(3) 鬼籍の森
【お題】おかしい、神様、水
「──やれやれ。また“生贄”ですか。学びませんね、彼らも」
人里から遠く離れた、深い深い山の中で、彼はその犠牲者を発見していた。手馴れた様子
で草木を掻き分け、何処からともなく現れては独り静かな恨み節を吐く。
特徴的だったのは、彼の出で立ちであった。
長く首筋辺りまで伸びっ放しの灰髪に、褪せ気味の黒い袴姿。何よりその顔上半分には、
両目を隠すようにぐるぐると包帯が巻かれ、前髪という名の簾の奥で身を潜めていた。駄目
押しで左右からそれぞれ数本、斜めに巻かれた部分が、後ろ髪の付け根辺りで結ばれ留めら
れている。僅かに隙間から火傷のような痕──過去、事故か何かに遭ったとみえる。
「……」
そしてそんな彼が見下ろしていた相手もまた、奇妙と言えば奇妙な格好をしていた。
木の幹の一つにぐったりと背を預けたまま、半ば死人のように蹲っていた女性である。瞳
は虚ろ、髪はぼさぼさなのは勿論の事、纏っている着物は明らかに山歩きには向かない白い
薄手の衣──死に装束。それでもよく目を凝らしてみれば、所々に刺繍と思しき文様が付随
しており、両袖・裾部分には雨粒のような波形が描かれている。
「なるほど。雨乞い、ですか。この文様は確か……南西のウツガ村ですね。全く、形だけ用
意して、社に連れてゆくこともしないとは。思った以上に“外”の形骸化は進んでいるよう
です。もし私が足を運ぶのが遅れていたら、動物達に喰われてしまっていた所でしたよ……」
もしもし? お嬢さん?
そっと優しく、この目隠し袴の男性は屈み込み、女性を揺すって呼び掛けた。最初数拍は
ほぼ無反応だった彼女だったが、段々と自分の目の前に誰かがいると認識し始めたらしく、
ぱくぱくとか細い口の動きと驚きの眼差しを向けてくる。
「っ──! ッ──!?」
「ええ。無理をしなくて構いませんよ。大丈夫、解っています。間に合って良かった。とに
かく先ずは、これを飲んで落ち着いて下さい」
自分が捨てられた、生贄という体で故郷を追い出された現実は彼女自身、とうに理解はし
ていたのだろう。
それでも尚、一個の人間として生き残りたいという欲求までは、どうやら幸か不幸か消え
てしまってはいなかった。彼から差し出された竹の水筒を目の当たりにすると、ガバッとこ
れに喰らい付き、渇き切っていた喉を潤した。更に彼が残りの水で顔を洗うように指示して
やり、隈だらけだったその表情にも若干生気が蘇る。
はあ……はあ、と、暫く彼女は再起動し始めた自身の生命活動にじっと感覚を研ぎ澄ませ
ているようにも見えた。目隠し袴の男性は、その間もずっと、彼女の前に屈み込んだままそ
んな一部始終を見守ってゆく。
「……落ち着いたかい?」
「はい。はい……。ありがどう、ございまじっ……!」
「良いのですよ。怖かったでしょう? もう大丈夫。貴女の身の安全は、以後私が保証しま
しょう。それと貴女の村の──ウツガの水不足についても」
だからだろうか。彼女は彼がそこまで言及し始めたことで、ようやくその正体や姿・格好
の異質さに気付いたらしい。恐れと畏れ、死にかけた恐怖と“人ならざる者”への畏怖。綯
い交ぜになった感情に、だけども生贄として送り出された妙な使命感からか、彼女は再び慌
てて事情を話そうとした。
「そっ、そうです。私の住んでいた……ウガツや他の村も、今年は酷い日照りで……。この
ままでは田畑は全滅する、死ぬしかないって言われて、長老達の話し合いで、それで──」
「だから共同体の仲間を誰か、対価として差し出す。代わりに何とかしてくれと」
「……本当に、身勝手な者達ですね。端っから、道理も何も解ろうとしない。そんな惨たら
しいもの、誰も要求したことなど無いというのに」
「?? 神……様?」
しかし捧げられた当の相手、森から現れた目隠し袴の男性は、寧ろそんな人里の者達の行
いに憤ってすらいるようにも見えた。傍目、包帯もあって表情にもあまり変化の無さそうに
思えるが、その声色には確かに数拍、揺らめき立つ感情のようなものが彼女には嗅ぎ取れて
いたのだった。命の恩人、或いはこれから犠牲になるのか──縋るように気持ち見上げたそ
の眼に、深い森の只中には不釣り合いな装いをしている彼を捉えて。
「……失礼しました。怯えさせてしまいましたか。ともあれ事実、今年は前回とは違う方角
で偏りが出ているようですね。すぐに伝えて、修正を図りましょう」
ただ少なくともこの時、彼女が彼と最初に出会ったこのタイミングにおいては、それ以上
の追求や思案は叶わなかった。「えっ?」次の瞬間、彼が何処か中空に漂う光の粒らにじっ
と視線を遣って語り掛けるようにし、その一部が音もなく筋を残して飛び立ってゆくのを、
彼女自身辛うじて知覚出来てしまったからである。
「私の名はササライ。皆にはそう呼ばれております。貴女は?」
「わ、私は……。ト、トワ。トワといいます」
「ふむ? トワ、ですか。良い名ですね。ともかく行きましょう」
「ゆ、行くって……何処へ?」
ふいっと、もしかしなくても初めてこの目隠し袴の男性・ササライは微笑う。
「社ですよ。本来貴女が、生贄として直接置き去りにされる筈だった、ね」
一体どれだけ大昔なのだろう? 彼が先導して歩いてゆく道は、確かに薄ら石畳が敷かれ
いた痕跡こそあれど、今やすっかり草木が生い茂る獣道と化していた。
だというのに、当のササライは何の苦もなく滑るように進んでゆく。トワは二度も置き去
りにされないようにと必死に後ろをついて行ったが、彼の不思議な力のお陰なのか、どうや
ら草木の方がそれとなく彼女を通すように揺れて避けてくれているらしい。歩むペースも基
本こちらの方を窺いながら調整してくれているし、時折ちらりと肩越しにちゃんとそこに居
るかも確認してくれている。
(目を怪我されているみたいだけど……視えてるのかな? そもそも?)
初遭遇、最初にその容姿を見て驚いた時が思っていたことだが、神様ならきっと神通力的
な何かで困らないのだろうと、トワは一人納得しようと努めた。その柔らかい物腰、自身の
境遇に義憤ってくれた姿から大丈夫だとの直感はあったが、下手なことを言って本当に生贄
とされてしまうような真似は避けたい。
「さあ、着いたよ」
「! わっ──?!」
そこはまるで、別世界のような“楽園”だった。先刻彼が言っていた、彼本来の古び切っ
た社の鳥居を潜った直後、辺り一面の空気がぶわっと豹変する。濃い緑の匂いと風圧が彼女
の五感を通り過ぎたかと思うと、次の瞬間そこには森の中に切り拓かれた、一個の大きな村
が広がっていた。
あの時の光の筋達だ。音もない何か──自然の恵みに照らされつつ、住人と思しき老若男
女らが、村のあちこちで思い思いの生活を営んでいた。のんびり日向ぼっこをしている者も
いれば、世話話をしながら保存食の下ごしらえをしている者もいる。木の棒に布をくっ付け
た旗を手にしながら、元気に駆け回っている遊んでいる子供達の姿もある。
「これって……」
「隠れ里、という奴ですよ。普段は私などが呼ばないと入れないようになっていますがね。
此処まで来ればもう安全です。色々と積もる話もあるでしょうが、先ずは皆に紹介を──」
「あ、ササ様だ~! ササ様、おかえり~!」
「おかえり~!」
「おかえりなさ~い!」
「ねえねえ。その人だぁれ? もしかして新しい人?」
「それとも、ササ様のコイビト?」
「こっ──?!」
実際、トワが面を食らっている暇は殆ど無かった。里長たるササライが一緒にいるという
のも大きいのだろうが、程なくして遊んでいた子供達がこちらに気付き、駆け寄って来た。
次から次へと、二人を囲みながらやれ質問だの何だのを浴びせてくる。
「はいはい。一気に質問はしないで下さい。からかっても駄目ですよ? 彼女はトワさん、
先ほど保護致しました。他の皆さんにも、知らせて来て貰えますか?」
『は~い!』
「ちえっ。違うのかあ……」
ただ、ササライもササライで子供達の扱いはすっかり手馴れているらしかった。思わず赤
面するトワを余所に、彼らに彼女を紹介しつつ、里の皆にも伝令を頼む。先ずは山中に放置
されていた間の衰弱や怪我の治療と、当面の衣食住が要る──暫くして集まってきた年長の
住人達と、それぞれ矢継ぎ早な挨拶と打ち合わせが進む。
「トワちゃん、だっけ? 酷いモンだねえ。こんな若いお嬢ちゃんを放り出すなんて……」
「でもまあ、来た所がササライ様で良かったよ。誰も取って食いやしないから、先ずは安心
して身体を休めな?」
「っていうかあいつら、まだ雨乞いだの何だのってやってんのかよ……。いい加減にしろよ
なあ。ササ様も、一回ガツンと言ってやりゃあいいのに」
「ねえねえ、トワさん。社の外って今どんな感じ? 私達普段、外に出ないからその辺りの
話には疎くって……」
一通りの自己紹介と、境遇を聞かされた面々の反応こもごも。
年配の女性達を中心とした料理を振る舞って貰い、トワは久しぶりに腹いっぱいの食事を
摂ることができた。意識せずとも勝手に、ボロボロと涙が零れた。そのついで、ちゃっかり
とご馳走を自分達も与りつつ、男衆などが同情だの愚痴だのを披露し合っていた。そもやが
て前者らに摘まみ出され、勢揃いの会食はお開きになる。片付けや新居──トワが当面寝泊
まりする空き家の確保に一部の住民達が動き出し、なりゆきで始まったお祭り騒ぎはあっと
いう間に静けさの向こうへと遠退いていった。
「──はあ、楽しかった。私、本当に死んでないんですよね……?」
「だから言ったでしょう? 誰も貴女を取って食いやしませんよ。血生臭い生贄など、此処
の誰も望んではいない。此処にいる者は皆、心根の優しい者達ばかりです」
がらんと一人になった席でお腹を摩り、ほっこりとそう苦笑いも見せつつ呟くトワ。隣へ
近付いてきたササライが、同じく口元に苦笑を浮かべながらも言う。
「多くの者が、貴女と同じ境遇でしたからね」
「え……?」
遠巻きで“新入り”を迎え入れるべく、奔走する住人達。
そんな姿をじっと見つめるように顔を上げたまま、ササライは少しずつ語り始めた。
「雨乞い、飢饉、疫病──名目は時々によって様々ですが、生贄という因習は何も、神なる
存在に対価を捧げてこれを解決して貰おうという儀式だけとは限らないのです。というより
も寧ろ、そうした名目に託け、自分達のやろうとしている行為への後ろめたさを覆い隠す意
図であり続けた」
「覆い、隠す……?」
「“同胞を切り捨てる”為、ですよ。生まれつき身体が弱かったり、精神に支障をきたして
いたり。或いは生きている内の何処かで、そういった原因となる事故や病に蝕まれてしまう
といった例も少なくない。時にはただ、産み過ぎたという理由だけで子を捨てる。老いて足
を引っ張るだけの老人を捨てる。口減らし、姨捨等と言えば解るでしょうか」
「……」
トワは押し黙った。“神様”と思しきササライが、生贄諸々の儀式に対してかなり否定的
な言い方をしたのにも驚いたが、それ以上にその列挙された理由に、彼女自身当てはまるも
のがあまりにも多過ぎたからだ。
何となく──“そういうこと”なんだろうとは解っていた。要するに消去法で、自分が村
の皆にとって、真っ先に要らない存在だったのだろうと。
幼い頃から鈍臭く、何をやらせても不器用。嫁の貰い手も付かない。そんな中で近辺が干
ばつに見舞われ、暮らしが立ち行かなくなってきた。何かしらの方法で養うべき人間を減ら
さなければ、村全体としての営みが成り立たない。
「……ササライ様は」
「?」
「ササライ様は、神様ではないのですか? こんな山の中で私を助けて下さいましたし、こ
の村だって、社を通り過ぎた瞬間まるで別の場所みたいに……。それにあの時、雨乞いだっ
て判ってすぐ、何かとお話しして対処? を……」
「ああ。そのことですか。私は神などではないですよ。ただ、人里から離れて長く生き過ぎ
てしまっただけです。そもそも、貴女が思っているような神なる者は、この方出会ったこと
すらありませんし。居るのは皆──自然だけです。私が現在里長などを任されているのも、
この痛めてしまった眼のお陰で、余計なものを視ずに済むようになったからだと私は考えて
います。視えないからこそ、きちんと彼らの声が聞けるようになった。意思を伝えることが
出来るようになった……のかもしれません」
ふふっ。彼は言って自身の両目・顔上半分を覆う包帯を触り、急に深刻そうになったトワ
からの問いに答えていた。少なくとも、自分は神ではない。生贄を差し出さなければ、災禍
を引っ込めないような畜生ではない。寧ろ、そんな仕組みをわざわざせっせと組み上げて来
たのは、他ならぬ人間自身──。
「この里は、そうした俗世の理不尽に曝された者達が集まり、暮らす場所です。先程申し上
げました通り、私は成り行きから長を任されているに過ぎないのですよ。……トワさん。貴
女はどうしますか?」
「えっ? 何を……でしょう?」
「これからの方針ですよ。まあ、今はまだ暫く心身を休めて元気になって貰うことが最優先
ですが、希望次第では貴女がこの里の外──故郷の村々とは全く違う土地へ移り住み、新た
な生活を送る為のお手伝いも致します。勿論他の皆さんのように、このまま里へ定住してし
まうことも可能です」
故にトワは、最初彼からのそんな提示に正直心躍った。「本当ですか?」「こんな、天国
みたいな所に?」ササライ曰く、今までも再び遠い新天地で人生をやり直すことを選んだ者
達も少なくなかったというが、トワ自身そんな冒険心は生憎持ち合わせていなかった。とい
うよりも、昨日の今日でそこまで飛躍した未来図を描ける気がしなかったのだ。
「天国、ですか……。確かに、そう感じるのかもしれませんね」
だというのに、当のササライは若干困惑しているようだった。哀しそうに、自嘲めいた笑
みを小さく零していた。
「??」
「ともあれ、そう急がなくてもいいですが……出来るだけ早い内に決めておいて下さると。
一度此処に暮らすとなれば、もう後戻りは利きませんから」
「どちらにせよ貴女は、もう自身を捨てた者達を関わってはいけない」
急がなくてもいい。そんな里長・ササライからの言葉は、居場所を失ってしまったトワに
とっては少なくとも非常に大きな救いであったことには変わらない。
暫くの間、療養とリハビリの日々を送った後、彼女は結局半ばなりゆきのまま、里の皆と
暮らす未来を選んだ。古びた社に隠れ、守られた結界の中。少しでも恩返しがしたいと、サ
サライや里の仲間達の手伝いに奔走する内に、気が付けばすっかり彼らとも打ち解けていっ
た。頼られ、姿を見かければ明るく声を掛けられる──相変わらず生来の鈍臭さは直り切ら
なかったが、それでも故郷の村にいた頃よりは、ずっと自由にのびのびと暮らせるようにな
ったと彼女は自負していた。
里を駆け回る子供達の笑い声や、井戸端会議の中年女性達。畑仕事や狩猟に出掛け、帰っ
て来る男衆。そうではなくとも、知識や学問で貢献する教練場の青年。いずれ里の外へ巣立
つかもしれない世代に、授けられるものがあるのなら……。
***
「──うん。今日のいっぱい採れた♪」
この日トワは、里の仲間数名と森の奥で山菜採りに出掛けていた。最初は背負っていた籠
も重くなってきて、今は足元に本日の成果入りでごろんと。何が何処に生えていて、何より
どれが食べられるのか? 食べては駄目なのか? そうした知識もすっかり、皆と過ごす中
でついた。成長と達成感をじわじわと感じられる。
「お~い! そろそろ切り上げようか~」
「そうだねえ。日が落ちる前に戻らないと……」
「これだけ採れりゃあ、暫くはご馳走に困らないな。素揚げに煮物、天ぷら……」
「ササライ様は天ぷらが好きですから、今夜は天ぷらですね」
「あらあら? 流石はササライ様の奥様候補ねえ。すっかり好物まで把握しちゃって♪」
「ちっ、違いますよお! わ、私はそんなじゃ──」
しかし平和な日々も、文字通り“永遠”には続かなかったのだ。ある意味で彼女は、自ら
の手でそれを捨てかねない選択をした。一通り採取を終え、帰り支度をしていた最中、トワ
ははたっと森の入口側から不穏な者達の声を聞いたのである。
『悪いな。鮮婆』
『こうでもしなきゃ、俺達は……』
殆ど、条件反射的に動いていた。トワはそれが口減らし──かつて自分が受けた所業と同
じだと理解した瞬間、仲間達が気付くのもそこそこに地面を蹴っていた。
普段のはにかんだ苦笑みは消え失せて殺気。ミシミシッと全身に滾る力がその身体を弾か
れたように動かし、複雑極まる森の中を目に留まらぬ速さで縫ってゆく。
「──!?」
「なっ、何だ!? おめえ?!」
「……それは、こっちの台詞よ」
一体どういう心算? 山中に分け入っていた男二人──姥捨て役の村人にとっては、それ
こそ茂みから突如として現れた猛獣にでも見えたのだろうか? 或いは元よりその後ろめた
さを自覚していたからこそ、誰かに見られてしまったという事態に対し、過敏に反応してし
まったのか?
トワは湧き出る怒りを抑え込むので必死だった。目は血走っている。採取時に使っていた
鉈がまた片手にある。相手の返答如何によっては、即凶器へと変わったかもしれない。だが
実際にはそんな思考すら、この時の彼女には余裕が無かった。憎悪の念に、全てが上書きさ
れていた。
「っ……! こいつ、まさか……?」
「森の化け物? 嘘だろ。何でよりによって、俺達の時に出て来るんだよ!?」
しかしこの時対する男達は、相手を“面倒な目撃者”ではなく“敵わない異物”として認
識したらしい。驚愕と怯え、要領を得ないやり取りと噂。そもそも目的──老婆の置き去り
自体は達せされているのだからと、彼らは次の瞬間、悲鳴を上げながら一目散に逃げ出して
行ったのだった。「! ま、待ちなさい!」トワは尚も怒りに駆られ、これを追撃しようと
したが、すんでの所で押し留まった。足元ではあの時の自分と同じく、虚ろな眼で簀巻きに
された老婆が転がっていたからだ。
「お婆ちゃん、お婆ちゃん! しっかりして! 大丈夫だから。すぐササライ様を呼んで来
るから──」
「私が、どうかしましたか?」
ちょうどそんな時である。事態は急を要する。慌てて来た道を戻り、仲間達にこれを知ら
せようとしたすぐ背後から、いつの間にか当のササライが現れて声を掛けてきたのである。
「ササライ様!」トワはぱあっと、焦りや怒りの余韻こそありながら表情を明るめた。早速
助けて貰おうと、彼の下へと駆け寄る。
「……トワ。君は今、大変なことをしてくれましたね」
「えっ?」
だがササライの、かつて自分を助けてくれた恩人の様子は険しかった。
目の前におそらく捨てられた──放置しておけば失われる命が少なくとも一人はいる。に
も拘らず彼は、次の瞬間スウッと遠く森の向こう──男達が逃げ去って行った方向を見遣る
と、その包帯越しの眼光を発揮。トワの耳にも、遠くから彼らの悲鳴とけたたましい崩壊の
音が聞こえた。どうやら落石か何かに巻き込まれたらしい。
「……ササライ、様? あの……」
「トワ。ずっと以前、私は貴女に言いましたね。里に住むか新天地でやり直すか、いずれ決
めて下さいと。そして同じく、自身を捨てた者達と関わってはいけないと」
「あ──」
そこでようやく、彼女はササライが何を言わんとしているのかを理解し始めた。自分は咄
嗟にこの老婆を守るべく、あの男達の前へと躍り出たが、あれははたして故郷の村の者達だ
ったのだろうか? 仮にそうでなくとも、人伝に自分が今も生きていることが知られてしま
う可能性はないだろうか?
「苦渋の決断、でしたがね。残念ですがあの二人には死んで貰いました。あのまま彼らの村
に戻られ、情報が広まってしまえば、貴女は勿論里の皆にも危険が及ぶ可能性があります。
貴女も聞いたでしょう? 彼らは里に住む私達を、化け物だと言って恐れている」
あれだけ方便に使ってきた、神とやらと同一だというのにね……。ササライはそう特段ト
ワに向けるでもなく呟いていた。されどトワは、今やすっかり里側の人間となってしまった
彼女は、自分のしでかした行いに打ちのめされる他ない。
「ですが、あの二人の口を封じたことで、最早可能性を無くすことは出来なくなりました。
村の者達が事故死と見ようが、森の怪物や祟りの仕業だと見ようが、彼らに私達を攻撃する
口実を与えてしまったからです。何より私は、里を守る──その大義の為に、居合わせたあ
の二人を殺めました。それはトワさん。村全体の存続の為、枷になる村人をこの山に捨てて
も仕方ないとする彼らと、本質的に変わらないのではありませんか?」
「…………」
ぐらぐらと、目の前の世界が赤や青の明滅と共に揺らいでいた。
淡々と彼に指摘されているからだけじゃあない。トワは、自分で自分を痛め付けるが如き
激しい後悔でろくに立ってはいられなかったのである。「何だ? 何だ?」ようやく追い付
いて来た採取仲間らが、ササライまでいつの間にか来ていることに驚きつつも、一体何事な
のかと頭に疑問符を浮かべている。浮かべて──簀巻きの老婆に思わず顔を引き攣らせた。
大きく反射的に飛び退いた。
「私、は……」
「化け物。確かに外の人間達にとっては、私達の存在は異常に映るのでしょう。私のような
星読み崩れは勿論の事、里に来てから二十二年経った今も殆ど姿の変わらない貴女。他の、
里に山に長く住み続けた皆さん」
「……」
「トワさん。貴女は以前、里ことを“天国”のようだと仰いましたね。ですがそれは何も元
から、里が多くの皆にとっての理想郷だったからではありません。“俗世”から徹底して距
離を取ってきたからこそ、維持してこれた平穏なのですよ」
(了)