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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-116.July 2022
80/286

(5) ちぎり指

【お題】テント、指輪、記憶

 彼のことは、仮に“F”とでも呼ぶとしよう。

 Fは一見何処にでもいる、しがない工場勤めの派遣労働者だった。世の大多数の者がそう

であるように、薄給と分かりながらも大きく移ろうことをせず、日々月々をただ手一杯に凌

いでいるだけの一般人であった。

「──嗚呼、やっぱりそうだ。よう、久しぶり!」

「?! お前は、まさか……吉沢か?」

 そんな生活を何年も送っていたある日、Fは思いがけない再会を果たした。その夜は仕事

帰りに偶々、駅地下の居酒屋で晩酌兼夕食を摂っていたのだが、そこへひょっこりと中学時

代の旧友が顔を見せてきたのである。

 ニッと悪戯っぽく笑う。背格好はすっかり大人だが、見せた表情かおは間違いなく本人だった。

当時の面影があった。Fは大層驚いたようで、彼がそうだと認めて数拍、二の句を継げず

にこの旧友を見上げるばかりだった。

 着崩し、多少なりとも草臥れの見えるワイシャツ姿。

 彼はFと同じテーブルの差し向かいに陣取り、近付いてきた店員にビールと幾つかの肴を

注文する。「な、何で……?」ようやく絞り出したFの言葉に、この旧友とも・吉沢は努めて気

安く笑っている。

「そりゃあこっちが聞きてえよ~。何となく店の中を覗いたら、お前がぽつんと飲んでやが

るモンだから」

 乾杯! 何はともあれ、先ずは久方ぶりの再会を祝して。程なくしてやってきた肴達もそ

こそこに、彼はFとジョッキを鳴らし合わせた。Fの方はもう三杯目途中だったが、そんな

ことは関係ないと言わんばかりに勢いで。その辺りの快活さも、あの頃から変わっていない

と言えば変わらないが。

「……かぁぁぁ~、うんめえ~! 仕事上がりの身体に染みるぅ~!」

「今年もかなり暑いからなあ。美味い季節にはなるが……あんまり頻繁には来れないな」

 一方でちびちびと。Fは噛み締めるように、繰り返しジョッキに口を付けては静かに余韻

に浸っていた。

 会話になっているようで、なっていない。

 実の所Fは内心、この突然の再会に動揺──拭い難い“気後れ”を感じていたのだった。

 スーツ姿の格好からも、相手はおそらく何処ぞのサラリーマン。一方で自分は、落とし切

れなかった油汚れの跡達が目立つ、よれよれの作業着。目の前の旧友とものような活力とは、あ

る意味対極の位置に暮らしている存在……。

「大体の奴がそんなモンだろ。俺だって今日、偶々お前を見つけてなきゃあ、飲んで帰るつ

もりもなかった訳だし。せめて飲んでる時ぐらいは、パーッと楽しもうや」

「はは。相変わらずだなあ、お前は……ん?」

 だからこそ、寧ろ感覚は目の前の“日常”から遠ざかりつつあった。ふと視界に入った、

この旧友ともの左手薬指に、銀色の指輪が嵌まっているのを見つける。

「お前、その薬指──結婚したのか」

「うん? ああ。二年半ぐらい前になるかなあ? 娘もいるぞ~。ほれ、これ写真」

「……だったら尚更、早く家に帰ってやった方がいいだろ。嫁さんを大事にしてやれ」

「いいんだよ、いいんだよ。ほら、昔っから言うだろう? 亭主元気で留守がいいって」

 頼まれてもいないのに、率先してスマホからまだ幼い愛娘の写真を呼び出し、自慢げに見

せつけてくる吉沢。Fは表向き、冷静に突っ込みを入れてやっている風に見えたが、その実

半分は本気の言葉でもあった。

 ──お前と俺は違う。

 曰く旧友ともは、娘が生まれてから妻が大分素っ気ない風になったと嘆いていたが、一方でま

だ八ヶ月ほどの我が子の姿にメロメロにもなっている。こいつはこいつなりに、半ば本能的

に適切な距離感とやらを実行しているのかもしれないが、その辺りもFには却って自身の劣

等感を刺激する材料となっていた。何より一々そういった要素に着目し、嫌味の一つでも口

にしてしまった時点で“負け”なのだと、Fは思い知ってきたしっている

「ちょいと古風なのかもしれねえけどな。俺が外で頑張って稼いできて、あいつらを楽させ

てやる。自分で言うのも何だが、俺って割とデカリシーないからさあ……。ずっと家に居て

も、あいつの地雷を踏んじまうことが時々あるんだわ」

「だったら何で結婚したんだよ……?」

 思わずFが呆れ、突っ込みを入れるが、当の吉沢自身はそんな己の性分の酸いも甘いも含

めて楽しんでいるようだった。呵々と笑い、あくまで家での主導権は妻にあるとする。そう

望んで、今までの関係と構築してきたかのように。

「で? そういうお前はどうなんだよ? 嫁さんとか彼女とか、いねえの?」

「いる訳ないだろ。この格好を見て分かんないのかよ? 毎日クタクタになるまで働いて、

余裕も何もあったモンじゃねえ、しがない工場勤めだよ……」

「は~……何くさくさしてんだよ? 俺だって似たようなもんだぞ? 毎日営業で走り回っ

て、それでも取って来れる案件は一割もねえ。よく上司や先輩にもどやされてるよ。まあ今

までが割と、ノリと勢いで生きてきたからなあ……」

 だから及ぶ話はお互いの近況報告と、酷くざっくりと形容するならば不幸自慢。

 ジョッキを傾けながら、肴を何となくで摘まみながら。環境は違えど、Fもこの旧友も苦

労しながらの毎日であることには変わりなかった。本来どちらが“上”で、どちらが“下”

だという順位付け自体が不毛なのだ。

「……」

 それでも。Fは内心悶々としていた。相手がどう思っているかは分からないが、少なくと

もこの目の前の旧友ともの方が、充実した人生を送っているように思える。寧ろこれからが大変

だと言えるものの、向こうは妻子がいる。一応は安定した正社員である。足で稼ぐという、

ある種古典的・体育会系のスタイルではあるにせよ、目に見えて社会と繋がりをもって暮ら

している。実像がある──。

「いいんだよ、いいんだよ。お前はお前で。俺みたいな大雑把な奴が出来ないことを、お前

みたいな細かい作業が得意だったり好きな奴がやる。その逆もある。それで何とか、世の中

回ってるんじゃねえか」

「……ああ。まあ」

 だからよ? 暫く滾々、互いの近況やら不平不満やらを話している内に、やがて吉沢は言

った。すっかり酔いが回ってきていた点も大きかったのかもしれない。お互い、赤く火照っ

た頬や据わった眼で語り、見つめ返す。ぐびっと、生温くなり始めたビールを飲み干す。

「今度会う時までに、お互い目標を立てねえか? お前は俺に嫁さんか彼女を紹介する。俺

はそうだな……嫁さんと娘を連れてくる」

「お前の方の難易度、易し過ぎじゃね?」

「し、仕方ねえだろ? じゃあ二人目をって考えもしたが……そういうのは相手あっての話

だからなあ。それこそ、わざわざお前に合わせる為に身重を引きずって来させられねえし」

「へえ。案外紳士的だなあ。っていうか俺も、そこまでして貰って顔合わせするべきような

タマじゃあ──」

「うっせ。じゃあ決まりだな? 今度会う時は、お互いのツレ紹介もってことで。後は何か

出世してたら祝ってやるよ。その時次第で俺の驕りだ」

 思い返せば多分、卑下の気配を感じ取って強引に締めに入ったのだろう。ニッと嗤い返し

てこの旧友ともは、やや食い気味にFへと言い放った。「お? いいのか? 言質取ったぞ?」

「おうよ。漢に二言はない」スッと小指を──鈍銀の結婚指輪を嵌めた、左手の指先をこち

らに向けながら、彼は続ける。

「約束だ。またいつか、こうやって酒でも飲みながら」


 ***


「…………」

 相変わらずの、気だるい寝起きの体調に踏み荒らされながら、おもむろに身体を捻じる。

 Fは数拍してすぐにそれが夢だと理解した。もう何年、十何年にもなる昔の出来事だった

なと思い出した。記憶の像が、脳裏のスライドから薄れてゆき、これらを何の抵抗もなしに

逃がすのが惜しくてグッと手を伸ばす。ゆっくりと視界、天井に自分の左手が映る。

 その薬指と小指は、共に第二関節から上が失われていた。歪に塞がった、肉の栓が、痛々

しく残った三本との長さを際立たせている。

 加えて今いる場所は、天井とは名ばかりの、段ボールとブルーシートで囲われた粗末な寝

床に過ぎなかった。光源はジャンク品の吊り下げランプのみ。それも明朝らしき現在はとう

に消されて押し黙っている。本来の用途から、少なくとも一晩以上は放置されたままだ。

(……吉沢、か。妙な奴のことを思い出しちまった)

 かつての旧友。思わぬ形で交わすことになった約束。

 ただそんな思い出はもう、Fの中では心の火を灯すことにすら足りない。現在いまは只死んだ

ように眠り、起き、物理的な死を待つのみだ。あれ以降、Fはとある事件を切欠に転落の人

生を歩むことになった。とある河川敷近くの橋の下で、ホームレスとなって息を潜めるよう

に生きていた。

 全てはこの左手──仕事中の事故で失った、二本の指にある。

 あの日Fは、不注意から作業ラインの機材に左掌を巻き込んでしまい、結果薬指と小指の

およそ半分を失う大怪我を負った。それ自体も大事故だったが、何より彼にとって不運だっ

たのは、この情報が程なくして外部に流出したことにある。


『●●工場のソーセージに、人の指が入っちゃったんだって』


 勿論、当時この事故が起こって上層部はすぐ製品の自主回収を行った。事実事故当日、同

ラインで生産された代物は全て流通からパージされたのだが……ほぼ同時に広まった噂は噂

を呼び、遂にはF自身の進退にも関わる案件となってしまった。


『本当に、申し訳ないが……』


 犯人は未だに判っていない。F自身、詳しく調べて糾弾しようという気も起きなかった。

当時は物理的にこの怪我で心身や経済的なキャパシティが圧迫され、自身に向けられた悪意

に立ち向かう余裕すら無かったというのもある。ただおそらくは、内情を知る者──当時、

同じラインやフロアで働いていた他のパート従業員、派遣労働者の仕業だったと思われる。

憎たらしい限りだが、どんな場所にも邪悪な部類の噂好きはいるものである。

 Fは結局、自らの意思で職場を去った。もう此処には居られないと悟っていた。中には後

の事を案じる、心優しい人物もいないことはなかったが、大半の者にしてみれば最早“余計

な手間を増やした戦犯”であったろう。


 それからだ。彼がどんどん人生の下り坂を──転落の一途を辿ることになったのは。

 先ず物理的に片手が不自由。只でさえ日々がカツカツな多くの職場で、それらを“配慮”

して雇い続ける良心的なインセンティブは皆無だった。何よりF自身、事故以来周囲の人間

への不信感を深めていた影響もあり、何処へ行こうともその仕事・対人関係は長くは続かな

かった。幾度も尻切れになり、投げ出してしまって、気付けばもう彼の居場所は何処にも無

くなってしまっていたのである。

「……はは」

 記憶の断片。流血、失意、失敗、憎しみの映像ログ

 粗末な段ボールとブルーシートの寝床、ボロ毛布の上で仰向けになったまま、Fは独り哂

っていた。すっかり薄汚れた頬や唇、瞳に被ったニット帽。服は言わずもがな清潔とは言い

難い。新たな仕事を探しに行く姿でも、ましてや旧友ひとと会えるいでたちでも……。

「ははは……。はははは、はははははははは!!」

 悪ぃな、吉沢。

 約束、守れそうにも──。

                                      (了)

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