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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-117.August 2022
83/249

(3) KENJI

【お題】闇、月、恐怖

 この現象は何と云うんだっけ? 彼はふと気になって記憶の棚を引っ張り回し、調べ始め

てようやく正答こたえを手繰り寄せた。

 嗚呼、そうだ。ジャネーの法則。歳を取ってゆくほどに、一年のサイクルが短く感じられ

るようになってしまう現象。確か理屈としては、人生における“一年”の比率が、年齢を重

ねるほどに小さくなるからだとか。

(……要は、新鮮味が薄れてゆく一方ってことだな。はは、私にぴったりじゃないか)

 引っ張り出した知識、現状の自分と照らし合わせて、彼は内心で自嘲わらう。乾いた笑いで僅

かに頬が引き攣っても、次の瞬間には努めて職務に戻る。現実に──束の間の休憩中、自販

機の前で買ったペットボトルのお茶を数口飲んで喉を潤した後、再び階段を昇って所属部署

のフロアへと引き返した。


 大貫健児は、今年四十二になる事務員だった。

 前の職場こそ会社自体の倒産で辞めざるを得なかったが、今も昔も彼のキャリアは経理を

始めとした事務畑という意味で一貫している。

 しがない、名実すっかり“おじさん”となって久しいサラリーマン。そんな彼も、ふとし

た瞬間に精力的に働く同期や、華々しく活躍する若手を見ていると気後れすることはある。

こうも時の流れは、早いものだったか? 今まで自分は何をやっていたのか……?

(さて、と──)

 自身のデスクに着き直し、彼は未だ残っている事務処理を片付けに掛かった。目の前には

そこそこ年季の入ったデスクトップPCと、紙媒体の資料・マニュアルが数冊積み上げられ

ている。その内一冊を広げ、慣れた手付きで目当てのページを捲ると、そこを時折参照しつ

つキーを叩いてゆく。

 カタカタと、小気味良い音がする。オフィスの方々でそれらは飛び交っている。

 実の所、彼はこの手の環境音が割と好きだった。別に嫌いという訳ではない。尤も長年、

事務方で働いてきた歳月やら経験が、そうした“習性”を染み付かせたとも言えなくもない

のだろうが……。


 地味で目立たない、さりとて堅実。

 彼の周囲からの評価は、大よそ斯くの如しであった。部署の性質上、という部分も決して

少なくはない。長らく彼自身、それは重々理解していたし、大なり小なりこれは必要な業務

であるとの自負を手元に置いてきたからだ。

 それでも──と、彼は思う。

 切欠すらもはっきりと自覚が無い、憶えていない。ハッと気付いた時にはもうこの歳にな

っていて、今更大きな方向転換をするにも難しい。いや、長らく彼という人間が、何かにつ

けて“がっつく”言動・価値観から距離を置いてきたという経緯が大きい。

 激しく、派手な人間関係は要らない。穏やかに暮らしたい──社会に出て早々、ホワイト

カラーの且つ事務方へと進路を選んだ理由は、ひとえに彼のそうした元来の性分が要請する

ものだった。その筈……だった。

(流石にそろそろ、学び直しというのがしんどくなってきたな。規格が変われば、今までも

新しい仕様を覚え直さざるを得なかった筈だが)

 先月、メジャーアップデートされた処理ソフトの扱いを把握し切れておらず、彼は独り誰

かに頼るでもなく苦戦する。よもや業務自体が終わらないというレベルではなかったが、そ

れでも己が、先端の技術概念や操作感に振り回されている自覚はあった。

 一昔はすんなり順応していたのに、今やとんと難しさを……。

 そんな最中でふと、件の現象について思い返していた。軽く小休止を兼ねて一時離席し、

これまでの歳月が、にわかに激流の如く過ぎ去った後のように感じられて独り唇を噛み締め

ていたのである。柄にもなく、黄昏そうになっていたのであった。

「──」

 こんな歳になって今更。彼は己の潜在意識に目を向けざるを得なかった。歳月は何を思お

うが為そうが、只管に過ぎてゆくものなのに、どうして自分達はそこへ“欲気”を乗せてし

まうのか。


“私は、このまま時代(の変化)に取り残されるのではなかろうか?”


 言語化されたのは、先ず斯様な不安としてであった。いや、もっと言えば羨ましかったの

だろう。或いは、もっと若い内に“同じ”ように選んでいれば、自分も彼らのような立ち回

りで日々を飾っていたかもしれない。派手に──大きな案件や躍動感を以って、その存在意

義を他人びとに示せていたのかもしれない。誰か、ではなく、その人物でしか成しえない仕

事が在る。その仕事に関わっているという、他人びとの認知や称賛を貰えたのだろうと。

 事務方は──その点で言えば地味だ。確かに制度上、専門的な知識や実務経験が無ければ

捌けないという業務・分野も多い。常套句を持ち出せば、組織の外側でアグレッシブに動き

回る人材も、内側で堅実にこれらを支える人材も無くてはならない者達だ。そもそも同じ尺

度で、両者を測ろうとする事自体が間違っている。本質に、馴染まない。


『あ~、まぁ……。大貫さんは真面目なのが取り柄だから』

『うっわ~。俺には絶対無理だな。こんな数字だらけの作業、頭おかしくなる』


 ──狂っているおかしいのか?

 営業などで活躍を見せる若手に、彼は時折言われることがあった。褒めているようで、実

際は小馬鹿にされているんじゃないか? 私の業務は、そんなに異質なのか?

 いや……。私の、という所属感すらも、本来は余分な欲気であった筈だ。全体の仕組みや

要領の一つ一つを押さえれば、理屈上誰にでも出来る仕事だからだ。それでも人ごとに相性

があるし、何より専門的とはイコール煩雑ややこしいでもあるため、その“面倒”を誰かに託している

訳だ。雇い、金を払ってでも捌かねば最悪罰せられる作業群だからだ。


 歳月は延々と繰り返される。たとえ観測者本人が、どれだけ疲弊しようとも。その繰り返

しに対し、意味を見出せなくなっても。

 大貫健児は今、まさにそんな浮き沈みフェーズに入っていた。ふいっと気付いてしまい、自覚して

しまい、その辿ってきた道を疑い始めていた。

 どだい時計の針を戻すことは叶わなくとも、迷いは過ぎる。即ち後悔だ。

 自分はもっと、他人に認められたかったのか……??


 ***


 それでも彼は、結局能動的に“今”の生活を変えることはしなかった。長らく染み付いた

習慣と言えばそう、そもそも従来の在り方をぶち破って良いという発想が無かったと言って

もそう。只々これまで通り、地味で堅実な事務員を続けながらも、一旦大きく自覚的になっ

てしまった欲望が“矛盾”していることに密かな悩みを抱いていた。年甲斐もなく──恥や

プライドが邪魔をし、誰にも相談出来なかった。その発想さえ、或いは排斥して久しかった

のだろう。

(──おや?)

 切欠じけんは、そんなある日の帰宅中に起きた。

 何時も通っている駅のホーム。己が乗る一つ前の電車が停まって客達を下ろしてゆく中、

彼は目の前を通り過ぎようとした若いOL風の女性が、肩の鞄から財布を零す瞬間を目の当

たりにしたのだった。カチャンと落ちたそれを、彼は親切心から反射的に拾い上げ、すぐに

差し出そうとする。声を掛ける。

「お嬢さん。落とし──」

「きゃああッ!? 何で私のを持ってるのよ!? ど、泥棒ぉぉーっ!!」

 だが直後、その台詞は寸前で当の彼女に遮られた。はたと気付いて振り向いた相手の顔を

見て、彼女は知らぬ間に盗られたのだと誤解したのだった。恐れもあったのだろう。仕事帰

りの疲弊と日没後の薄暗さ。ホーム下で灯る照明群だけが、彼や彼女を照らしている。背後

の電車も、次の発車時刻に向けて駆動音を留めている。

「えっ……?」

「何だ、何だ?」

「泥棒だって」

「え~っと。あのオッサン?」

「ああ、それっぽいなあ。運悪く見つかったか」

「何やってんだよお。こんな、クッソ疲れてる時に……」

 最初数拍、彼は一体自分の身に何が起きているのか理解出来なかった。ただ目の前、当然

の義務感から差し出された自身の財布を、対するこの若いスーツ姿の女性はまるで汚物を見

るかのような眼で睨み返している。

 周囲がにわかにざわついていた。濡れ衣が着せられてようとしていた。

 降りる人、乗る人。夜間でも忙しなくめいめいに行き交う人々が、一部何度もその列を崩

してこちらを見ているのが判った。少しずつ囲まれ、逃れられない状況が出来上がりつつあ

のが見て取れた。

「──」

 にも拘らず、である。

 盗ったんじゃない。今落されたのを拾っただけなんだ……。そんな“弁明”を先ずは急ぎ

行うべき筈のこの場面において、彼はすぐさまそれをしなかったのだった。寧ろぽかんと、

事態の突然っぷりと騒ぎの広がりに、どんどん吞まれてゆく兆しすら見えたのだ。

「……は、はは」

 そう。嗤っていた。

 驚くべきと言うべきか、この中年を迎えた事務員かれは、期せずしてその欲気を叶える術を見

出してしまったのである。大よそ歪んだ形で、その成就に引き寄せられてしまったと言えた。


 “嗚呼、皆が私が見ている”

 “私を──認識してくれている”

                                      (了)

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