理解不能な現実 Ⅰ
「…きれい…」
ふと見上げた空。凄まじく美しい光景に、トボトボと降りていた階段の踊場で思わず足を止めて見入ってしまう。
さっきまでジリジリ照っていた太陽はいつの間にか雲に隠れていた。その代わり、雲間から太陽光が力強く四方八方に漏れ出ていて、とても神秘的でドラマチックな景色を作り出している。
空なんて、久々に見たなと思う。
今までは空を見る間もなくて…そもそも、そんな習慣も興味もなかった。
重厚感があり神々しいこの景色は、私に「前を向け」と叱っているようだった。お前には、まだやらねばならない事があるだろう?と。ようやく、現実の事に思考が働くようになる。
人前に立つまで―あと1時間ほど―には気持ちを切り替えて、レッスンに集中しなければ。心ここにあらずでは、振付けもポンッ!と飛んでしまう。それだけならまだしも、レッスン中の参加者のコンディションに気を配れなくなったらインストラクター失格だ。オマケに怪我なんてしようものなら…怪我は絶対にあってはならない。それは参加者も私も同じだ。
ほんのちょっぴり、産まれたてのアリが一歩を踏み出す程度には前を向く事ができたところで、グゥとマヌケな音がした。体はとても正直だ。
「…おなかへったぁ…」
よくよく考えたら、オーディションの緊張であまり食べる気にもなれず、お昼はプロテインドリンクとチョコだけだった。ちなみに、プロテインは大好きなチョコレートフレーバーで、好きなものまみれにして自分を活気付けたのだった。まともに晩ご飯を食べられるのはサークルが終わった後…だいたい3時間後。
そんなに我慢も出来ないし、何よりこんなに空腹では集中もできっこない。
私の必需品―レッスン関係のものと、軽食。そしてもちろん大量のチョコ―が入っている、大きめのピンクのリュックのサイドポケットへ手を伸ばし、ゴソゴソ漁る。手の感覚だけで、何本か常備しているプロテインバーの中からお気に入りを探り当てた。これはナッツとパフ、ドライフルーツがチョコでコーティングされていて、食べごたえ抜群かつサイコーに美味しいのだ。
キョロキョロと周りを見て、誰も人がいないと確認した。バーの封をバリッと小気味良く開け、お行儀悪く食べながら階段を降りる。しょうがないじゃない、おなかへったんだもん、と開き直る。傷心気味だし、ちょっとくらいのマナー違反は今日だけ許してほしい。
階段もあと10段と少し、というところで事件は起きた。
バーをまた囓ろうとしたら、いきなり生温かい突風が吹き、どこからともなく舞い上がる砂埃が私の顔を目がけて飛んでくる。こちらは無防備にも口を開けていたものだから、被害は甚大だ。ゴホゴホッと咳き込んでしまう。
そして、誰もいないと思っていた後ろから、ドンッと衝撃が走った。
あっ!と思った時にはもう遅い。
咄嗟に手すりを掴もうにも、幅のある階段のほぼど真ん中を降りていたから、手が届く訳もない。フワッと無重力を体感している一瞬のうちに、まさかこんな所で怪我するなんてどうしようとか、変な気を起こして歩き食いしながら階段のど真ん中なんて行かずに、慎ましく端を降りていればよかったとか、いろんな思いが頭をよぎる。数々の後悔は、この状況を打開するのに何一つ役に立つものはない。
階段から落ちた事なんてもちろんなく、正しい受け身など取れるはずもないが、少しでも被害を最小にするべく体を丸めて歯を食いしばる。恐怖にはもちろん負けて、目をギュッと瞑った。できることは一瞬の内に全てやり、全身に走るであろう酷くむごい衝撃に備えた。
そして私は人生で初めて、階段から転がり落ちることになった。…いや、なるハズだった。
ドスン!と腰に重い衝撃が走り、横倒れになる。腰を強打した時はその衝撃で頭が揺れて、ボフンと柔らかい物に当った。どうやらリュックがズレてちょうどいい具合にクッションの役割を果たしたようで、頭を床に強打しなくて済んだようだ。それでも軽く則頭部をゴンッと打って痛いのだけど、腰よりはマシ。
体へのダメージは、幸運にもこれだけだった。
階段は十数段ほどあったし、あの高さから落ちたはずなのに、襲いくる激痛が予想よりもはるかに少なくて不思議に思いながらもホッとした。毎年お墓参りに行っていたから、ご先祖さまが助けてくれたに違いない。きっとそうだ。
イテテとゆっくり体を起こしながら頭を、次いで腰を擦る。体の惨状を確認すべく、ソロソロと目を開ける。手を見たら血は付いていなかった。ウェアも、見える範囲では破れていないようだ。恐る恐る、強打した腰を静かにモゾモゾと動かしたり、足も動くかどうか確認してみるが、感じるのは打った時の鈍痛くらいで、骨が折れた時のような激痛は走らなかった。
「よかった…折れてなさそう…」
緊張から詰まっていた息を、はぁぁぁと深く吐き出す。
本当に被害は最小限に抑えられたようで、ホッとする。ご先祖さま、ありがとうございますと心の底から感謝した。
ひと呼吸して今度は首をゆっくり回したとき、あれ?と違和感を覚える。
あるはずの憎い階段も、無機質なコンクリートも、仕事をサボる簡素な屋根もなかった。見知った光景が広がっていない。
キョロキョロと周囲を見回す。そこには細長い斑模様の柱が何本か立っていて、その奥は緑が…山の中みたいに木々や草花が生い茂っていた。頭上には雲ひとつない青空が見える。どうやら私は柱で囲われた石畳の真ん中あたりに倒れているらしい。
「…え?え??」
自分は夢を見ているのか、それとも実は頭を強打して死んだとか?私は階段から派手に落ちたはずなのに、ここはどこなんだ?一体何事、どうなっている??
相変わらず目を白黒させて首をブンブン凄い勢いで振ったり、凄い回数の瞬きをしてみたりして、見知ったコンクリートの世界が目の前に現れるのを期待する。
どうやっても駄目で、目を覚ます次の方法を考えている時だった。
「ーー!!ーーーーーーー!?」
低い男性の声が後ろから聞こえた。思わず勢いよく振り返る。
背の高い外国人が何か凄い勢いでこちらへやって来て、何やら外国語で話しかけてきた。いや、話すと言うよりは怒鳴られているような感じだ。顔つきも険しい。目の前に来て、見下ろされる。怒り狂った外国人と目が合ったと思ったら、彼はすぐに言葉を発する事をやめ、顔を背けて目を逸らし、口元を手で隠している。そして、私と同じくとても動揺しているようだ。
とりあえず、ここはどこで何がどうなっているのか、こちらからも諸々聴かねばならない。早くサークルに行かなければ、時間に間に合わない。立ち上がろうとした時、グラリと目眩がして立ち上がれなかった。
「ーー!ーーー!?」
何か喋っている。声音から推測するに、きっと大丈夫かと心配してくれているんだろう。正直、諸々と意味が分からなさ過ぎて全くもって大丈夫ではない。
追い打ちをかけるように、視界もおかしくなってきた。さっきまで普通に見えていた目の前の石畳が、しだいに解像度が荒い写真のように見えはじめ、色彩も光の3原色と黒色で彩られはじめる。だんだんと解像度が悪くなってきたと思ったら黒いドットがどんどん増える。音も遠のいていく。
画面が真っ暗になった。音もない、真っ暗。思考も、体中の力も、全くない。
つまりは、意識を失ったのだった。