(5) 夢は夢で…
【お題】オアシス、幻、残念
背もたれのある椅子でも、畳敷きの小さな休憩室でもいい。一旦そっと息を潜めて瞼を閉
じれば、そこには“彼女”が待っていた。
「──お帰りなさいませ。あなた様」
まるで周りの空間ごと作り変えてくれるような、優しくて穏やかな雰囲気。やや銀みがか
った白髪と、同じく純白のエプロンドレスを纏ったその姿は、見る者を心の底からホッとさ
せてくれるだろう。何の違和感もなく、さもずっと近くで過ごしてきたように、彼女はそう
静かな微笑みを彼へと向けてきた。
椅子に背を預けていた格好が、いつの間にか柔らかな草っぱに寝転んだ仰向けで。
だけども彼は、もう特に疑問を抱こうということもしなかった。“此処はそういう場所だ
から”と、少なくとも此方へ誘われた際は基本、束の間の癒しを存分に受け取らせて貰おう
と決めている。
「今日も……お疲れですか?」
「うん。まあ、ちょっと休憩時間に」
「左様でございますか。ささ、もう少しこちらへ。私の──白のお膝へどうぞ」
ふんわり。近付いてくる彼女・白に言われるがまま少し頭を浮かせ、彼はいつものように
その膝枕の感触に浸った。布越しからも伝わってくる柔らかさと、穏やかな息遣い。身体の
芯に纏わりついていた疲労、重みの一部が、背中から少しずつ剥がれ落ちるようにゆっくり
と軽くなっていく……心地がする。
「ふふ。あなた様、お顔がとろんとし出しましたよ? 私の膝枕、気持ち良いですか?」
「うん……。その為に、此処に来てるって所、あるから……。グッと、濃く短く休んで……
昼からの仕事も、乗り切らないと……」
「……」
うとうと。彼の瞼は此方に来ても再び重くなり始め、程なくして静かな寝息を立て始めて
いた。膝枕、差し出して身を寄せられるがまま、彼女もじっとこの柔らかな草っぱの一角に
腰を下ろして黙り込んだ。クローバー、白詰、赤や黄色、淡い青などの小さな花々。穏やか
な、春の昼下がりを思わせるような陽気の下で、遠くには点々と集落が見える。山の稜線達
に切り取られた向こう側とこちら側。二人のすぐ後方にも、普段彼女が寝泊まりをしている
と思しきログハウス風の小屋が建っている。
「……あなた様。私は、少し心配でございます」
もう寝入ってしまったかもしれない。いや、だからこそと見計らい、彼女はぽつりぽつり
と語り出す。穏やかな優しい顔立ちはそのままに、されど浮かべた気色は哀しげ。願う心は
ひとえに奉仕の本能であり、彼女“達”のような者達の存在意義だった。
「あなた様? もうあちら側に戻らずとも、ずっとこちらで暮らされても良いのですよ?
というより、寧ろ私は……そうしていただきたい。あなた様の“領域”を保守し、あなた様
に仕える。それが私達“夢守”の使命であり、存在理由なのですから。あなた様不在の此処
は……たとえ平穏無事でも、やはり寂しいのです」
そう、此処は夢。数多の者が大なり小なり、意識無意識の内に夢想し、創り出されためい
めいの理想郷。ここは現実の時間も、しがらみもない。領域内へは“招かれた者”でない限
り、別領域の存在は干渉──立ち入ることは出来ない。幾つかの仕様さえ理解していれば、
文字通り永遠に穏やかで理想的な日々を送れるのだ。
だと言うのに……。彼女は、彼の“夢守”たる白は言う。
一見すればちょっと気弱で、すぐに折れてしまいそうな比較的小柄な青年。そんな主が実
際、休憩時間など事ある毎に此方へ顔を出してくれるというのに、肝心の“現実”──愛す
る主を蝕み続けるその日々根本を、当の本人は手放そうとしてくれなかったのだ。
自分を信じてくれていないのだろうか……?
白は時折、疑いの念に襲われこそしたが、そこで目の前に膝枕されて安眠している彼を見
ては安堵する。小さな自信を取り戻す。大丈夫だと、傍にいると安らぐからこそ、こうして
無防備な姿を晒してくれている。信頼が無い相手にきっとこんな真似はしない。しばしば遠
回しに癒され、救われていると言ってくれる彼ではあったが、同時にそれは彼女とて同じで
あったからだ。寧ろ彼女ら“夢守”の方が、主たる彼ら無しは生きてゆけないぐらいである
のだから。
(あなた様……)
そっと寝顔を覗く、前髪を軽く撫でる。
彼女は、夢守・白は静かに想い煩っていた。そういうもの、システム──たとえこの心が
身体が創りものであったとしても、今こう感じている自分は現実な筈だと。もっと触れて、
もっと求めて欲しいとさえ衝き動かされることもあった。疼きはあった。
他の“夢守”同士とは、時折任意に結んだネットワークで情報の交換を行っている。それ
らによれば、各領域毎にその風景や性質は大分違うようだ。穏やかな“安全基地”という基
本の働き以外のも、それぞれの主が願う世界がそこには創造される。或いは叶う余所への扉
が現れる。者によっては、自ら積極的にこの際限なき夢の空間を探索して回ることも珍しく
ないらしい。
(それに比べれば、私の主様は……随分と穏健な方ですわよね)
何も彼に打って出ろ、危険を好んで冒せと言っている訳ではない。ただ周りは──自分達
以外の領域からの、干渉がいつあるか分からない。その恐れがかねてより胸の内に燻ってき
たというだけだ。基本的にこちらが“招く”ことをしなければ他所の者は此処には来れない
が……何も絶対という保証は無い。
(私も、いずれはあなた様に忘れ去られてしまうのでしょうか? 主を失って、狂い……)
その例外、というよりも多くの領域が、誰の者とも決まらず荒れ果ててしまっていると彼
女は聞き及んでいた。本能、自身の機能の一部──成れの果てとしての姿を知識の上では知
っていた。十中八九、自分が一番避けたいと願う最期だった。
“夢守”はあくまで、主が創り出した夢、領域を保守する者。ならば帰りを待つべきその
主が現実へ行ったまま、二度と此方へ戻って来なくなったら? 存在理由として待機してい
る、その意味すら失われたと知ってしまったら?
……壊れるしかないのだろう。ずっとそのまま、永遠に主のいない“理想郷”のままでは
居られないからだ。少なからぬ領域、或いは“夢守”は主との再会が果たせなくなるにつれ、
そうして壊れてゆく。狂ってゆく。やがてはその麗しき姿形すらも維持することが出来なく
なり、異形の怪物へと変わる──世界そのものも一種の魔境へと堕ちる。
好戦的な主達は、己の領域を拡張する為に、この“空き”になった空間を手に入れようと
争っているのだという。怪物へと変わっても尚領域を守り続ける“夢守”を殺し、支配権を
上書きする。そうすれば自身のそれはその分広くなる……という寸法だ。
正直白は、殺る側にも殺られる側にも回りたくはなかった。
彼らのような手合いはごく一部だと思いたい。彼らに狙われるような状況には、何として
でもなりたくはない──そうなった時点で自分は既に、壊れてしまった後だろうから。
「……あなた、様。行かないで、下さい……」
思わず漏れた言葉。涙。きゅっと握り返した彼の手に、当の本人がようやく気付いて目を
覚ましたらしい。何故か泣き出しているその表情に、数拍目を瞬かせて驚く。
「どうしたの、白?」
「っ……! い、いえ……。何でもありません」
なのに当の彼は、無邪気に微笑み返すとその手をこちらからも握り返し、ほのかな熱を彼
女へと伝えた。
愛しているのは、何も彼女から彼の一方通行だけではなかった。そもそも彼女を“夢守”
として創り出したのは──当人の意識無意識に拘らず──他でもない彼自身なのだから。
「そりゃあ僕もずっとこっちには居たいけどさあ……。戻れなくなっちゃうよ、色んな意味
で。何事も、程々が一番長続きすると思うんだ。そこそこ疲れた時にひょいっと寄るから、
白のありがたみが何倍にも感じられるんだしさ?」
「?! 聞いて、おられて──」
「聞こえるというか、感じるというか……。ってか、ここは僕の夢なんだろう? 夢の中で
寝るってのもおかしな話だし、成り立ち云々で言えば、そもそも僕らは“繋がって”いる訳
なんだから。哀しそうな表情をしていたら、流石に判るよ」
「あなた様……」
彼女はだからこそ慌てふためいた。羞恥心で顔を赤くしているのもそこそこに、一方で彼
は、名残惜しそうに彼女の膝枕から起き上がると苦笑を一つ。草っぱの上に腰を下ろしたま
ま、彼女と顔を見合わせた。向こう側には、ログハウス風の小屋──二人の拠点が見える。
「まあ、そのあれだ。白からの話じゃあ、僕以外にも色んな人間がこういう場所にトリップ
してるらしいってのは聞いてるけど……僕は僕だよ。君が必要だったから多分、君は生み出
されたんだし、なら僕にもその責任はある。そこだけは、ブレちゃいけないと思ってる」
最初、初めて此処に来た時は何から何まで驚いたけどねえ……。
あはははは。それこそ出だしは、真っすぐに彼女を見つめて語っていた彼だったが、やや
あって気恥ずかしくなったのか苦笑いで後は濁した。責任──その辺りのワードと目の前の
美女に、オトコノコとして葛藤の類があったのかもしれない。
(わ、私は、それでもいいのですけど……っ!)
こちらも喉から衝いて出ようとして、慌てて引っ込める。ぽんぽんとエプロンドレスの膝
枕を叩いて綺麗にしている最中に、彼は立ち上がった。「ん~!!」ぐぐっと左右交互に肩
を伸ばすストレッチをしつつ、リフレッシュの時間は終了とばかりに深く呼吸を整える。
「あ、あなた様」
「行って……しまわれるのですね?」
「うん。そろそろ昼休みも終わりだし」
故に彼女は哀しくなった。寂しくなった。まだ繋がっているとは、先刻のやり取りで解り
はしたものの、やはり物理的に遮断されるこの瞬間だけは慣れない。今度は何時か? 今度
こそ忘れ去られてしまうのではないか? 化け物に、なってしまうのではないか……?
「……あなた様はどうして、現実に拘るのですか? 尚も、戻ろうとするのですか? 先程
も申しましたように、此方に居る限りは安全です。あなた様を蝕む、様々なものから、私は
あなた様を全力でお守りできます。なのに──」
「ありがとう。でも……行かなくちゃ。その、僕も上手くは言えないんだけどさ。どっちか
だけってのは多分駄目なんだよ。ある程度疲れたら白の膝枕が恋しくなるみたいに、人間っ
てのは、そこそこ鞭打たれてなきゃ自分を保てない生き物なんだ。我ながら、面倒臭いなあ
とは思うけどね……。立ち向かわなきゃあ、いけないんだよ」
彼女は暫し黙り込んでいた。恋しくなると、必要なんだと言ってくれることは嬉しかった
が、さりとて彼を向こう側へ戻ることを止められない。当の本人が、強く望んでいる。或い
は──刷り込まれている。
「私は……」
「うん。大丈夫、戻ってくるから。実際今まで何百回と、疲れた~って度にこっちに来てる
じゃない」
「大丈夫だから。待ってて。もう一回、不自由を浴びに行ってくる」
優しく笑い、手を振って立ち去る彼。
彼女は──“夢守”の白は、草っぱの一角に建っている扉から出てゆく彼を、結果努めて
気丈な面持ちで見送っていた。上品な所作を発揮して、小さくお辞儀を。再び向こう側へと
挑んでゆく主が、再び自分を求めて戻って来る、その時まで。
(了)