未来へのたたかい Ⅲ
「すみません、シャワーをお借りしても構いませんか?」
「どうぞ、使ってください。今日はお疲れさまでした。」
人懐っこい朗らかな声音と、万人に好かれそうなにっこりスマイルで、クラブのサブマネージャーが頷きながら答えた。
あの後、小林さんは休憩を終え、業務に戻って行った。それと入れ替わりに、サブマネージャーがファイルを持ってスタッフルームに入ってきたのだ。これから事務作業でもするらしい。小柄でぽっちゃりしているこの男性、昔は日本中に名の知れた大人気インストラクターだったそうだ。現役を引退してからは裏方として業界を盛り上げようと、フィットネスの中枢機関でイベントやスクールを企画運営していた。今はここのサブマネージャーに落ち着き、利用客とスタッフ双方が楽しめるクラブにしようと奮闘中なのだそう。結果もちゃんとついてきて、業績は右肩上がりらしい。
見かけによらず、すごいやり手なのよと小林さんからコッソリ教えて貰ったのは、ひと月程前のこと。オーディションの話を貰った頃だ。自分でもネットで調べてみたら、出るわ出るわ輝かしい功績が。本当にスゴい人だった。そして面接では、カチコチだった私の緊張をほぐして、伝えたいことをスムーズに引き出してくださったスゴい人でもある…!
シャワー室の利用許可を貰ったので、お礼を言い、着替えを持って汗を流しに向かう。シャワーはクラブの利用客とスタッフ共用なので、空く時間を見計らっていたのだ。…小林さんとのひと時を過ごしていると、ちょうど良い時間になった、というのが正解だけど。
「…うわ、あつい…」
次の目的地へ向かうため、クラブを出た直後。春の季節で過ごしやすい気候かと思いきや、太陽が燦々と照り、肌をじわりと焼かれる感覚があった。クラブの場所が3階にあり、ほんの少し地上よりも太陽に近いからだろうか、なんて変な事を考えてみる。日が傾き始めているからか、雨避け用の簡素で日に焼けたうす緑色の屋根は日光を遮るという仕事は放棄していた。想定外の暑さで、思わず階段の前で立ち尽くしてしまった。
足が進まないのにはもうひとつ訳があって、帰り際の控室でのやりとりがその原因。
「今回の契約は、ちょっと難しいかな…」
心底申し訳無さそうに、眉間にシワまで寄せて残念そうに、サブマネージャーはそう言った。一瞬何を言われたか分からなかったけど、理解するのに時間はかからなかった。夢ならいいのにと思ったが、確かに、彼はそう言った。
こちらから聴きもしないのに、表情を崩さないまま―眉間に深い川の字が出来た表情で―教えてくれた。なんでも、お客さんのアンケート結果が他の人と比べてイマイチだったらしい。
それが本当かどうかは分からないけど。サブマネージャーは表面上は人当たりが良くてみんなに笑顔を向けているが、腹の中は何を考えているのか分からないからコワイと、他のスタッフが口を揃えて言っていたのを聞いた事があった。
その時は面接直後という状況も手伝って「そんなバカな。あんなにいい人なのに。」と信じて疑わなかった。今なら思う。あのスタッフさん達、きっと大正解!
至らぬ点もあっただろうけど全力は尽くしたオーディション。やっぱり契約が貰えない、小林さんの後を引き継げなかったのはショックが大きくて、作り笑いもできず、声も出なかった。
そんな私を見かねてか、ベラベラと何かを喋り倒して、スタジオレッスンをもっと増やすようになったら、是非こちらから声をかけさせてくれと彼は言った。それもどこまでが本心か分からなくて、私には何も響かなかった。
なんとか「よろしくお願いします」と答えたけれど、どんな顔をしていたのか、自分でも分からない。
控室を出て、クラブの出入り口までトボトボ歩く。近くの受付けで業務をしていた小林さんに「ありがとうございました、失礼します」と声をかけた。もちろん無理して作った、笑顔付きで。
レッスン後の控室と同じようなテンションの声色だったと思う。そう願いたい。まだ不合格とは知られたくなかった。
「花奏ちゃん!気をつけてね…って…その格好で移動するの…?」
私の隠しきれていないであろう、どんよりした雰囲気よりも、今の服装に反応してくれた。素直にありがたいと思う。
「そうなんです、これからすぐにサークルがあって。会場は着替える場所なくて、このまま行っちゃいます!」
えへっと笑って戯けてみせる。
今の私の格好…黒のスポーツブラに、黒でロゴが印刷されたライムグリーンのタンクトップ、下は黒地のレギンスだが、かわいいシンプルな模様はゴールドでプリントされていて、華やか…もとい、とても派手だが大のお気に入りの一着なのだ。このままでは流石に…と、白地に赤く細いストライプがはいった大きめのシャツをひっかけている。まあ、これで外を歩いても充分に人目はひくだろうけど。
販売されているウェアが派手な色のものが多いのだ。お国柄の違いもあるだろうが、セクシーなデザインのウェアも…なので、一般の、この世界を知らない人達にはびっくりされてもしょうがないと割り切っている。…まあ、私も初めて見た時はいろいろ驚いて目玉が飛び出たし、ウェアを買うときは極彩色&露出激しめのものは絶対に買わないだろうと思っていたし。実際はあれよあれよと感覚が変わって、極彩色でも、少々激しめの露出でも、かわいいと思った物はバンバン買ってしまうようになったのだけれど。
ウェアひとつで、レッスン中の気分がガラリと変わるんだからしょうがないじゃない?まるで別人になったかのように…本場のイケてるラティーノになった気分で、気持ちよく踊れるのだから。
このウェアが現実の気持ち―ショッキングな結果―もガラリと変えてくれたらいいのにと、ふと思ったが、サッと切り替え、大好きな恩人にさよならを告げて自動ドアをくぐる。
彼女が痛々しげに、切なそうな顔で見送っていることなんて、気がつくはずもなかった。