未来へのたたかい Ⅰ
みなさん、しっかり前を見て歩いていますか?
スマホ見ながら歩いていませんか?まさか、目を瞑ってなんて……それはないか。
転ばないように、ちゃんと足元を確認してくださいね。転倒は怪我のもと。大怪我なんて、笑えません。
そして……
人生で初めて階段から落ちて、気がついたら地球じゃないなんて……
笑おうにも笑えない、でも泣くにも泣けない、あまりに意味不明すぎて、一体これからどうしたらいいの?
そんな状況に、あなたも陥ってしまうかもしれません……
◆◆◆◆◆◆◆◆
「ありがとうございましたー!」
スタジオレッスンで最後の曲を終えて、ちょっとの余韻に浸り、最高の笑みを浮かべて声高らかに叫んだ。
参加者みんな、汗だくだ。そして、はち切れんばかりの笑顔で拍手をした。60分もの時間、誰ひとり脱落することなく動き続けたことをお互いに讃えあい、楽しい時間を共有できたことに感謝して。
「一本締めで終わりまーす!ぃよーーーぉっ!」
パンッ!と手を打つ、小気味のよい音が響く。
その音を皮切りにしてスタジオの後方―出入口―へダッシュした。一番最後の大事なお仕事、みんなを送り出すために。
「お疲れさまでした!」
「ありがとうございました!」
感謝の言葉とともに笑顔で軽くハイタッチを交わして、汗びっしょりのレッスン生たちをスタジオから送り出す。もちろん、ひとりひとりの目をちゃんと見ることは忘れない。
中には「楽しかったです」「また来たいです」と、感想を伝えてくれる人もいて、本当に嬉しい時間だ。言葉にして伝えてくれる人たちは例外なく、だいたいの人はキラキラ輝く目でレッスンを受けてくれているから、ありがたいなぁと思う。参加者たちのリアルな反応は―もちろん、良い反応だけではない―、そのままダイレクトに私のモチベーションになるから。
「花奏ちゃん!」
ほぼみんなスタジオの外に出た頃、見知った顔が駆け寄ってきてくれた。あちこちの場所で定期的にサークルを開催したときは、必ずと言っていいほど参加してくれる常連ママさん。小学校と保育園に通う子供がいて、いつも全力で楽しんでくれるパワフルだけどオシャレなママだ。
全く知らない人達とついさっきまで対面していたところに、気の知れた人が飛び込んできて、へにょっと肩の力が抜けるのが分かった。実は今まで緊張していた事を思い知る。
「ありがとう!そして今日もお疲れさまでした。」
「お疲れさま!今日はいつになく、メイクばっちりだね。」
「そうかな?いつもどおりを意識したんだけど…」
レッスンで汗をかくとはいえ、普段からメイクはしていた。ただし、ナチュラルメイク程度だ。
ママさん曰く、アイシャドウがいつもと違って濃いらしい。そして、ヘアースタイルも。実は、新しいアイシャドウを買ったのだけど、普段選ぶ色とあまり変わらないから気が付かないと思っていた。肩甲骨よりも長く伸びた黒髪はポニーテールにしている。
私の外見に僅かな変化を見つけて満足した彼女は、興奮気味に次の話題に移っていた。
「今日、すごくよかったよ!そして楽しかったよ!!」
「…大丈夫だったかな…」
「きっと大丈夫だよ!鏡越しで見てたけど、みんな楽しそうだったじゃん!ちゃんと動きについてこれてたし!」
「そうなんだけどね…やっぱり、ちょっと不安かな。」
そう、本音は不安だった。
ここのスタジオは全国展開されている大手フィットネスクラブの中にあって、たった今、終わった。
たった、今、オーディションが、終わった。
このフィットネスクラブで来月から新しいスタジオレッスンを開講するため、オーディションが行われていた。つい先日、一次オーディションと面接に合格した旨の連絡を貰った時は小躍りして喜んだのを覚えている。そして、二次オーディション―実際にお客さんを入れて反応を見る―がさっきのレッスンだった。
私、音羽 花奏も、レッスンを受け持ちたいと思っているたくさんの応募者の中のひとり。
少ない席を狙う、ひとりだ。
今頃、レッスンに参加していた人全員がアンケートに回答しているはず。ガラス越しに見ていたクラブのスタッフさん数人の意見とアンケート結果で、私の合否が決まるのだろう。
…すごく、すごーく…気が重い。
私が受け持ちたいレッスンは、ダンスフィットネス。ラテンミュージックをメインに、世界中の音楽を簡単なコリオで楽しみながら踊る。
気軽に楽しくクラブで踊っているような雰囲気を壊さないようにするため、動きの指示は言葉ではなく、ジェスチャーやワンテンポ早く次の動きをすることで指導を行う、少し変わったプログラムなのだ。
楽しく踊っているうちに、あっという間に時間が経っている…そして、また来てみよう・参加したいと思える不思議な魅力のレッスン。
少々間違えたって、気にしなくていい。右か左かなんて、たいした事じゃない。難しい事を考えずに、ただただ純粋に、今この時間を楽しむだけでいい。
そう。ただ単純に『今』という時間を全力で楽しんでいれば、それでいい。
このプログラムを通して、一年前の私はそんなメッセージを受け取った。
そして、人生を救われた。
遠く離れた田舎の家族とのゴタゴタと職場の人間関係で、心身ともにストレスを溜め込んでしまい、限界を超えても見て見ぬ振りをしてきた。積み重なった不摂生も手伝って、寒さが身に染みるある日、体が悲鳴をあげたのは、25歳の冬だった。
休職中は動くことが億劫になって、楽しみが読書と食べることしかなくなってしまい、1ヶ月で体重計がとんでもない数字を表示し、絶叫したのが今となっては懐かしい。このままではヤバいと自覚して、このフィットネスクラブに入会したのが、冬と春がせめぎ合う季節。
そして、入会してから1ヶ月が経った頃。
私の運命を変えた出来事…たまたまスタジオレッスンでこのプログラムと出会って、今まで体験したことのない高揚感と衝撃…とりわけレッスン中のインストラクターの心底楽しそうな眩い笑顔に、レッスンが終わった後、息を切らしながらもしばらく呆然としていた。
私もこんなふうになりたい!
キラキラ輝きながら、仕事したい!生きたい!!
そう思った私は、あっさり転職を決めた。これからどうなるんだろうという不安の日々…真っ暗闇の景色に、一筋の光が差したあの瞬間は、一生忘れない。
目標を持った私は、長いこと眠っていた持ち前の行動力が大爆発。今までの鬱々とした日々―会社勤めのあの日々―は一体何だったのかというほど、精力的で生きる力に溢れていたと思う。
無理のない運動に筋トレ、食事に関する正しい知識を得て実践し、コツコツとダイエットに励んだ。インストラクター…これは人前に立つ仕事。ある程度の筋肉と脂肪を持つ、健康的な体でいることも仕事のうち。これは私が憧れたインストラクターさんからの大事な教え。
少しずつ、でも確実に変わっていく自分のボディーラインは、体重計の数字が低くなることとは比例しないことも学んでいたから、数字に振り回されることもなかった。
ダイエットと並行して、インストラクターになるための資格も取り、1回60分のレッスンを想定して練習し続けた。インストラクターさんはレッスンを難なく指導しているように見えたが、蓋を開けたら苦労と努力、情熱の塊が詰め込まれている事を知り、余計にカッコいいなと思ったっけ。お客さんがいる事を想定しながら最初から最後まで通して何度も練習を重ねたり、暇があればレッスンで使う曲を聴き返し、頭の中で動きの確認をした。フィットネスクラブでは、いろんな人のレッスンを受けながら、細やかな技を見て盗み―楽しみすぎて、動きや指示の出し方の勉強どころではなくなった事は数多だ―…と、夢の実現のための準備が1日の大部分を占めていたのは、今となってはとてもいい思い出になっている。
なんとなく形にもなって、そろそろ本格的に挑戦するべくサークル活動を開始したのが3ヶ月程前…私の誕生日だった。
私の奮闘と変わりように、同じレッスンを受けていた人たち―今では大事な仲間だ―も応援してくれて、初めてインストラクターとして人前に立たせて貰える機会を作ってくれた。
このクラブの近くにある、小綺麗なレンタルスタジオを借りて、仲間がさらに仲間を呼んでくれ、15人余りに見守られながらの門出となった。
産まれた日に、新たな人生の再スタートを切れたことは、感謝しても仕切れない。
そして、それと同時に…夢と希望を両手いっぱいに抱えながら、これから数々のオーディションを勝ち取っていかなければならないプレッシャー―フィットネスクラブとの個人契約―への茨の道に思いを馳せてしまい、誰にも悟られないように小さく息を吐いたのは秘密の話。