(2) イン・サウンド
【お題】窓、音楽、現世
少女が自身と周りの間に“壁”を感じ始めたのは、中学に上がるよりも暫く前のことだっ
た。少なくともそれ以前の幼い頃から、違和感が常日頃隣に在ったのだと記憶している。
……音だった。他人の声や気配、様々な物音といったものが、頭の中に沢山響いてくる。
いつも大きくって敵わない。ただ最初は、それが当たり前だと思っていたのだが……どうや
ら他の子供や周りの大人達は違うらしい。
故に少女は、いつも疲れを引き摺りながら生きてきた。にも拘らず、周りの人間はそんな
彼女を理解しようとはしなかったし、何より事情があることを知る由も無かった。長引くそ
の異質さを危ぶんだ母親が、彼女を病院に連行──対症療法としてのイヤーマフを使い出す
ようになるまでは。
『な、何を勝手に……。本当にそんな病気があるというのか? 近所の人間に知られたら、
一体どうなると思ってる?』
しかし、そうして正式な診断が下された後も、周囲の理解は必ずしも得られた訳ではなか
った。
病院から帰って来た後、一通りの経緯を聞いた父親が開口一番眉を顰めたのは、そんな別
の意味での懸念。娘を心配する気持ちよりも、初めての経験・伝聞に、疑心や不安の念が勝
ってしまった形であった。
たとえその本心が、妻の独断専行に物申す意図であったとしても、当の娘の出端を挫く
──心を折ってしまうには十分過ぎたという意味で。
『おい、里中。何だそれは? ふざけているのか? 校則違反だぞ、こちらに渡しなさい』
『えっ? 医者に言われて……? いや、逆だろ。そんなモンを着けているから、耳が悪く
なるんじゃないのか?』
『あはは、いくら何でも大袈裟過ぎでしょ~。あたしだって、耳には自信あるわよ?』
『うむ。事情については、聞いているんだがな……。だが、他の生徒達の前というのもある。
授業は聞く為のものなんだ。せめてその間ぐらいは、外せないのか? 君だって、人の話
を聞くつもりが無いと勘違いされるのは嫌だろう?』
『おい、君。電車の中ぐらい、耳のそれを外しなさい。周りの人達が不愉快だろう?』
『……ったく、最近の若いモンは。本当、自分が楽をする為の屁理屈だけは、達者にこしら
えて来やがる……』
歳月が経ってゆく毎に、少しずつ周りの──世間からの認知度は上がってきたのだろう。
だがそれでも、彼女が成長してゆく過程には間に合わなかった。
受け持った担任には、贅沢な娯楽品を持ち込んでいると思い込まれ、そもそもヘッドホン
と区別できない人間も少なくなかった。或いはこちらの症状の深刻さに気付かず、笑い飛ば
す級友、周囲との軋轢回避を優先する大人も多かった。時には頭ごなしに、前時代の正義感
でもって積極的に“説教”する老人とも出くわした。あからさまに不快感を表明して憚らな
い、マウントを取りたいだけの露悪漢にも、一体どれだけ絡まれたか……。
「──」
こびり付くように離れず、重苦しいばかりの日常。
少女は現在、高校生となっていた。ガタンゴトンと、規則正しいようで不規則な電車に揺
られつつ、ぼんやりと一人流れゆく景色を眺めている。
彼女の心は……すっかりと磨り減ってしまって久しかった。時代が、彼女達のような苦し
みを抱える人々を認知するようになった所で、社会はそう簡単には変わらない。まだまだ年
若い一介の女子高生にできたのは、社会を自分に従わせることではなく、自分が社会の側に
合わせることだった。
たとえ不本意であったとしても、それが“現実”だと言い聞かせて。
圧倒的な“現実”なんかに、どれだけ抗っても無駄だから──ただでさえ、毎日のように
気だるくて堪らないのに、無駄にエネルギーを消耗するなんて格好悪いと吐き捨てて。
『~~♪ ~~♪』
それでも変わらない点があるとすれば、彼女が着けているイヤーマフだろうか。既にあの
頃から数えて、何代目とも分からないぐらいに使い潰してはきたが、今や日常にとって欠か
せない相棒と化して久しい。……時代の流れ、技術の進歩とは偉大なものだ。かつては只々
周りの物音を軽減させる為だけの耳当てだったそれが、今ではイヤホンジャックさえ繋げば
いつでも何処でも音楽が聴ける。好きな音で、感覚を満たすことができる。
元々音に敏感な体質というのもあって、気が付けば彼女は音楽というものが好きになって
いた。最早趣味、日常の一部と言ってしまっても良い。
尤も……それは自ら演奏しようとか、歌おうとか、そういったベクトルのものじゃない。
あくまで“現実”から己を切り取り、避難する──退路を確保し続ける為のツールという側
面が強かった。実際彼女の音楽に対するスタンスは「聞き専」であり、こと他人の歌声より
も楽器単体の曲を好んでいた。BGMや一部のSE、聞くに堪える純粋な音響の類である。
(んっ)
もうちょっと、大人しい曲調の。
ケーブルに付いているリモコン部分を弄り、音量と選択中の曲を変更。昂り過ぎた意識と
脳内のテンションを、一旦落ち着いたものへと静める。シフトする。
生来音に敏感な彼女ではあったが、お気に入りの楽曲やラジオ番組など、能動的に聴く分
には苦痛は起こらなかった。寧ろそうした好きな音に満たされることで、ようやく安心感を
得ることができる。日々を何とか乗り切ってゆくことができる。
登下校や遊びに行く足たる電車の中でも、学校の中でも。ジャックに繋いだ音が外に漏れ
ぬよう、調整は日常的に細かく行ってきた心算だ。それがいわゆるマナーというものだし、
ひいては余計なトラブルを呼び込まない為の自衛手段でもある。
『~~♪』
それでも……彼女自身、解っていない訳ではなかった。こういう態度が、対症療法の延長
上として染み付いたルーティンが、根本的な解決には程遠いのだということを。自分が好き
な、都合の良い音ばかりを集めて他の環境音を嫌うなど、詰まる所はただの我が儘ではない
のか? と。
しかしながら、そんな時になって決まって彼女は思考を打ち切る。益体の無いものだと切
り捨て、再び自分の音に閉じ籠もる。
“解って貰えなくたっていい”──ずっと昔に決め込んだ頑なと、時々寂しさで間口を開
けては閉める外への眼。少なくとも少女にはもう、今の回答を完全に解体してまで探し直す
意欲は残っていなかった。エネルギーの無駄だという体験の数々が、身にも心にも刻み込ま
れて変わらなかったのだ。
『──次は~、蔵井中、蔵井中~。三番ホームに停車します。お出口~右側です』
ちょうどそんな時だった。ふいっと楽曲の向こう、イヤーマフの外側から目的の駅名がア
ナウンスされるのが聞こえ、彼女は顔を上げた。電線が区切るような街中を通っていた車窓
は、いつの間にか駅構内に進入。煌々と自己主張の激しい電光掲示ばかりが目立つ。静かに
小さな嘆息を漏らすと、彼女は一旦リモコンで再生をストップした。
ざわざわ。間の抜けた到着メロディーが鳴り始めると、示し合わせたように車内の扉が片
側のみ一斉に開く。続いてそれらに釣られるようにして、周りに立ったり座ったりしていた
他の乗客達が動き始めた。正直彼女にとっては、日常の中で最も好きではない音の一つであ
ったりする。……煩過ぎるのだ。数え切れない他人びとの気配と足音、声に構内で響き渡る
幾つものアナウンス。なまじ耳が良過ぎる所為で、その全部が脳味噌にしまい込まれてしま
う。歌付きの楽曲を好まない理由と同じだ。言葉の意味を、こちらが必要だと選んでもいな
いのに解読し始めようとする。処理量が、情報が多過ぎてパンパンになる……。
「──」
扉を跨いでホームに降り、周りの人ごみに紛れながら階段へ。気持ち俯き加減でのろのろ
と進んでゆく。マフの本体をそっと撫で、指先を再度ケーブルに。止めていたお気に入りの
演奏曲を流し直す。
少しだけ……頭の中になだれ込もうとしてきた音達を追い払うことができた。それでも眉
間に寄った皺はすぐには消えずに、彼女は暫く硬い表情をして駅構内を進んだ。ICカード
の入った財布を改札機にかざし、やや足早になって人ごみから抜ける。他人に囲まれている
だけで、その気配に押し潰されるような錯覚に襲われるからだ。
(あっ……)
なのに何故だろう? いや、またか。何気なく、道中見上げた天井から下がっていた電光
掲示板に『人身事故の影響で遅れがでています』との表示が流れているのを見つけたのだっ
た。とはいえそれ自体、日常的に駅を利用している者にとってはありふれた光景。事実行き
交う他人びとも、その殆どがこの情報に気付くこともなく次々と素通りして行っている。
「……」
だからこそ彼女は、数拍その場で立ち止まっていた。この掲示板を見上げたまま、表示が
別の情報に切り替わる次の瞬間まで、暫し佇んで耳を澄ませる。スゥン……と、何処か辺り
の響きが遠くなるような、そんな心地が欲しくって。
実際の動作にすれば、ほんの四・五秒程度だろう。ややあって彼女は、また一人歩き出し
た。行き交う他の人々と同様に、構内の埋没した個性の中へと、敢えて望んで消えてゆく。
嗚呼、そうか。
今日もまた、きっと誰かが“耐えられなかった”のだろう──。
(了)