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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-110.January 2022
49/249

(4) 牙含(ぶく)み

【お題】車、暗黒、可能性

「……遅っいなあ。トロトロ走ってんじゃねえよ、ジジイ」

 早朝、一人で車を走らせていた私は、そう誰にともなく悪態を吐いていた。途中で別の道

から合流した、おそらく老人が運転している思われる──四つ葉マークの乗用車に、前を低

速のまま塞がれてしまっていたからである。

 ハンドルを握った手に、キュッと気持ち力が籠り、自分の言葉に少し目を見開いた。普段

人前に出ている時は、絶対に使わないような喋り方だ。

(いかんな。これから今日一日だっていうのに)

 こと朝の一分一秒は貴重且つ、油断しているとすぐに消費されてゆく。人並みに苛々して

いるのだろう。眼鏡越しの目を普段よりも割り増しで凝らし、私は通い慣れた会社までの道

を走らせてゆく。

 前方の車、老人の運転するグレーシルバーは、相変わらずのろのろと進んでいるように感

じられた。実際制限速度ぎりぎりで走っているのだろう。確かに法律上“最大速度”と同義

ではあるが……よりにもよって、こんな気が急いている時に杓子定規に守られても正直迷惑

だった。

 何処の道かにもよるが、プラス十キロぐらいは皆普通に出している。現実問題、そういっ

た“了解”を優先しなければ、事が回らないという例は数え切れないほど在る。どれだけ決

まりは決まりでも、結局最後には“大多数が快適”な方に流れる──尤もそれらが、マナー

的な不文律として押し付けられ始めた時点で、本当にコンセンサスを取れているかは怪しく

なってくるが。

 さっさと抜いてしまおうにも、ちょうど道は一車線の緩やかな上り坂。加えて少しずつ右

にカーブしてゆく一帯のため、下手に中央をはみ出せない。もし対向車が来ていてぶつかり

でもしたら、出社どころではなくなってしまう。何よりこんな見も知らぬ老人の、自分のせ

っかちの所為で大損をくなど、馬鹿馬鹿し過ぎて割に合わない。

「……」

 何事も、堅実が一番だ。私もすっかりいい歳になって久しい。

 若い頃のような、際限を知らぬ背伸び──夢を見る必要はない。いきなり、人生が良い意

味でひっくり返るレベルの幸運は起こらない。それまでに培ってきた、分相応の成長が実感

できれば万々歳というのが凡人の人生だ。逆に、悪い方には割合すんなりと転ぶ。私達が注

意を配るべきは寧ろそういった方面なのだろう。

 ハンドルをくいくいと。

 右曲がりの坂を登り切ると、ワゴンの対向車が一台過ぎてゆくのが見えた。側面に何か書

いてあったから、何処ぞの会社か施設だろう。後者なら時間帯的に利用者の送迎か。

 老人の車は、まだ暫く私の前を進むようだ。二つほど横道が合流する交差点を素通りした

後、信号待ちになって車体は停まる。私を含め、後続が数台息を潜めてめいめいにマスク越

しの呼吸をしていた。バックミラーに映る彼・彼女らは、誰もが内心大なり小なり苛々して

いるように見える。

(……この時点で三十七分。次の通りが混んでいなければ、十分間に合いそうだな……)

 運転席傍で音もなく点滅する時刻を一瞥し、普段のそれと同様、頭の中で駐車場までの概

算を弾く。先刻はこのグレーシルバーに内心振り回されたが、結果的に大して悩ましい変化

がやって来るでもない。本当に、気が急いていただけだ。

(お?)

 信号が赤から青に。すると老人は、目の前の交差点を左折して走り去って行った。まあ正

直、そちらに往くつもりだったのなら、もう少し早めに指示器ウィンカーを出しておいてくれよとは思

ったものの……。


 私は右に曲がる。私が乗る車は、社屋のある大通り傍の横道へと入る。


 いつもの光景だった。後続についていた他の車も、対向車線から姿を見せては過ぎ去って

ゆく他の誰かも、まだ朝靄残る時刻にそれぞれの義務感・ルーティンの中で突き動かされて

いるように見えた。別段、疑問に思うことは多くなかった。

 ──だがはたして、それは“平穏”とイコールなのだろうか? ふいっと疑問に思う。き

っと、必ずしもそうではないのだろう。私達は皆、それぞれギリギリのバランスの上で成り

立っている。先刻、老人のマイペースな運転に苛立っていた、今朝の私のように。

 皆日々、何かを含んで堪えている。

 そのはたと、己の中に湧いた害意を、気付いた傍から努めてぐっと呑み込んで。

「おはようございます」

「あ。おはようございます~」

「……おう。おはようさん」

「おはようッス、先輩」

 これもまた、いつもの風景。オフィスと呼ぶにはそこまで小綺麗じゃあない、作業場感に

溢れた我が職場から返ってくる声。事務の女の子や、基本不愛想な上司。少々普段からタメ

が過ぎる後輩青年ほか。彼らもまた──何処かでイラッとした瞬間を迎えたのだろうか? 

それとも今から、この時点ときから抱くことになるのだろうか?


『……遅っいなあ。トロトロ走ってんじゃねえよ、ジジイ』


 当然だが、私達は聖人君子じゃない。苛立ちもすれば、気紛れでいわゆる善行に傾くこと

もあるかもしれない。

 ただ正直な所、今朝のようなふとした瞬間、自分でも意識していなかったような悪態が衝

いて出てしまうような場面は……ショックだった。こんな表情・感情が未だ在るのかと驚い

たくらいだ。もっともっと私は、日々の忙しさで磨り減り、随分と前からそんな“余分”な

エネルギーを発揮する無駄など失せていたとばかり思い込んでいたものだから。

 そう。思い込みだったんだろう。

 安易に主語を、他人へと拡張するのはあまり褒められたことではないのだろうが……私達

には大なり小なり、現代いまもある種どす黒い刃のようなものが腹に埋まっているのだと思う。

獣な部分というか、何というか。

 普段は隠しているつもりでも、理性ある人間として克服した気でいても、それは常に表へ

と出てくる瞬間を狙っている。見定めている。隠せば隠すほど、きっとその反動は大きい。

長く認めなければ認めないほど、いざ飛び出した時の破壊力は、他でもない自分自身でも制

御不可能となってしまうのではなかろうか? 私が恐れを抱いた理由は、おそらくそこにあ

った筈だ。

 もし衝動に身を任せてしまえば、その揺り戻しは最早取り返せないレベルにまで激しさを

伴う。落ち着いて考えれば解る筈なのに──社会的に死ぬ。


 あの老人も、制限速度を守って走ることに拘泥してきた人生だったのかもしれない。寧ろ

プラス十キロ二十キロと越えて効率を急く周りに、鬱屈した正義感を抱えているような御仁

だった可能性だってある。

 別に、老人を殊更悪者扱いする訳ではないが……しばしばニュースや知り合いからの伝聞

などでは、コンビニなどの店員に大声で怒鳴りつけるといった例がままある。ああいう手合

いは、単に耳が遠かったというのもあるのだろうが、一方で自身の聞き取れなかった・聞き

取って貰えなかった苛立ち──自尊心プライドの問題も絡んでくるとも云う。周りからすれば“厄介

たにん”だが、本人的には止むに止まれず発揮された爆発といったパターンも案外少なくない

のかもしれない。


『おい、止まれェ!!』

『何だゴラァ! 出て来いよ、出て来いっつってんだろ!!』


 攻撃性。

 まさかとは思うが……もしかしたら私も、一歩間違って激情に呑まれて戻れなくなれば、

昨今世間を悩ませる煽り運転の犯人などに豹変しまうかもしれないのだ。他車両の、些細な

こちら側への行動(追い越し・軽いクラクション等)が切欠で、攻撃された──気分を阻害

されたと誤解。防御としての反撃に出る、という理屈は十分にあり得る。まあ感情的になっ

て暴れ出す時点で、理屈も何もあったものではないのだが。

 だが私達には、大なり小なりそんな暗い刃のようなものが精神に埋まっている。動物だっ

た頃の牙とでも言おうか、原始的な名残とでも言おうか。とかく恐ろしいではないか。

 私には……凶器が。

 今も潜んでいる邪悪が──。


 ***


「た……。あなた」

「ッ!?」

 “攻撃しているのはどっちだ?”

 瞼の中で映し出されている場面シーンが、気付けば主観なのか客観なのかさえ判らなくなってい

た。そんな私を現実に引き戻してくれたのは、気持ち大きく声を張って呼び掛けてきた、妻

の一言だった。

 ハッと我に返り、数拍周りを見遣る。

 会社……じゃない。そうだ、あの後定時まで仕事をして、家に帰って来て……。

「もう。全然返事をしないと思ったら、ソファーに座ったまま寝ちゃって。そんなに疲れて

いるなら、先にお風呂入っちゃう?」

「……いや、大丈夫だ。少し目を閉じていただけでも、大分楽になった」

 当然ながら、彼女は今朝の私のことを知らない。

 ヒーターの近くで暖めた洗濯物を畳んだ後なのだろう。洗濯籠いっぱいの家族全員分の服

やら靴下、ハンカチやらを一纏めに、妻は怪訝な様子で私を見つめていた。多少言い方に棘

があるのは昔っからだ。その実きちんと心配してくれているのを知っているから、この時も

私はつい強がりを言ってしまう──事実、一眠りした効果は如実に肉体の疲労を解してくれ

ていた。少なくとも嘘ではなかろう。

「そう?」

 妻も妻で、かと言っていつまでもこちらに掛かり切りになっているという訳にもいかず。

 暫くその場で、こちらをじっと睨むように見つめたまま、彼女は再び前に抱えた洗濯籠と

共に歩き出した。のしのし、リビングの奥へと進みがてらなその背中に、私は何気なく会話

を投げる。

「……ちょっとばかり、夢見が悪かっただけだ。あれだ、あれ。煽り運転してきた相手に車

を止められて、因縁をつけられて──いや、あれは私だったのか? 私が私を観ていたんだ

ろうか? 人相かおがいまいち記憶にないな……。トンネルの中だというのは憶えているんだが」

「知らないわよ。夢なんでしょ? 無理に思い出さなくても良いんじゃない?」

「う、うむ」

 ぐうの音も出ない正論だった。最早洗濯物の方へ八割方シフトした妻から、そう実際の所

をぶん投げられての強制終了。そうさ、夢なんだから。こんな事でも一々把握しようとして

しまうのは、あまり宜しくない性分だと自分でも思う。

「そうそう。今日篤彦、部活で遅くなってるから。あたしが出られない時、玄関の鍵開けて

あげてね」

「うん? あ、ああ……。そうか、部活か……」

 強制終了。次いで妻からの、日常にまつわる連絡事項。

 どうやら息子は今夜、帰りが遅くなっているらしい。私とは違って電車通学だから、基本

自分で事故をやってというパターンは皆無なものの。

「……」

 だけども少し、心配になった。何という訳でもないが、変な相手に絡まれていやしないか

などと、想像力が嫌なアシストをしてきた。このご時世だ。眠気覚ましも兼ねて、ソファー

から立つとスマホを取り出す。

「念の為、今どの辺りか訊いておこう。夕食のタイミングとかもあるだろう?」

「返ってくるか分かんないわよ~? まあ、あなたにしては気が利く方じゃない?」

 当初、こんな板一枚で何が出来るものぞと思ったが……慣れれば便利なものだ。私は妻に

そう皮肉っぽい礼を言われながら、息子にメッセージを送った。

 何かの切欠でヒトが豹変するのなら、同じく何かの切欠で落ち着きを取り戻す──そんな

奇跡に賭けてみたっていい。少なくとも一呼吸置くことで、大抵の衝動いかりは鳴りを潜めるもの

だと、私達は知っているのだから。


『母さんから聞いた。今、どの辺りだ?』

『駅? 三ノ口過ぎたとこ』

『珍しいな。何かあったん?』

『いや、別に何か起こったって訳じゃないんだが』

『気を付けて帰って来いよ』

『今夜はグラタンだと思う。入れ物とマカロニが見える』

                                      (了)

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