・董昭が促す。
「いやだっ!俺をここで死なせてくれ。おまえらの策に従ったばかりに我が軍は大敗し、軍船をすべて失ったんだぞ!今さらどの面下げて父上に会えばいいのだ?!」
曹丕は涙ながらに語る。
「生きておればなんとでもなります。このままむざむざと沖様や秦朗めに丞相の跡継ぎの座を奪われてもいいのですか?!」
それでも死ぬと言って聞かない曹丕を、程昱は眠らせ烏林から逃がした。
◇◆◇◆◇
まもなくロックダウンされてから一か月が経つ烏林の陣営からも、長江に並ぶ軍船を包む激しい炎と黒煙が空を真っ赤に照らす様子が見える。
「ちっ、周瑜めにしてやられたか?!」
とつぶやく曹操。あれほど忠告を受けていた秦朗の【先読みの夢】が当たってしまった。
「荀彧や賈詡の策に乗ればよかったか……」
しかし今さら悔いてももう遅い。東南の風に煽られて、じきに烏林の陣営にも火が廻って来よう。ここで看病を続けている張仲景や、同じく傷寒病の治療を受ける将兵とともに逃げなければ。
「丞相、ご無事でしたか?病は癒えたようでなによりでした」
との声に振り返ると荀攸がいた。曹操は近づくと、
「これはいったい何事だ?」
「……我が軍は負けたのです。周瑜の火攻めに遭い、軍船ことごとく燃え壊滅しました」
「丕にはあれほど持久の策を取れ、わしの病が癒えるまで戦うなと命じておったのに……」
「今さら言っても詮ないこと。再起を期しましょうぞ」
と言って、荀攸は曹操を馬に乗せてともに北方に駆ける。
「果たして再起できるかのう?」
自嘲気味に話す曹操に荀攸は、
「大丈夫なのではないですか?赤壁という局所戦では負けるが、“対孫呉戦”という大きな枠組みで見れば引き分けに持ち込む作戦が裏で進行中らしいですよ」
「どういう意味だ?」
「……今は戦場から無事に逃げおおせることを考えて下さい。華容の渡し場に史渙殿がお待ちです。そこから船で漢水を遡り襄陽に向かえば安全でしょう」
荀攸が語らないところを見ると、裏で音頭を取る人物はおそらく荀彧か秦朗か……と曹操は察した。
「感謝せねばならぬのう」
と曹操がつぶやいた言葉に、荀攸は聞こえないフリをした。




