(1) 底夢(ボトム)
【お題】十字架、光、魅惑的
眩しい輝きに包まれたようで、ついおもむろに手を伸ばした。だけどもその距離は現実に
は遠く、掴めたものは虚空だけ。まるで違う冷たい空気感と、暗がりが自分を包んでいるの
だと改めて理解する。
──此処は、ずっと“下”だ。自分は“下”なんだ。
当たり前過ぎる、それでもずっと、心の何処かで「違う」と信じたかった現実を前に眉を
顰める。途端に足元は一面塗りたくったような闇色を強め、前後左右・上下の把握すらも覚
束なくなる。尤もふわりと、軽やかなそれという訳ではない。立っていること、それ自体が
不確かに思えて、身体と心のバランスが崩れそうになる……そんな感触。
もう一度頭上を見上げる。眩しい輝き、ずっと“上”に居る人々の姿こそが、光の正体だ
った。別に自分がそうだという訳じゃあないのに、その漏れた明かりを勘違いして、先程は
手を伸ばしてしまった。不相応にも若干、頬を緩めてしまった。
彼ら、彼女達とは違うのだから。文字通り、住んでいるセカイが違うのだから。
……いや、解っている。知っている。彼らとて皆が皆、始めからああやって輝きを纏って
いた訳ではなかろう。それぞれの紆余曲折、苦労した時代なり経験を積み重ねたからこそ、
今ああやって光を放って上空へと浮かんでいる。彼らの間でも、彼らなりに抱える苦悩や不
安というものは在るのだろう、とも。
それでも──彼ら・彼女達がいわゆる“成功”を掴んだ客観的事実には違いはない。一見
すればポッと出の類でそこへ登り詰めた者達とて、それまでの道のりを思えば大きな収穫で
ある。たとえ一時の栄華であっても、富める時に富み、蓄えることが賢明だろう。
ただ、勘違いしてはいけない。
彼らの“成功”はあくまで彼らの“成功”であって、自分達、己の“成功”とはイコール
ではない。決して同視してはいけない。
あんな(ふざけた)奴でも──束の間の慰みにこそなり得るかもしれないが、忘れるべき
ではない。見落としては醜態を曝すだけだ。繰り返すように、一見ポッと出の“成功”を果
たした者達ですら、間違いなく“成功者”なのだ。名も知らぬこちら側、他人に知られるよ
うな存在となった時点で、少なくとも自分とは訳が違う。おどけて誤魔化して、そう見せて
いるだけのことだ。負けている。比較して笑い飛ばす時点で、物事を正確にすら測れていな
い。
彼らは“上”だ。
自分達は“下”だ。
解らないのか? 手を伸ばしても絶望的に届いていないのに。歴然とした距離が、其処に
は横たわっているというのに……。
何者かになりたい。ならなければならない。
そう願うようになったのは一体いつの頃からだったろう? 思い込むようになったのは、
なれなければ価値が無いと“価値を付ける”ようになったのは、一体何が切欠だったのだろ
う? ナンバーワンよりオンリーワン。いつか何処かの綺麗事は、結局後者レベルになった
時点で前者を兼ねると知った。知られて久しくなった。自分達はランク付けから逃れられな
い。登り詰める悦びと野心を知った先駆者らは、こぞってその序列を崩させまいと腐心する。
或いは──後続が追い付いて来ては都合が悪いからと、逆にこれらを否定するようなこと
を言う。もっと“自由”にやって良いんだと言う。
真に受けたカモ達への責任など、端から取る気など無い癖に。
教えてくれと言わなかったから──。それもある意味、自己責任の類ではあろうが。
何者かになりたい。ならなければならない。
そして自分達の間には、明確な差が在る。言わずもがな、天を仰いだ輝く“成功者”達だ
けではなく。こちら側の互いにも。……“下”にも差異は在る。誰が、何処が一番の「底」
であるかは判らない。競い合うように、しばしば上を見上げることさえ疲れ、忘れてしまっ
た者達は叫ぶ。罵り合う。
『そんな……。私なんか……』
『何でお前なんかが、上に……!?』
『てめぇの居場所はっ、こっちだ! てめぇは俺の……“下”だッ!!』
伸ばした手は、一体何度虚空を掠めただろう? いや、それ以前に足元すら不確実で覚束
なく、油断をすればすぐに崩れ落ちて吸い込まれてしまいそうで。耳を澄ませば、疑い始め
てしまえば、そこから放たれている無数の感情に押し負けてしまいそうで。
最初、気付いた時に自身が立っていた場所が、必ずしも底の底とは限らないだろう。寧ろ
現実とは、自分が未だ如何に恵まれているか──もっと苦悶という闇の中に呑まれて生きて
いる者達の存在を知り、自らに喝を入れざるを得ないシーンの繰り返しとも言える。“上”
を目指してがむしゃらに邁進するよりも、時折そこより“下”に何が広がっているかに目を
凝らし、立ち止まりつつ迷うものだ。行く先を決めあぐねたまま、時間切れにすらなってし
まうことも珍しくもない旅のようなものだ。
覚束ない足元。
何かの拍子次第で、すぐにでも崩れてしまう、己が寄って立つ感触。
それらはなべて眩しい輝きではなく、得体の知れない暗闇であってきた。尚且つ後者に絡
め取られまいとする攻防が、およそ持ち時間の多くを占めるのだろう。見出したその足元の
深みに対し、内省や侮蔑、忌避などの何と捉えるかは自分次第ではあるが……。
──自分達は夢を見ている。何者かにならなければならないと、なれなければ存在してい
る価値など無いと、必死になってそれらを担保してくれる何かを探している。自分のものに
してみせると、血走って足掻き、執着している。即ち各々が背負う、罪の形そのものだと言
っていい。そう呼ぶべきなのかもしれない。
バックパック。誰に頼まれたでもなく荷物を背負い、ずっとずっと“上”へ、光り輝く方
へ登らんとする強制力。ただ大半の者達はそうした目的も、意識すらも気付けば喪失して久
しく、大なり小なり暗がりの中に安住する。頭上から注ぎ込む──或いは自分よりもまだ明
るいと思い込む、他の光源を頼りに身を屈めて。
夢を見ていた。
ただ眩しかったから、綺麗だと思ったから。無根拠に、自分もああいう風になれる筈だと
子供心に信じて……諦めて。
憧れは、理解に対する対極の位置。大きく振れていれば振れていたほど、その揺り戻しは
大きかった。努力や時間、物心つく以前からの環境。言い訳だけなら幾らでも挙げられるの
に、成果は終ぞ上げられなかった。その事実達がまた、気付けば気付くだけ、己を暗がりの
中に固定してゆく。まるでそうした“罪”の報いを受けるように、重苦しい思いだけが積み
重なってゆく。成果ではないものが、自身の得たものとして定着してゆく。即ちずっとずっ
と“上”に在る成功達とは、似ても似つかない距離が拡がってゆく……。
──眩しい輝きに惹かれて、手を伸ばした。その先が斯くも茨の道とは、何も知らなかっ
た自分は考えもしなかった。
──おもむろに伸ばした手は、何度となく虚空ばかりを掴み、冷たい空気感と現実を一層
強めるだけで。憧れたものは、目指したものはあまりにも遠くて。
次々に落ちていった。あなたも私も、名も知らぬ誰かも。暗がりは、自分達が視えていた
以上に深く長く、何より気が遠くなるほど重層的だった。
僅かな明かり──目くらましに騙されて、一体どれだけの時間を浪費しただろう? それ
が判っただけ、まだマシだったのだろうか? 儲け物だったのだろうか? それでも結局、
各々の持ち時間が無くなれば、またゼロからの再スタートになる。持ち越せない限りは意味
が無い。もがいて彷徨って、辿り着けずじまいの何処かで、その荷物を置き去りにすること
になるのなら。
(此処はずっと“下”だ。自分は“下”なんだ)
それでも手を伸ばしたくなる。届かないと判っていても……尚。
あのずっと“上”、眩しく輝いているセカイは、自分よりもずっとずっと歩み続けて勝ち
取った誰か達のものだ。無数の自分達、暗がりの底へ底へと沈んで行った者らの上に立ち続
けることで成立する、華々しいと同時に苛烈なセカイだ。
人は彼らを絶賛するだろう。さも万人が目指すべき、輝かしい目標とその対価であると宣
伝するのだろう。各々それが半分事実で、半分偽りだとは知っている。とうにポーズだとは
解っている。だけども止められない。清濁の濁を大っぴらに認めてしまったら、今ある重層
構造は脆くも崩れかねないだろう。
改革を叫ぶのは、あくまでメリットを享受できるポジションに在るからだ。それらを上回
るデメリットが避けられない時、人は口を噤む。知らなかったと言い、もっと自分よりも他
に適切な人材──責務を負う者がいるだろうと嘯く。全員主役の舞台など、観る側からすれ
ば興覚めの一言に尽きるのだから。
輝きを見つめる。共に咲いた、素晴らしい一輪の華を、大切に掬い上げる。
だけどもその地面の下には、何百・何千倍もの泥がびっしりと詰まっている。黒くて汚く
て、何よりも中途半端で、どうしようもなく(今は、今も)視るに堪えないもの達だ。
忘れてくれるな。せめて意識の後背、認識の片隅に。
どうか……どうか……夢をみた成れの果てを。
(了)




