(3) 流れ霊(だま)
【お題】空、ヒロイン、風船
その日の昼休みの事だった。近場のコンビニで弁当を買い、何時ものように公園の中を横
切る──オフィスに戻る最短ルートを取るべく足を踏み入れると、そこにはおよそ普段なら
居ないような“珍客”の姿があった。
「!?」
斎藤は、視界の端にそれを認めて思わず立ち止まった。思わず目を見開き、二度見三度見
して釘付けになる。
(び、びっくりしたあ……。一体何かと思ったら……)
一人の道化師だった。けばけばしいメイクと衣装に身を包み、ひょうきんな動きや大道芸
などで人々を楽しませる職業人である。
街も街、都市部の一角ゆえ、別段居ても不思議ではないのだろうが……。少なくとも彼女
にとっては、およそ日常生活とイコールでは結ばれない存在ではあった。幼い頃ならいざ知
らず、社会人として多忙な毎日を送らざるを得ない現在では。サーカスや遊園地の類にわざ
わざ行かなければ、基本遭うこともないだろうから。
「やあ、皆。僕とゲームをしないかい?」
この時、この場所に居合わせた小さな子供達をターゲットに、道化師は即興の手品や色と
りどりの風船を差し出すなどして話し掛けていた。良くも悪くも無邪気で、疑う事をまだよ
く知らない子供達は、頭に疑問符を浮かべつつも応じている。
「ゲーム?」
「そう、ゲーム。何、ルールは簡単さ」
だが一番目を惹いていたのは、彼の後ろに立てられた大きなイラスト付きパネルだった。
段々と。数枚横並びで、高い物になると大人の背丈以上もある。同じく傍には、いわゆる電
話ボックスを彷彿とさせる縦長の半透明空間も設置されている。
『君の思いを叫ぼう! たくさん膨らめば膨らむほど、豪華賞品プレゼント!』
(……道化師関係なくない?)
パネルにそうド派手に書かれた内容を見て、斎藤は内心小首を傾げていた。違和感という
か、妙な催しをするなあと思った。
いや、これを色んな人にして貰う為に、あんな格好をして客寄せを図っているのか。だっ
たら人も疎らな公園よりも、もっと往来の活発な駅前辺りに陣取れば良いのに……。テレビ
番組でも偶に似たような企画をやっている時があるが、遠巻きのこの様子を眺めているに、
ああいった催しもメディアの威光ありきだったのだなと思う。
「へえ~……。変なの」
「ここに口をつけて叫べばいいの?」
最初はおっかなびっくり──そもそも世代的に電話ボックスすら知らない可能性も高く、
中々進んで試そうという子供は出なかったものの、誰か一人がその先例さえ作ってしまえば
後は簡単だった。ボックスの中、壁面から延びたチューブの先は、外から見える萎んだ風船
と連動しているらしい。
『~~!!』
小さな男の子が一人、先陣を切ってこの道化師の誘ってきたゲームに参加し始めた。ボッ
クスの中で大分大きな声で叫んでいるように見えたが、こちらには全くと言っていいほど聞
こえない。防音性に関しては問題なさそうだ。
同時に、叫んだことで吐き出された息が、風船の中に溜まっていった。まだ子供だからと
いうのもあるのだろう。萎んでいた風船の膨張する速度は、ある程度の大きさをピークにそ
れ以上高まることはなかった。道化師が、彼の吐き切った様子を見計らって風船を引き抜く。
手馴れた様子で素早く口を締め、一玉の紐付きバルーンへと仕上げる。
「は~い、お疲れ様♪ この大きさだと……七等だね。賞品はこれ」
パネルに書かれたイラストは、この膨らませた風船の大きさを比較する用途にも使われて
いた。実際に直径を合わせて確認させ、基準を明確にしている。ゴソゴソと、言って彼は荷
鞄の中から、お菓子の詰め合わせ袋をこの男の子に差し出した。ぱあっと、その表情が素直
に明らむのが遠巻きからも見て取れる。
「あ~、いいなあ……」
「俺も! 俺も!」
「いんや、こっちが先!」
こうなると単純というか、何というか、子供達はこぞって彼の催すゲームに参加し始めて
いった。お菓子に目が眩んだというのもあるが、それ以上にもっと大きく膨らませることが
出来れば、どんな賞品が当たるのだろう? そんな好奇心もとい物欲が、良くも悪くも彼ら
を激しく刺激して。
「──こら、何してるの!?」
しかし束の間の楽しみは、程なくして中断させられた。白昼堂々現れた“不審者”の存在
に気付き、子供達の母親の一人がずんずんと猛スピードで駆け寄って来たのだった。思わず
ビクッと身構えた我が子、何より笑顔のまま動きを止めた道化師を睨み付けて、このゲーム
の輪から引き離す。「知らない人と話しちゃ駄目でしょ!」さも当たり前に、これまでもそ
う教えてきたでしょう? と暗に含めて叱りつけ、去ってゆく。ざわ……ざわ……と、他の
子供達も急激に興を削がれる──いけないことをしているような心地になり、一人また一人
と離れてゆく。
「……」「……」
嗚呼、そうだ。昨今のご時世なら、こんなモンか。
当の道化師もそうだろうが、遠巻きから一部始終を見ていた斎藤も、大分強引なこの幕引
きに正直気持ちが萎むような心地に襲われていた。勿論、どの親もあの母のような剥き出し
の警戒心を取るとは限らないだろうが……想定は先ず悪評・悪影響が噴き出すことを優先に
考えた方が良い。
(あ~あ。すっかり子供達も逃げちゃって──)
だから彼女自身も、さっさとその場から立ち去れば良かった。元より昼食を確保して戻る
途中だったのだから、そこまでのんびりしている時間がある訳でもない。
「~♪」
見つかった。当の道化師に、遠巻きで眺めていたこちらの存在を認められてしまっていた。
ニコニコと、繕っているのか仕切り直しなのか、今度はこちらに向かって軽く手を振って
くる。ゲームへの誘いを掛けてくる。
「やあ、こんにちは。君も良ければ、一発叫んでみないかい? 大人も大人なりに、色々溜
め込んでいる感情があると思うんだ」
「……」
十中八九、キャラの一環ではあると思うのだが……。斎藤は少し迷い、だが同時にその誘
いに惹かれるのも自覚していた。彼の言う通り、毎日の仕事で溜まった鬱憤、愚痴の類なら
ば掃いて捨てるほどに蓄積されてゆく。促されて改めて、意識の俎上に昇ってきたと表現す
る方が正しいだろうか。
「まあ、一回だけなら……」
念の為、周りに他人がいないか──名指しされたのが自分ではないのではないかと一縷の
望みに縋ってはみたが、現実は非情である。何となくもう、子供らが母親に“回収”されて
いかれた居た堪れなさを共有してしまった手前、こちらだけが一方的に知らんぷりして去っ
てゆくのもどうかと思ったのだ。妙な所で、良心の呵責的なものが悪さをしたのだった。
どうぞ♪ 案内されてボックスの中へ。なるほど、内側からも周囲の物音はかなり聞こえ
なくなった。外から道化師が、ジェスチャーで『OKです』とゴーサイン。何だかなりゆき
で参加させられる羽目になったけれど、衝いて出る感情ならもう決まっていた。
「──死ねッ! いっぺん死ね!! 毎回毎回、その言い方も何もかもがセクハラだっての
が解らねえのか!? このエロ親父ッ!!」
それは憤怒。職場の上司に一人、正直どうしても生理的に無理という中年男がいた。こち
らが女だからと、まだ若くて立場が弱いからと、気まぐれに現れては不快な言動を繰り返し
ては去ってゆく。ガハハ! と下品な笑いを撒き散らし、自分だけが快適な環境だと酷い勘
違いをしている人物だ。
斎藤だけではない。およそ同年代か、前後の女性社員なら大抵あいつのことは「キモい」
と感じて嫌っている筈──。
「はぁ、はぁっ……!」
叫んで、されど彼女はすぐに後悔と違和感に戸惑うことになった。一つは、たとえ防音性
がしっかりしているボックス内とはいえ、真昼間から上司への暴言を公の真ん中で吐き出し
た拙さ。何よりもう一つは、にも拘らず自身の抱く感覚が実に爽快──まるで件の鬱憤自体
が、絶叫と共に綺麗さっぱり流れ落ちたように思われたからである。
「は~い、お疲れ様♪ 大分大きいねえ。賞品は三等、温泉宿の旅行券だ」
ボックスの外で口と括られ、回収された自身の風船。
どうやらその肺活量──吐き出した際の勢いはかなりのものだったらしく、パネルのイラ
ストと実寸で合わせたそのサイズは、確かに上から三番目の大きさとなっていた。何より、
しれっと道化師から手渡された賞品の豪華さに度肝を抜かれた。
「えっ……!? こ、こんな良い所の……。いいんですか?」
「いいも何も、君が勝ち取った成果だよ? 遠慮せずに受け取ってよ」
マジか。斎藤は、子供達の時のそれとはまた違うベクトルでのおっかなびっくりで、この
差し出された旅行券を受け取った。仕事漬けな自分でも判るくらい、有名な宿だ。もしかし
たら偽造品などかもしれないが……今は確かめる術も時間も無い。大体、そこまで仕込んで
こんな催しを一人開いている、彼のメリットが解らない。
「ありがとう、ございます……」
予想もつかない形で、貴重な物が手に入った。これは是非、ちゃんと休みを取って満喫し
に行かなければ。
だがぐるぐると考え、ふと公園内の時計を見上げて斎藤は気付いた。昼休みの残り時間が
刻一刻と過ぎている。「そうだ、お昼済まさなきゃ……」道化師が尚も手を振って見送って
くれるのもそこそこに、彼女は再び小走りで駆け出した。カシャカシャと、手に提げたまま
のコンビニ袋が揺れる。貰った旅行券は、とりあえずスーツの内ポケットにでも突っ込んで
おくことにした。
「──おい。さっきの見たか?」
「ああ、見た」
「すげえな。風船膨らませるだけで旅行が当たんのかよ。OL姉ちゃんであれだけイケるん
なら、俺達がやれば一等取れるんじゃね?」
「かもしれねえな。お~い、ピエロの兄ちゃん! 俺達にもやらせてくれよ──!」
***
誰かが、何処かで注ぎ込んだ“声”は、風船に包まれて空へと放たれた。注ぎ込んだ当人
らも知らぬ内に、きっとこれから先も直接知る由もなく。
「お父さん! 風船、風船!」
「? おお……本当だ。一体何処から──」
風の流れるまま、往くままに。幾つかは途中で力尽き、萎みながら見も知らぬ土地へと落
ちて行ったのかもしれない。幾つかは海原の上、遥か上空で鳥に突かれて割れ、或いは別の
誰かの下へ辿り着いたのかもしれない。
そんな風船の一つが、とある河川敷沿いにゆるゆると落ちようとしていた。ちょうど、近
くを通り掛かっていた幼い娘とその父親がこれを発見し、地上から手に届く瞬間を待つ。嬉
しそうに彼に抱えられ、手を伸ばす。
『死ねッ! いっぺん死ね!!』
だが次の瞬間だった。強度自体がもう限界だったのだろう。少女が触れた瞬間、この風船
は遂に弾けて粉々になった。同時に封じ込まれていたものが、解放されたかのように叫ぶ。
──死んでいた。
手を伸ばし、この“声”を聞いた刹那、少女の瞳から光が消えた。ぐらりとそのまま体勢
を崩して倒れ込み、動かなくなる。彼女を抱え、一緒にこれと相対した父親の方も、数拍抵
抗したものの程なくして愛娘の後を追った。崩れ落ち、堤防道の只中で、生気を失ったその
姿へと震えながら手を伸ばし……届かずに息絶える。
「言霊、という概念を知っているかい? 実際口にした内容は現実となる。そういった力が
備わるといった考え方だね」
この河川敷の向かい側、夕暮れが近付く靄の彼岸に、道化師がいた。斎藤や子供達、或い
は彼女の様子を見ていて後々で参加した、男子学生らの一団にゲームの誘いを掛けていた彼
である。
奇抜な衣装とメイク、ニコニコと絶えない笑みをそのままに、彼は独り呟いていた。時刻
も手伝ってか、その横顔には寧ろ一抹の不気味さすら漂っている。ちらりと、此方を見る。
「感情は、消えない。本来の持ち主から離れた後も──たとえ本人が忘れてしまったとして
も、その力は残り続ける。姿形を変えながら、その与えられた目的を果たす為に彷徨い続け
るんだ」
「綺麗さっぱり。そんな、都合の良いことなんてのは──無いんだ」
(了)