未来へのたたかい Ⅱ
あの時の、ちょっぴり先行きが見えない不安が呼び起こされて、近頃の私らしくない顔をしていたのだろう。笑顔のパワフルママさんはバシッ!と私の背中にカツをいれた。…私も、みんなと同じく…いや、それ以上に汗びっしょりだったから、ママさんの手は濡れたに違いない…
「弱気なこと言ってないで!できること全部出し切ったんでしょ?」
「それはもちろん!いつも全力だよ!!」
「うん、知ってる。だから私は花奏ちゃんのレッスンが大好きなの。時間を工面して来ちゃうくらい。…大丈夫なんて無責任な事は言えないけど、私は信じてるから…ね?」
ジーン…と沁みいる言葉。こんなに応援してくれる人がいて、それを言葉でちゃんと伝えてくれる。こんなにありがたいことはない。…うっかり泣きそうだ。
「ごめんね、これから下の子のお迎えがあって、この後のサークル行けないんだ。」
「うん、分かってるよ。気をつけて、早く行ってあげて。じゃないと…」
「「ワガママ王子がワガママ大怪獣になる!」」
見事にハモった。これもいつものこと。クスクス笑い手を振って、後ろ姿を見送る。
私も早くスタジオにモップをかけて、2時間後のサークル会場に向かわなきゃ!
コンコンコンッ
スタッフルームの扉を小気味よくノックして、中へ入る。そこには夕方の休憩に入っていたスタッフ―小林涼さん―の姿があった。長い髪をバッサリ切って、すっかりボーイッシュに変身した彼女は、私の人生を変えたキーパーソン。1年前、衝撃を受けた件のレッスンのインストラクターだ。恩人とも言う。
「花奏ちゃん、お疲れさま。首尾はどう?」
「やれることはやりました。後は、神のみぞ知る、ですね。」
小林さんの隣の椅子に、ピンク色の大きなリュックを置きながら答える。タオルやドリンク、パソコンにスマホなどなど大荷物だったので、肩への負荷が一気になくなってひと息つけた。そう感じたのは、オーディションが主だろうけど…
「花奏ちゃんがオーディション最後だったのね。…ここだけの話…」
小林さんが声を潜めて私に顔を近づけ、ニヤッと口角を上げた。彼女のこんな顔は初めて見た。
ドキドキ。一体なんだろう。ニヤッとするくらいだから、悪い事ではないと…そう、思いたいのだけど。
「スタッフからの評判、上々だったよ。」
「本当ですか!?」
「うん。参加者みんな楽しそうだったのと、ちゃんと動きについて来れていた事。あと、花奏ちゃんが全体にしっかり気配りできていたのがポイント高かったみたい。あとはアンケート結果と総合して決まるんだけど…」
ほんの少し眉根を寄せて、さらに続ける。
「私に決定権があれば間違いなく合格するんだけど…ごめんねぇ、こればかりは…」
「何をおっしゃいますやら!オーディションの情報くださっただけで大感謝ですよ!」
「いやー。私としてはさ、花奏ちゃんが私の後釜としてやってくれたほうが嬉しいんだよね。経験は少なくても、どんな気持ちでレッスンしてくれるか分かっているしさ。そうなったら、いろいろ安心して彼のところに行けるんだけど…」
そう。小林さんは今月いっぱいでここを去る。
長年お付き合いしてきた彼が転勤して、しばらくその地に留まるとのことで、一緒についてきて欲しいとプロポーズされたそうだ。めでたいお話と一緒にオーディションの事も伝えられた。…ちょっぴり寂しい報告。
ちょうどサークルを始めてひと月が経つかどうか、という時の事だった。
「向こうでも仕事は続けないんですか?」
疑問という名で問いかけたけれど、私の希望だった。心からの、希望。
彼女に人生を変えて貰って―もちろんフィットネスにもだ―目標としている人だから、どうしても同じ仕事で繋がっていたかった。…もちろん、1番は彼女の幸せが大事なのだけど…分かってはいるけど、諦めきれなくて、尋ねた。
返ってきたのは、想像していたけれど聴きたくなかった答え。
「ひとまずは、辞めるつもりなの。新しい環境にも馴れないとだし、そのまま仕事続けるとキャパオーバーでストレスフルになりそうだしね。」
小林さんの表情がほんの少し曇って、私の顔色を伺うような視線に、思わず苦笑いでウンウンと頷き返す。
ストレス。過度なそれが1番ヤバいことを、私は重々承知済みだ…
さらに、彼女は私に衝撃的な事を教えてくれた。
「それに、彼も私も前から子どもが欲しいねって話をしてて。…実は、アレも遅れてるから…」
「………!!?」
「…もしかして、もしかするとな感じなんだよね…」
そっと柔らかく愛おしげに、彼女は自らの手をお腹に当てて、ふんわりとはにかんだ。
びっくりし過ぎて言葉が出てこない。というか、忘れた。言葉って、なんだっけ?なパニック状態だ。
言葉を忘れて口がパクパク鯉みたいになっている私に、爆弾発言をした彼女は綺麗に笑って、続けた。
「花奏ちゃん、ありがとうね。私、本当に幸せ者だなって。私がこの仕事をして7年が経つけど、自分のレッスンで人の生き方を変えるなんてすごい経験、させて貰えるなんて思わなかった。」
「そんなそんな、私こそ感謝してもしきれないです!地獄から救ってくださって、ありがとうございます、ですよ!!」
私に言葉が戻ってきた。よかった、忘れてなかった。
「それはね、花奏ちゃんが心から変わりたい!って思っていたからだと思うよ。たまたま、私のレッスンを受けてくれたからで…ラッキーというか、本当に恵まれていたのは、間違いなく私のほう。人が、生きる力を取り戻す瞬間の美しさを間近で見せて貰えて…私も頑張ろうって思えたの。全力でみんなの期待に応えようって。」
初めて聞いた、小林さんの真剣な、力強いけど優しい声色。そんな風に思っていてくれたなんて…
彼女はさらに、聖母のように慈愛溢れる顔になって、ひとこと。
「花奏ちゃん。私と出会ってくれて、ありがとう。」
一瞬、ほんの一瞬だけ時間が止まる。
言葉の意味を―含まれた想いを―理解したと同時に、この人との別れが近い現実もまざまざと見せつけられて、涙が溢れて止まらなくなった。
何よりもそんな言葉を受け取る、心の準備が出来ていなかった。駆け出したばかりの、希望と不安が同居しているまだまだ柔らかい心には、暖かくて大きすぎる想いが眩しかった。
簡素な設備しかない8畳ほどの狭い控室に、静かで物悲しい嗚咽が響く。
なんとも形容しがたい、悲しさと優しさが入り混じった中秋の海のような空気感が、私達を包み込んでいた。
「…さ!顔上げて!ほらこれ、あげるから!」
この空間にはあまり似つかわしくない、明るさを無理に絞り出した声がした。急に出された声は狭い部屋によく響き、揺れていた。そして、小花がたくさん描かれた可愛らしいパッケージの小箱を渡される。
!!…これはもしや…!
「花奏ちゃん、チョコ大好きだったでしょ?さっきね、お客さんからお土産で貰ったんだけど、私チョコ食べないから。代わりに、花奏ちゃん食べてくれない?」
「…ありがとうございます!本当に、チョコ大好きなので、大事に食べます!」
チョコ好きな性が涙と鼻水を押しやって、感謝の言葉を紡いでくれた。これほどチョコ好きが役に立ったことは、今までない。
そして、またしても彼女のスマートな気配りに心打たれる。
私は知っている。公言はしていないが、彼女も私と同じく、チョコレートホリックだということを。